墓場珈琲店8。
わたしは、ここ数カ月ずっと飲んでこなかったコーヒーを啜った。
いつもはミルク以外飲まないのだが、今日のわたしはブラックコーヒーの気分だった。黒い液体の温かい味が、舌に染み渡っていった。
その苦みと一緒に、脳内に記憶が溢れてゆく。
わたしはコーヒーの器を机の上に置き、目を伏せる。
悪い気分と苦い味を一緒に感じながら、さらにわたしは静かに涙を零す。
***
「なんで、延命治療なんて言うのですか?」
それが、息子が医者に向けて放った言葉だった。
わたしは病院のベッドの上から、医者と息子のやり取りを眺めていた。
医者は、はっきり答える。
「助かる余地がないからです。この病は、現状治す方法がありません。脳が段々と委縮していき、スポンジ状になり、やがては機能を停止してしまうのです」
この言葉を聞いた時、わたしはさして何も感じなかったが、
今思い返してみると、当事者の前でこのような話をするのはよくないという思いが湧いてきた。
「だから、延命なんですよ」
潔白な服に身を包んだ医者の言葉は、非常にはきはきとしていた。
しかし、わたしや息子と眼が合うことはない。
「どうしますか? 自己決定権に基づき、決定権はお爺様にありますが」
「……」
もう四十になる息子は、何も言わなかった。
「……暫く、時間を貰えますか?」
「勿論です」
医者はこれまた淡白な答えで、部屋から出て行った。
これも当時は何も感じなかったが、
今になって思い返すと、部屋を出て行く口実を見つけたと、内心彼はほっとしていたのかもしれない。
「ねーねー、どうしたの?」
息子の腰の下あたりから、声が聞こえた。
しかし、ベッドの角度のせいで、わたしは顔を確認できない。
息子は「なんでもないよ」と笑った。
「じいじとお話したいから、ちょっと外で待っててくれるかな?」
「やーだやーだ! わたしもじいじとお話したいー!」
彼女は大きな声を出した。
それが愛すべき孫娘の声であるというにもかかわらず、
わたしはこう言ってしまった。
「病院では静かにせんか!」
孫娘より、息子が息を呑む音の方が大きく聞こえた。
彼は悲し気に首を振って、今度こそ娘を病室の外に連れ出す。
ベッドからの位置が遠ざかったことにより、わたしは彼女の顔を見ることができた。
それは、まるで知らない顔だった。
「……なぁ、父さん」
病室の外まで彼女を案内した後、
息子が再び歩み寄ってきた。
わたしは「なんだい」と尋ねるが、彼は即答してはくれない。
「色々……楽しいことが、あったよな。覚えてるか? 俺の娘が生まれた時、父さんもいたよな。すっごく、嬉しそうにしてくれた。まぁ、出産で妻は死んじゃったけど……」
「知らん」
わたしは断固として言った。
そもそも、こいつに妻がいたということ自体初耳だった。息子はこの反応を半ば予想していたのか、そこまで落胆の兆しは見られなかった。
ただ、病室に気まずい沈黙が流れることは避けられない。
わたしは痛む頭を押さえようとしたが、もう、それさえできなくなっていた。腕に力が入らないのである。
「延命治療……受けてくれるよな。俺……父さんのこと、失いたくないよ」
わたしは首を縦に振った。
単純明快な即答だった。
深く考えることもしなかった。
「どうせ生きるのなら、長い方がいい、よな」
しかし、なぜか息子の顔色は沈んでいた。
わたしは彼の顔に、怒りを覚える。
さっきは「受けてくれるよな」と迫った癖に、
わたしが生きるのが気に食わないのか。
「……ありがとう」
「おい、待たんか!」
息子の背中に、手が伸びた。
わたし静止も聞かずに、彼は病室の外へ出て行ってしまった。
病室独特の、横に開く扉が音もなく締まる。
一人きりになってしまった部屋に、孤独が満ちる。
わたしは窓を見た。
雪はもう、積もっていない。それが、春の訪れを告げている。
どうしてわたしが延命を受けるといった時、彼の顔色は悪かったのか。
わたしは考えた。
最近の政治や法律についてはわからない。
なんなら、最近息子が何をしているのかもわからない。
判断材料はひどく少なかった。
しかし、わたしは一つの結論に辿り着いた。
それは、金。
わたしは、伸ばしっぱなしだった手を、ベッドの上に戻した。
手は、ひどく震えていた。
震えを止めることは、できなかった。
***
次の来客は、それからおよそ二日後だった……と思うが、
途中で何度も眠ったせいで、断言はできない。
わたしの喉には呼吸器がとりつけられ、
今や呼吸器に繋がれた赤いコンセント一つで、わたしの命は左右される状態だった。
だから、病室の扉が開いた時、
わたしはてっきり看護師がやってきたのだと思った。
しかし、そこに現れたのは一人の幼い少女だった。
「おじいちゃん」
そう言って近付く彼女は、手に袋を携えていた。
わたしは少女に、こう尋ねる。
「……誰だい?」
この台詞が、彼女をうっすら傷つけることになるとは、
半ば察しがついていた。
彼女が歩みを止め、眼に涙を浮かべた。
「……わすれちゃったの?」
わたしは首を縦に振る。
それで、彼女はいっそう激しく泣く。
木霊し連鎖するその泣き声は、聞くに堪えなかった。
「……おじいちゃん、これ……お見舞い」
彼女は涙も拭わずに、わたしに袋を手渡した。
しかし、わたしはそれを受け取ることができない。
「……出してもらえるか?」
「うん」
孫娘は、袋の中からビンを取り出した。
白い液体の入ったそれは、どうやら甘酒のように見えた。
「おじいちゃん、甘酒好きって言ってたから。お小遣いで、買ったの……」
「ありがとう」
わたしは微笑んだ。
すると、孫娘はようやく顔を上げ、はにかんで見せた。
幼いころからずっと、わたしは甘酒が好きだった。それをこの子に知らせた記憶はないのが、もどかしい。
彼女から差し出されたその瓶を、わたしは両手でうけとった。
ずっしりとした確かな重みを、わたしは感じる。
わたしがまだ生きているせいで、孫娘は小遣いを削る羽目になった。
息子はわたしの延命治療の代金に、今も苦しんでいることだろう。
罪の意識を、感じざるを得なかった。
わたしは甘酒を飲まずに、声をかけた。
「……のう」
「なぁに?」
彼女は病室の椅子に座って、わたしの方を見た。
わたしは固唾飲もうとするが、うまくいかない。
「……そこに、赤いコンセントがある。それを、抜いて欲しい」
「これ?」
彼女はすぐに、コンセントを見つけたようだった。
「どうしてこれを抜くの?」
「……迷惑にならないため」
「迷惑?」
わからない、と言った。
「とにかく、それを抜いてくれ」
「わかったー」
孫娘の心に、疑心が浮かんだのは火を見るより明らかだった。
しかし、彼女は息子に似て、素直な子だった。
すぐに、プラグの抜ける音が聞こえる。
「……それでいい。ありがとう」
呼吸が急速に難しくなる。
わたしの体は本能的に空気を求めるが、二度と酸素を吸えることはない。
むしろ、それが本望だったと言えるだろう。
五感の中で最も長く機能するのは、聴覚だ。
聴覚だけは、死に際でも絶えず機能する。
「どういたしまして」
***
コーヒーが、いつもより苦かった。
わたしは死んだのだろう。
なれば、ここは来世だろう。
わたしも、大分頭が固くなってしまったようだ。
わたしはコーヒーの匂いを嗅ぎながら、自傷した。
可愛い孫娘がわたしの頼みを断るわけが無いと、知っていたはずだった。
知っていてなお、わたしは、わたしを殺すよう頼んだのである。
わたしは顔を上げた。
五人の客と、二人の店員がいた。
みんな笑顔だった。無論、わたしは除いて、である。
「……ど、ど、どうですか? おいしいですか?」
店員のうちの一人、女の方がわたしに近づいてきた。
わたしは「ああ、おいしいよ」と答えた。
彼女はほっとしたような顔になった。
「普段だったら、オーナーが淹れるんですけどね……。オーナー、わたしに淹れてみろっていうもんですから。見よう見まねで、やってみたんです……」
カウンターの向こうにいるもう一人の店員──おそらく、彼が『オーナ―』だろう──が、親指を立てた。
わたしは苦笑する。
わたしは視線を、目の前の店員に戻した。
「ありがとう、美味しいよ」
「本当ですか……?」
彼女は嬉しそうだった。
わたしは、目の前の彼女と、わたしの孫娘とを重ねていた。
そして、重ね合わせた事によってようやく、わたしは孫娘に何を言うべきだったのか、気が付いた。
「美味しいよ」
どういたしまして、と彼女は言った。
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