死にあふれている。

希死念慮とは無縁に生きてきた。
死にてえと言ったことは何度もあったが、言葉の表面でのことだ。
身内に希死念慮の強い人がいるので常々感じるが、「死にたい」という気持ちにもバリエーションがある。
多様な理由によって、人間は死にたくなってしまう。

いずれにせよ人間は死ぬので、死ぬことがいけないというわけではない。今年曽祖母が亡くなったが、死ぬことそれ自体で彼女を責めることはできない。

何が言いたいのだろう。分からなくなってきた。
死にたい人は溢れかえっているし、特に目立った信仰も持たない自分は、他人の死に口出しすべきでないと思う。
死にたい?お好きに召されよ。
でも時々死にたがる妻を強硬に止める自分もいる。自分の為に止めているのだから傲慢なものだ。死なせてあげたいとも思うが。
彼女の生きたいという思いも知っている。
死にたいと思わせている人間が明確にいるので、そいつらが死ねば良い。

20代が終わるまでに、若くて綺麗なうちに死にたいと言っていた人がいた。中学生の頃。
同い年なので今年で25。今何をしているのか、生きているのかも分からない。生きていたとして、あと5年かそこらであの人は死んでしまうのだろうか。
それとも何か、今は死ねない理由を見つけられただろうか。

父親も酒を飲むと死にたいと口にする。
誰も相手にしてくれなくても、毎日働かなくてはならないと。
仕事も家庭も彼の孤独は癒せない。

いや、人は皆孤独なのだけど、と思ってしまうが、本当の意味での孤独など俺は知らない。ずっと誰かしらの側にいたのだから。

家庭のなかでひとり。学校のなかでひとり。世界でひとり。宇宙でひとり。
ひとりだと死にたくなる。死にたくなる?
結構みんなと一緒だと死にたくなったりするけど。

俺は物語から切断されてるときに死にたくなる。ロールから外れること。文脈から放逐されること。
コズミックホラーが成立するのは、人間の物語が、より広大で大きな存在から徹底的に疎外されるからだ。ささやかな私たちの物語は塵芥も同然。

これは仮説だ。
人を人たらしめるが特定の物語なら、大きな物語が死に絶え、小さな物語がより細分化され文脈を失いつつある現在、これだけ自殺者と死にたい人間が増えているのは当然のことのように思う。

生きるために物語が必要か。
生きるのに飯と金と絆だけでは不十分だ。
物語はその不足を補うのだろうか。

多分どこかで、古風な物語を信じている。
フィクションと言い換えてもいい。
嘘、空、無、なんとでも呼べば良いが、そういった「実態のないものを信じるという欺瞞」が今日まで俺を/人間を生かしてきたのではないか。
最後まで何も信じ(られ)なかった人が望んで死んでいくのではないだろうか。

今日も他人の死にたい気持ちはわからない。
他人の希死念慮を前にして、彼我の谷間を覗き込むだけだ。
ただ、他人と生きていくために、橋のかからない深い谷間を見つめ続けるのだ。

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