見出し画像

父娘の話

自分で父について書こうと決めたのに、何から思い出そうか、どう書こうか、あまりすんなりとはいかない。でも、ゆっくり感情を整理しながら書いてみる。

現在父との関係はあまり良くないが、小さい頃はパパっ子だった頃もあった。大学時代油絵専攻だった父は絵が上手かったり、ずっとボクシングを習っていたのもあってがたいが良く(アンダーアーマーのマネキンそのままを想像してほしい)、体を鍛えるのが趣味で、小さい頃の私にとってはかっこいい自慢の父親だった。健康志向の母が許してくれないお菓子を内緒で買ってくれたり、いつも短時間しかやらせてもらえないゲームも父と一緒なら長めにやらせてもらえた。映画もよく2人で観に行った。

そんな父は水商売で昼夜逆転の生活を送っていて、毎日17時に起きて真っ黒なスーツを着て出勤していた。そのため家族団らんの時間とは無縁だったが、父が出勤するときは姿が見えなくなるまで見送っていた。夫婦喧嘩して父が拗ねてエレベーターの中で後ろを向いてしまっても母はちゃんと見送っていたのも思い出した。母が「人間いつ死んでしまうか分からないし、見送らなかったことを後悔するかもしれないでしょ?」と言っていたのを幼いながらに、そうだなあと納得したのを覚えている。

私が中学生になると、父の悪いところがよく目につくようになった。食べ方が汚い、食事中も携帯ばかり触っている、汚したものをそのままにして去ったり整理整頓ができない、常に自分の母親の肩を持つ...など。特に外食は恥ずかしかった。上品なイタリアンレストランに行っても絶対何かをこぼすし、携帯ばかり見ている。そして、必ず店員さんにはタメ口だった。1度「パパは接客業で店員さん側の気持ちを分かるはずなのに、なんでタメ口なの?」と聞いたことがあるのだけれど、「そうだよパパちゃんと分かってるよ〜」というような言葉が返ってきて、"ああ何にも分かってないわ"と私はそれ以上話すのを諦めた。日々うんざりするようになって、こんな男と結婚した母親が可哀想だと思うようになっていた。母になぜこんな奴と結婚したのかと聞くと「パパはママのことが好きなんだから結婚したら全部言う通りにしてくれると思っていたんだ〜」から始まっていつも最終的には「パパと結婚しなかったら〇〇ちゃんに会えなかったからね」と言っていた。

父親との関係が完全に壊れたのは高校2年生の頃だった。高校に入ってからは父親の言動に失望してもうダメだと思ったことは何度かあって、"失望する"ってこんな感じなのかと不思議な気持ちになったりもした。それでも私はちゃんと生きていて成績も良く人生で初めて学校生活が楽しかった。高校2年生になる前の2ヶ月間は学校のカリキュラムでオーストラリア留学が組み込まれていて何事もなく大好きなクラスメイト達と共に初めて異国の地へ旅立った。自分の殻を破るんだと意気込んで行った留学先ではホストファミリーにも恵まれ楽しい生活を送っていた。

帰国が近づいてきた頃母から1本の電話があった。内容は離婚することになったから帰国したらすぐに引っ越すといったものだった。私もそれまで嫌になったら離婚してもいいからね〜などと言っていたりもしたので特に驚くこともなく取り乱すこともなく電話は終わった。そこまでは良かった。電話が切れた瞬間、何かの糸がプツっと切れたように私は泣き始めた。夜に部屋でひとりで涙が止まらなかった。別に離婚が悲しいわけではなく、むしろポジティブに捉えていた。今はなぜ泣いてしまったのか全く覚えていない。手帳に何か書いてあるだろうか。

留学を無事に終え、帰国した私は "帰ってこなければ良かった、地獄だ"と思ったのを覚えている。その日は何もかもが上手くいってなかった。まず父と母が空港で合流して迎えにきてくれるはずだったのだが、母は時間を誤算しフライト到着の時間に間に合わず父は駐車場で待っており、他のクラスメイト達が家族におかえりと暖かく迎えられているのを私はひとりで羨ましそうに眺めていた。誰も迎えがいなかったことに少しショックを受けひとりでいるのが恥ずかしくなったので急いでその場を離れて、既に空港に来ている父親に電話した。(正直言うと長時間のフライトを終えた一人娘が25kgの重たいキャリーケースを抱えているんだからゲートまで迎えに来いやと思った) 電話に出た父は、びっくりするほど乱暴な口調でただ駐車場まで来いとだけ言った。場所が分からないから来てほしいとお願いしたが聞いてくれなかった。先ほど自分だけ迎えがおらずショックだったのと、帰国したばかりなのに突然理不尽にひどい扱われ方をしたことで我慢していた涙が堪え切れなくなり急いで電話を切った。結局空港について良く知らなかったので駐車場までたどり着けなかった。

母に事情をLINEで送り空港内で母を待っていると、なんと父親の姿が見えた。なぜ泣いているのかと聞かれたけれど、「パパのせいだよ!!」と言ったって面倒くさくなることが目に見えていたので無視して無言で母が来るのを待った。そのあとすぐ母が到着して申し訳なさそうに何度も謝ってくれた。家に帰るまでの車中でも私は怒りやら寂しさやら色々な感情が渦巻いていて涙が止まらず、また父はそれに機嫌を悪くしていた。

それから少し経って、無かったことにしようかとも思ったが父親にその日の怒りを全てぶつけることになった。あの日何をどう思ってなぜ泣いたか、傷つけられたことを知ってもらおうと思った。私は極度に怒ってしまうと泣いてしまうので、思い出すのは辛かったけれどまた泣きながら最初から最後まで説明した。謝ってくれるのを待った。分かってくれると思った。けれど聞こえたのは「それで全部?」の一言で、まるで駄々をこねる娘のわがままを黙って聞いてあげましたよ,自分は包容力のある父親だ というような顔をして私を見ていた。哀れんでいるような目をしていた。その表情が、目が脳裏に焼きついている。16歳の私にはしんどいことだった。こんなに頑張って話したのに彼には何1つ届かなかったのかと思った。心にぽっかりと穴が開いた。4月だった。

両親が離婚したので4歳から続けていたバレエを辞めバイトを始めた。学校からバイト先に直行して働き詰めの毎日を送り心も体も疲弊してしまっていてもう頑張れないと泣いた。勉強もしたいのに疲れすぎてしまっていて頑張れないことが悔しくて泣いていた。成績はどんどん落ちていた。そんな時に月に1回家族3人で食事をすることに決まった。両親は円満に離婚したのでずっと連絡も取り続けていたが、私はLINEもブロックしてずっと父親の存在を消して暮らしていたので当たり前に嫌だった。2ヶ月振りくらいに父親に会ったのだけれど、私は彼の目を見れなくなっていた。それに傷ついた記憶と感情が全てフラッシュバックして2回もトイレに駆け込んで泣いた。食事どころではなかった。

夏にはバイトを辞めた(ちょっとブラックだったので辞めて良かった)。結局いつも夜になるとひとりで泣いていた。何も考えていないのに勝手に涙が出て自分でさえ泣いている理由が分からなかったりした。心が空っぽで素敵な音楽をずっと流した。色んな感情を必死に忘れようとして毎晩のように泣いて涙が枯れないことを知った。そして秋になったときに、また理不尽に父方の祖父母から叱られてしまい、意味が分からず怒りが湧いて泣いた。もちろん父は祖父母の肩を持った。

母は私にちゃんと父に連絡しなさいよ〜って言ってきたり、父との会話の内容を話してきたりした。母は私と父にあった出来事についてはずっと避けているような態度で、私にはそれが辛かったし父の話もしないでほしかった。母は「パパは〇〇ちゃんが離婚しないでほしいって言ったり寂しがったりしなかったから拗ねたんだよ。いつか大人になったらパパの気持ちも分かるようになるよ」と言っていた。

年が明けたころか...母からのLINEで父から私に謝罪文が送られていたことを知った。きっかけは同僚が酔っ払って転倒して亡くなったからだそうで、人間いつ死んでもおかしくないから仲直りしたいと思ったらしかった。文は全て敬語で書かれていて父親失格だとも書いてあった。そのLINEで母のためにもお互いに謝って仲直りということにしたが、電話番号は知っているんだから、ごめんねの一言でいいから口頭で謝ってほしかった。わがままだろうか。心が狭いだろうか。未だに父の口からごめんねが聞きたかったなと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?