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自己肯定感が低い、完璧主義、全力
そう評された時に「なに言ってんだ」と思う3種の神器である。
自己肯定感が低いは自己肯定感が高い
自己肯定感が低い、と自称するのは自己肯定感が高い証拠ではなかろうか。正当評価すれば肯定感はもっと上、というのが「自己肯定感が低い」の意味だろう。それなら自己肯定感が低いのを自称するのは「ジブンもっとできるんすわ」と言ってることと同じではないか。
とすれば、わたしの自己評価は正当である。つねに間違いを恐れ、凡ミスはあるものと思い、いつだって他者の役に立てたか心配だ。わたしはわたしの間違いを許せない。
未完の完璧主義
しかしこれはこれで、わたしならできるはずという自信からくる責めである。できるのが通常だから、できないと悪なのだ。できないというのはサボリ、凡ミス、確認不足などのなにかしらの非が自分にあるという裏打ちだ。
ある意味、自分への信頼は絶対だ。「やればミスらない」という前提があるというのは、そういうことだ。そして、ミスらないように自分で自分を監視する。忘れていないか、全力を尽くしたか、何度も確認したか……何かが完璧なら、ただの見張りの成果である。
全力なんて一生縁がない
そう、あと「全力」というのがよく分からない。いつだって次に何かする体力は残っている。何かをがむしゃらにがんばった記憶はない。自分の機嫌・体調・感覚が最優先だ。辛くて逃げ出したいのに耐えた経験は一切ない。
わたしには全力なんてない。卵を産んだ後に死ぬ品種の虫や魚みたいなのが全力というのだと思う。「ほどほど」しかやったことないし、たぶん「ほどほど」以上の力は出せない。
氷の上に立つように危なげなことをしたいし、宇宙船が目の前に降りてきた時に飛び乗る責任感のなさと体力は持っておきたい。
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