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短編小説『ノーウェジアン・フォレスト』

 幻想的な森――地上から近い位置でぐにゃりと枝分かれし、まるで絡み合っているようにも見える木々の間を、白い霧が立ち込めていた。木や草の発する青い匂いが次第に濃くなってきた。遠くに霞む木の幹が重なり合い、どこへ向かえばいいのか、益々混乱してくる。

 会社の転勤で見知らぬ土地に移り住んで、そろそろ一ヶ月。高級とは言えなくても、内装は比較的きれいで部屋も広いワンルームマンションで、家賃は以前よりも高くなったが、あのボロくて狭かったアパートから抜け出せたことが何よりも嬉しかった。だが、慣れない交通機関での通勤や従前とは全く異なる業務、そして職場には、やたらと叱りつけてくる人間性に欠けた上司や、労わる素振りも見せずに他人事のような顔をして、自分の仕事だけに力を入れている同僚たち。気軽に相談できる親しい友達や家族が傍にいないことも相まって、ストレスと孤独感に苛まれる毎日。
 休日、自然に癒されたいという思いで、マンションから程近い森に初めて足を踏み入れ、興味本位にぶらぶら歩いているうちにすっかり迷子になってしまった。辺りは薄暗くなってきて、目の前には不気味な様相が呈していた。冷気が肌寒くて、身震いする。

 途方に暮れながらも足を進めていると、人影があるのに気づいた。近づいていくと、若い女性が折りたたみの椅子に座り、スケッチブックに絵を描いていた。傍に寄ると、彼女は、はっと顔を上げた。
 目が合ったとき、軽く眉を上げて覗くように見つめるその瞳に吸い込まれそうになった。やがて、彼女はくすり笑みをこぼして、視線を足元の小鳥に注いだ。
「あのっ、ちょっと、いいですか?」と僕は尋ねた。
「ん、何?」
 絵描きに没頭しながら、訊いてくる。薄い闇の中にある彼女の横顔の愛らしさが、僕の胸を疼かせた。
「いや~、そのぉ……ちょっと、道に迷ってしまって……」頭をかきながら、「その、この森から出るにはどっちに行けばいいか、教えてもらえませんか?」
「ちょっと待ってね」
 立ち上がると、道具を片付け始めた。
「ねぇ」
「はい?」
「よかったら、ひとまず私の家で休んでったら? すぐそこだし」
 そう言うと、彼女はゆっくりと歩き出した。僕はしばらくためらったが、このまま当てずっぽうに歩いていても今日中に家に帰れないような気がしたので、仕方なく後に続いた。
 森の奥のほうに進むと、木に囲まれた小屋がぽつんと立っていた。
「あのー」浮ついた声で。
「ん?」
「まさか、ここが、家?」
「そう」
 彼女はさらりと答えた。
「森の中もけっこういいもんだよ。静かで絵描きに没頭できるし、自然も豊かだし」
 分厚い木の扉を開ける。
「へぇ~、女流画家を目指してるんですかぁ」
「まあね。さっ、とりあえず上がってよ」
 中に入ると、そこには、静かに澄んだ、それでいて和むような空気に満ちた空間があった。初めて来たのに、なぜか懐かしい感じがする。
 木材で内装されたウッド調の部屋に、彼女は「素敵でしょ? この木、全部ノルウェー製なの」と笑顔で言った。
 僕は首を傾げるも、とりあえず「いいですね」と苦笑ながらも答えておいた。どうしてノルウェーなのか全く意味がわからなかったが、彼女が言うように素敵なのは確かだ。
「遠慮なく、くつろいでいってね」
 彼女は暖炉に火をくべてから、部屋を出て行った。僕は、画材などが散乱している敷物の上に腰を下ろして、部屋を見回した。身近な街並みと、山や海といった自然をモチーフにした風景画に、花や果物を描いた静物画など、彼女が描いたと思われるそれらの絵があちこちに飾られていた。霧立つ森の光景が描かれた絵に目を留める。鉛筆で薄く線をひいた上に、水彩絵の具であっさりとした色が乗せてあった。

 しばらくして、彼女はワインとグラスを持って戻ってきた。
「おまたせ」
 それらを敷物の上に置いた。
「あ、どうも」
「はい」と僕にグラスを渡し、ワインを注いでくれた。
「じゃあ、一緒に飲もっかぁ」
「あ、はあ」
 お互い乾杯した。
 僕は彼女の様子を窺いながら、居心地悪そうにゆっくりと飲んでいった。
「あの~」
 僕は思い切って尋ねた。
「何?」
「この森から出るにはどうしたらいいのか、教えて頂きたいんですが?」
「ああ、それね、うん、それなんだけどね、まだ時間はたっぷりあるんだしさぁ、ゆっくりしていってよ。久しぶりのお客さんだし」
 人懐っこい人というか、無用心というか……すぐここから抜け出しても、やはり途方に暮れてふらふらとさまようことになるだろうから、このまま気長に付き合っていくしかない。
 しかし、一杯を飲みきると、さっきまでの緊張の糸が一気に弛み、穏やかな気分になってきた。
「すごいよなぁ」
 僕は彼女から絵画へと視線を移した。
「これ、みんな君が描いたの?」
「そうだけど」
 僕は何度か絵画展に足を運んだことがあるが、そこで見たどの作品も何だか抽象的でわかりにくかった。彼らには彼らの世界観があるのだろうが、客に対して『空気読めよ』とでも言いたげなその作品に興味が惹かれることはなかった。しかし、彼女の作品は違った。様々な絵がこの部屋にあるが、その中でも僕は特に、風景画に目を奪われた。それは、鉛筆の薄い線の上に淡い水彩絵の具を重ねてあるものだったからすぐに目に馴染んだし、それはわかりにくい作者の『世界観』などではなく、作者の見た『世界』そのものが映し出されているようで好感がもてた。
「すごく上手いよ。ほらっ、あの川原の絵なんか、全体的に穏やかな雰囲気を醸し出してて、色加減なんかも見事だし」
「あったり前じゃん!」彼女はいたずらっぽく笑った。「風景画だけは特別なの!」
 ワインを飲みながら、僕は彼女の話に耳を傾けた。2~3ヶ月に一回は貸画廊で個展を開いているのだが、客足がほとんどなく、絵も一枚も売れないのだという。週に三回、アルバイトにも行っているが、収入は極めて少ない。いろいろとやりくりに苦労しながら、次の個展のためにお金をこつこつと貯め、いつかは美術館で個展を開くのが夢だという彼女。
「画家で食べていくのは大変だってわかってるけど、絵を描くことしかとりえがないから私」
「でも、すごいよそれって」
「いつか生計が立てれるようになったらいいんだけど」
「いや、立てれるよ。絶対立てれるって。だってさ、上手いもん、ほんとに」
「もう、そんなにおだてないでよ。でも、実はすごく嬉しかったり」
「うん?」
「知らない人に上手いって言われたの、初めてだし」
「……いや、ほんとに上手いなぁって思ったから」
 僕は照れ笑いを浮かべて、「よかったら君の絵、僕に売ってくれない?」と訊いた。
「ありがと。でも売らない」
「えっ、なんで?」
「恥ずかしいから」
「どうしてだよ?」
「もっと、たくさんの人に認められる画家になってからじゃなきゃ、なんか嫌」
「そ、そぉ」残念に思いつつも、「わかった、そうするよ」
「ありがと」
「じゃあさ、せめて今度個展開くとき教えてよ。絶対足運ぶから」
「わかった。帰るときにでも案内状渡すからよろしく」
「また、これからも頑張ってよ」
「うん」
 彼女はご機嫌な顔でワインを口にした。笑顔が本当に可愛い人だ。芸術家は個性的で変わっている人が多いけど、彼女においてはそんなふうには全く感じない。肩下までかかるストレートの黒髪と色白な肌、小柄だがスレンダーで全体的に清楚な雰囲気が漂う彼女には、絵描きというイメージよりも、森の妖精という言葉のほうがしっくりくる。
「そうだ」
 何を思い立ったのか、スケッチブックと鉛筆と絵の具を取り出してきた。
「どうしたの?」
 眉をひそめる僕を尻目に、彼女は鉛筆を持った手を動かす。
「動かないでね」
「何してるの?」
「絵、描いてんの」
「僕を?」
「そう」
「でも、ちょっと、恥ずかしいよ」
「お願い、描かせて!」
 押しの強い口調に圧倒されて、僕は姿勢を正した。
 真剣な表情で、絵と向かい合っている。彼女が僕を見つめ、絵を描いていくのを眺めていた。彼女にしっかりと見てもらうのは、悪くないかもしれない。
「寒くない?」
「いや、大丈夫だけど」
「ところで、いくつなの? 何歳?」
 不意にこんなことを聞かれて、びくっとした。
「先月で三十になったとこ」
「へぇー、そうなんだぁ」
 彼女は僕と手元を見比べながら鉛筆を紙に薄くこすってゆく。
「まだまだ若いんだね」
「いや、もう若くないよ全然。もう三十になっちゃったわけだしさ。仕事の疲労なんかも、以前より増すばかりだし」
「大変なんだね」
「ああ、ほんとに。いろいろ腹立つこともあるしさ。でもまあ、それはそれとして、嬉しいこともあるよ」
「嬉しいことって?」
「君に出会えたこと」
「何それ。全然笑えないんだけど」
「君は、ちなみにいくつ?」
「うーん、いくつに見える?」
「さあ、わかんないなぁ」
「じゃあ、わかんないってことで」
「なんだよそれ」
「はい! 動かない!」
 それからも、趣味のことや、好きな音楽、最近見た映画などなど、他愛のない話が弾んでいく間、彼女は楽しそうな様子で描いていた。


         *


「できた!」
 そう言って、絵の具の筆を置いた。
「動いてもいい?」
「うん、いいよ」
 肩がこってしまったが、何だか不思議なひと時だったような気がする。
「さっそく見せてよ」
 彼女は少しためらったが、ゆっくりと絵を僕に差し出した。それを見るなり、違和感を覚えた。これは、僕だ。しかし、これは僕だろうか。そう思ってしまう。彼女から見た僕は、こんなふうに見えていたのだろうか。絵に写っている僕は、確かに美化もされていないし、悪く描かれているふうにも見えない。イケメンのピラミッドの真ん中より三段下くらいの、いわゆる普通のおじさんだ。しかし、目が、悲しげだ。茶色い目の向こう側には確かに憂いが見える。眉毛の外側には、確かに憂いが見える。僕はこれほど寂しそうな、鬱屈とした表情をしていたのだろうか。
「どうしたの?」
「いや、なんでも……」
 僕の目は霞み、熱いものが溢れる感覚が走ると同時に、顔全体が熱を発したように感じた。僕はその熱さに泣いているのだと思った。僕は顔を伝いおちる雫が絵に落ちないように気を配った。
「どうしたの?」
「わかんないけど……なんか、悲しくなって……」
「うーん、たしかに寂しそうには見えたからねぇ。さっき話してるときも、顔は笑ってても、目が笑ってなかったし」
「そんなふうに見えたんだ」
「うん」
「そっか……」
「まっ、どんな悩み抱えてんのかわかんないけど、私でよければいくらでも聞いてあげますわよ」
 彼女はグラスにワインを注いでくれた。僕は頬を弛ませ、それを一気に飲みきった。立て続けに彼女が注いでくれて、僕はまた一気に飲み干した。再び彼女が注いだので、僕はぐいぐいと飲んだ。
 酔い心地が増してくるとともに、開放的になり、口から滑るように愚痴が出てきた。慣れない環境と職場の人間関係で仕事も軌道に乗らず、やきもきしている、と。
 しかし、彼女は憫笑するばかりだった。
「そんなに笑うことないだろ」
「だってぇ、そんなことぐらいで、落ち込んでんだもん」
 僕はワインをあおった。
「付き合ってた恋人がいたんだけど、転勤で遠くに引っ越したら、あっさりと別れちゃったし」
「その程度の女だったってことじゃん」
「でも、十年も付き合ってたんだぞ?」
「ほー、そうですか。それはそれはさぞかし親しい仲だったんでしょうね。それでも、結局は愛がなかったように私には見えますけど」
「何ぃ?」
 彼女は僕のグラスにワインをついだ。
「年月が長いとか短いとかよりも、要は、お互いの愛が強いか弱いかで決まると思うんだけどね。かといって、愛が強すぎても、その分、裏切られたときの憎しみも強くなるだろうからダメだし、結局は、程よい関係が一番いいんだよ。冷たすぎず、熱すぎず、ぬるい感じが」
「うーん、関係はともかくとして、今は独りぼっちだしなぁ」
「そんな悲観的な態度じゃあ、誰も寄ってこないよ。何事も明るく、ポジティブにいかなきゃ」
「そりゃあ、まあ、そうだけど……」
「人生なんて良いことばっかじゃないし、嫌なことも、落ち込むようなこともたくさんあるけど、かえって波乱万丈のほうが面白そうだし、生きがいもあるって思わない?」
「そうか? 幸せがずっと続くに越したことはないけど」
「そんな甘い考えじゃダメ! 大変な目に遭ってもっと精神を鍛えて、人間として強くなんないと」
「でもなぁ、嫌なもんは嫌なんだしさぁ。やっぱ、上司に怒られてばっかってのも……」
「ねぇ、ぶっちゃけさ、軽いように見られてんじゃないの?」
「へ?」
「遠慮ばかりしてしまい、口にガムテープ貼ってる状態で、もう言われるがままだったりとか」
 見透かされているようで、なんか悔しい。
「もっとさ、あらがうぐらいの気持ちを持たないと」
「えぇ? そんなの、できるわけないだろ?」
「なんで。言いたいことがあれば、気にせずどんどん言えばいいのに。それで干されちゃえばいいじゃん」
「なんてこと言うんだ。こんな時代に職失ったらどうすんだよ?」
「それぐらいのほうがいいよ。吠えて吠えて噛みついて、呆れられてるほうがさ」
「やだよそんなポジション」
 しかめっ面の僕に、「まあまあ、何でもプラス思考でいきましょうよ、ね?」となだめるようにワインを注ぎ足してくれた。
「別れた彼女にしたって、たとえそのまま結婚していても、ぎくしゃくした関係が続いてたかもしれないし、離婚になれば慰謝料や何やで面倒だから、かえって良かったんだって、そう思いなよ」
「……うん」
「とにかく、良い人生を送りたいって思わないこと。そういう思いが、自分をどん底に陥れるんだからね」
「あぁ、わかったよ」
「幸せそうな人を羨ましく思ったり、貪欲になったりせず、普通に生活してれば、幸せが目の前に現れてきて、きっと、周り全てがもう、幸せに思えてくるはずだから。うん、それを信じて頑張ったらいいんじゃない?」
「ありがと」
「へ?」
「君と話してると、元気になってくるどころか、なんか清々しくなるんだよなぁ。うん、ほんとありがたいって思うわ」
 僕は、上に両手をぐーっと伸ばした。
「もっともっと君といたら、もっともっと幸せになれるかも」
「何それ。私をくどいてるつもり? あぁーっ、やだ! これだから男はもぉ!」
 彼女はふと壁にかけてある時計のほうへ顔を向ける。
「あっ、もうこんな時間」
 釣られて目をやると、午後十一時を回っていた。
「よかったら、泊まってったら?」
「いや、でも、それは……」
「いいからいいから」
 彼女は立ち上がった。
「じゃ、私、先にお風呂入ってくるから、待っててね」
 そう言うと、慌てて部屋を出て行った。
 思わず胸が躍った。彼女のやさしさを僕はひしひしと身に染みて感じた。そして、まさか――と淡い期待も抱いてしまった。高ぶる感情を抑えつつ、部屋の隅にある、イーゼルに立てられた描きかけのカンバスを鑑賞した。中央には、裸体の女が寝そべっている。ぽっちゃりとしているがメリハリのある体をしていて、良い具合に肉感を出している。弓形の眉に、大きい眼と泣き黒子、少し尖ったような上唇が気だるそうで、男を誘っている魅惑的な表情を粗い墨の線で上手に描かれている。外人のように見えるが、いったい誰をモデルにしているのだろうか。そんなことを考えていると、おのずと彼女の体のことが気になってくる。酔いがまどろみへと変わっていく中で、幸せな気持ちが体中に伝わってきた。
 清楚な中にも控えめながら、女性らしい色気もほのかに感じる。トレーナー胸元が優しいカーブを描きながら程よい膨らみを見せているし、スカートの上からは小さめの形の良いヒップの微妙なラインが想像できる。ロングスカートの裾から覗く細い足首の色の白さがまぶしい彼女……淫らな妄想ばかりが頭に浮かんでくる。

 部屋に戻ってきた彼女を、僕は笑顔で迎えた。が、彼女は歯ブラシを口にくわえたまま、パジャマを身に着けていた。
「もう、寝るんだ」
 彼女は頷く。
「悪いけど、床で寝てね」
「なあ」
 僕は白いベッドに指をそっと指した。
「せっかく仲良くなったんだしさ」
 彼女は、怪訝なまなざしを僕に向ける。
「こっちは暇だけど」と言ってみても何も始まらず、ただ「早くお風呂入っちゃって」と冷淡にあしらうと、そそくさと部屋から立ち去っていった。
 僕は、床に大の字に転がった。下の膨らみがしぼんでいくのを感じながら、大きく溜息をもらした。わかってはいたことだが、相手を求める気持ちが強すぎたため、甚だ不服だった。彼女を抱いたら、沈んでいた性欲が満たされるばかりか、これまでの嫌なことや辛いことなど何もかもきれいにさっぱりと吹き飛ばしてくれそうで、最高の幸福感に浸れそうだったのに……。
 部屋に戻ってきた彼女に、適当にどこかで寝るからと告げてから、ふらふらと風呂まで行った。体と髪を綺麗に洗い、少し冷めた湯船に浸かった。彼女の甘やかな匂いがほんのりと漂うお湯に体をあずけ、ただ、ただぼんやりと、しばらく至福の境地を味わった。

 翌朝。
 涼やかな小鳥のさえずりで、目を覚ました。小さい窓から外を見ると、光が差し込み始めていて、森は青みを帯びていた。
 風呂から出ても、誰かがいる気配がなく、やけに静かだった。
 彼女が寝ていた部屋に入ってみると、中はがらんどうだった。
 開けっ放しの窓からは、木々の緑しか見えない。手摺りに寄り、煙草を銜えてライターの火をつけたら、風ですっと消え、梢がざわざわと音を立てて揺れた。黙って、耳を澄ませた。
 何だか自分は今、ノルウェーの森にいるような気がする。〈了〉

※ 第 1 1 0 回 コ ス モ ス 文 学 新 人 賞 短 編 部 門 佳 作


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