居住地 その二(自己満足長文)

 小2になる時、両親が一軒家を購入した。郊外の大規模な造成区画ではなく、何でこんなところに?といった感じの小規模な建売住宅地である。川崎市ではあるけれど、子供にとっては山岳地と言えるほどの丘陵地だった。竹藪と原生林とススキ野原に囲まれた集落だった。親は無理をしたのだろう。母親が勤めに出た。賃貸住宅の専業主婦家庭ではなく、持ち家の鍵っ子であった。
 小学校までは岡(山)を2つ越えて行くような、未発達な郊外だった。町に歴史も由緒もカラーもなく、フルサトとかコキョウなどとはとても言えないような町。大手企業の社宅が沢山あって、短い子だったら半年で転入して転校していった。その後、大学卒業までこのカオナシの町に住むことになる。

 カオナシの新興住宅地は、学習レベルと生活レベルがそこそこ高く、当時はまだメジャーではなかったが、私立中学受験者が少なくなかった。自分もその波にのまれたが、中の中レベルの新宿区のボンクラ学校に進学し、カオナシの町との縁は、ますます薄くなっていった。
 カオナシの町との関係が薄れた分、新宿や渋谷を知ることとなる。多感な時期に煌めく繁華街を闊歩し、様々な刺激的な遊びと人脈にのめり込んでいった。女の味も男の味もこの頃に覚えたものだ。
 大学はちょっと頑張って豊島区に通ったが、相変わらず煌めく大都会、しかも時代は平成に変わって若干の自粛ムードはあったものの、時はバブル期。若い肉体を弾けさせないわけがない。車の免許を取り、様々な町や観光地に行って楽しんだ。

 さて、祭は終わり就職。このまま調子に乗って、世界に飛び出そうかと考えもしたが、部活しかやってなかったチャラチャラした自分は、大学のOBに言われるがままとある(一流ではないが)名門企業に入った。
 海外勤務を希望はしたが、初任地はなんと札幌。親戚も知り合いもいない、イメージ的にはとてもとても遠い、雪に閉ざされたうら寒い町。
 泣いたね。
 生きていけるんだろうかと。
 一人暮らしには憧れていたけど、東京や大阪の大都会のマンションで、いわばやりたい放題連れ込み放題の目眩く生活を望んでいたのだ。
 共同風呂、食堂付きの独身寮。飯の心配はないが、けっして連れ込めない部屋。
 しかし、札幌とは非常に美しく風情と特徴的な歴史もあり、何よりサイズ感が良く便利。そして、美味いし。冬は長く厳しいが、キャンプゴルフウィンドサーフィンスキードライブなど、遊びに事欠かない。ススキノにはありとあらゆる歓楽が詰まっているし!セックスに対しおおらかな風土があるように思せえた。
 「俺は札幌に生まれてよかった〜」などと、大きな勘違いを敢えてしながら楽しんでいた。

 札幌で4年が経った頃、福岡への転勤が言い渡された。まだ行ったことがなかった納沙布岬に行ってきたが、離島に行かなかったのが心残りだった。ススキノの飲み屋に溜めたツケ約30万円を集めた餞別で清算して新千歳から福岡への直行便に乗った。
 寝て起きたら福岡空港。蒸し暑さにゲンナリしたことは覚えている。おおらかな人柄の北海道とは違い、福岡は大昔から大陸の玄関口だったからか、新参者に対し興味津々なのを隠さない。どちらも受け入れようとするスタンスなので、転勤族には嬉しい町だ。
 暑さに慣れるまでは大変だったが、札幌北海道ライフをエンジョイしたのと同じように、福岡九州ライフを堪能した。九州各地の女のいる店、男のいる店も味わい尽くした。
 結婚して子供ができてマンションを買って、転職して離婚して関東に出ていくまでに20年近くの時を過ごした。時代も自分の星回りも悪かったのだろう。自分を福岡から引き剥がすように、神奈川県川崎の実家筋に身柄を移した。
 都内の企業に縁があり、色々とヒビが入った人生を立て直して行った。実家筋から出て改めて自分の家(マンション)を購入した。大分無理というか、贅沢をしたかもしれないが、そのおかげで双子の娘たちが都内の大学に進学した時の生活の拠点とすることができた。離婚したが、4年間は生活をともにすることができたのだ。

 そして、双子たちが卒業し就職して手が離れたので、生活のダウンサイジングのために川崎から横浜に引っ越したのだ。

 ここでの生活は始まったばかりで、終の住処になるかどうかはわからない。職場からも遠くなったものの、落ち着いた生活ができそうな予感がしている。
 

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