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1-40 春秋時代(周の東遷・斉の桓公)

  • 前775年頃:周の幽王が伯般(伯盤)を太子とする。この頃には後継争いで周は混乱していた

    • 後継を巡る争い

      • これより前、実権を握っていた皇父こうほ函皇父かんこうほか)は、幽王を置き去りにする形で成周附近のしょうへ遷都。これにより、宗周の幽王派と向の皇父派とに分裂

      • 原因は幽王の後継問題と考えられ、幽王は申后との子宜臼ぎきゅう(後の平王)に代わって褒姒ほうじとの子伯般を太子にしようとしたが、皇父の一派は宜臼を支持していたか

      • 最終的に皇父は失脚。宜臼らもその地位を追われた。伯般の立太子を受けて、宜臼は西申に出奔。申侯と魯侯は許の文公とともに宜臼を申で太子に擁立

  • 前774年頃:幽王が鄭の桓公を司徒に任じる

  • 前773年頃:鄭の桓公が東方諸国を平定して、雒邑の東、河南新鄭に国を遷す(中原における鄭の始まり)

  • 前771年頃:幽王が西申を攻撃するも、申の人々は宜臼を王に引き渡さず。周内部で混乱が起きている中、西戎(玁狁、犬戎)に降伏したそう国が犬戎と共に幽王を攻撃。結果、幽王と伯般は殺害された。これを受けて、虢公翰かくこうかんらが王子(幽王の弟)余臣を携(虢公翰の領地か)に立てる(携王。恵王、あるいは携恵王とも)。以後、諸侯らが周に朝見しなくなり、王朝は瓦解

    • 別の伝承

      • 申侯が、繒国や西夷、犬戎らとともに幽王を攻撃。首都鎬京にて、幽王と鄭の桓公、伯盤を殺害したともされる(桓公殺害は誤りとも)

      • 幽王死去からの展開は史料によって相違が大きく、時系列も定かではない。この年から西周滅亡付近までの時系列は一つの説であり、諸説ある

      • この年に宜臼が王として擁立された(平王)とする説もあり、その場合はこの年に秦の襄公が、平王の東遷にあたって護衛したことで、平王によって諸侯として秦の地に封じられたことになる。この地は山より200キロほど西の土地であった

    • この頃の虢

      • 虢には分族が多く、西虢は陝西省宝鶏市付近を領有していたが、西周末に河南省三門峡市の上村嶺に東遷したと考えられている

    • 衛の武公の活躍

      • 衛の武公は犬戎討伐軍を派遣し、その功によって公爵となった

  • 前771年頃:鄭が河南の東虢を滅ぼす

  • 前770年:一般的には、この年に雒邑(洛邑)で宜臼が即位し(平王)、春秋時代となるが、現在では否定説多数

上図:春秋時代要図。春秋時代初期には二百数十の邑制国家があったという。また、春秋時代(東周)の戦車部隊は3人乗りとなったか。なお、楚の都である郢は鄀の対岸付近にあったか。また、徐では春秋時代に王を名乗った者がいたという(徐王義楚耑ぎそじ

出典:『中国史1』

上図:春秋時代要図

出典:『戦争の中国古代史』

上図:春秋時代の諸勢力

出典:EfreedomE, CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で

上図:げき。春秋時代の武器としては戈と戟が主流であり、長い柄の先に取り付けて用いられた。なお、古代中国では、盾の代わりに、皮・金属・キルトなどの鎧を着用して防御力を高めていた

出典:Wikipedia
  • 前769年頃:秦の襄公が玁狁を伐って、周を救い、岐に至るも戦死

  • 前768年:魯の恵公が即位

  • 前766年頃の3月:東周が西の玁狁を討伐。この討伐にて軍功を挙げた兮甲は王命をうけて諸国に朝貢させる。更に彼は南淮夷(淮夷)に赴いて貢納させる

  • 前765年:燕の鄭侯が即位

  • 前762年頃:晋の文侯が宜臼を少鄂しょうがく(晋国の鄂か。鄂は今の山西省郷寧県)の地に迎え、京師(鎬京からひんまでの区域)で即位させる(平王。平王は天王を称した)

  • 前760年頃:晋の文侯が虢の地で携王を殺害し、西周を滅ぼす

  • 前760年頃平王が東遷し、成周(雒邑、即ち洛邑のこと。正確には河南県城の区域に相当する王城)に遷る(東周の成立)。晋と鄭が東遷を助けたという。ここに至り、晋が京師に進出し、鄭の武公は東方の諸侯の長となった

    • 鄭の武公の強大化

      • 武公の時代には魯・衛・りょう・蔡が来見

  • 前760年頃:曹武が曹の君主であった兄の曹兄甫を殺害して、即位(繆公)

  • 前759年1月:虢季子白が玁狁を討伐し、洛水の北で捕虜を斬首。虢季一族は虢の分家である小虢(虢季氏。鎬京と雒邑の間にあった)か

  • 前758年:衛の荘公が即位

  • 前757年:曹の桓公が即位

  • 前757年9月:虢季子白の臣下である不キ(読み方不明。キは便宜上の表記。漢字は下記参照)が玁狁を追って西兪に至り凱旋

上図:キ

  • 前754年:秦の文公が周の余民を掌握しつつ、にまで到達。岐以東を周に献ずる。これに対し、周は岐以西をもって秦を封ずる。実際は無秩序地帯となった関中平原に秦が侵攻し、周から自立したか。秦は周の文化を継承し、天命を受けたと豪語し、自らを天子と称していくことになる。なお、文公や次の静公、寧公の代に蛮方が秦に従ったという

  • 前745年:晋の昭侯が、文侯の弟である成師(桓叔)を曲沃に封じる。以後の晋では文侯を祖とする宗家(翼を本拠とする)と、桓叔を祖とする分家(曲沃を本拠とする)に分かれる

  • 前741年:楚の熊徹ゆうてつが太子を殺害して即位

  • 前739年:晋の大臣であった潘父が昭侯を殺害し、曲沃の桓叔を擁立しようとするも、晋人が潘父を殺害し、昭侯の子である孝侯を擁立

  • 前735年:衛の桓公が即位

  • 前731年:斉の僖公が即位

  • 前729年:燕の繆侯が即位

  • 前729年:宋の穆公が即位

  • 前724年:曲沃の荘伯(桓叔の子)が晋の孝侯を殺害。晋人は孝侯の子である鄂侯を立てる。荘伯は曲沃に退去した

  • 前722年:魯の隠公が即位。この年から『春秋』の記述が始まる

  • 前722年:鄭の太叔姫段が反乱。鄭の荘公がこれを討ち、姫段は出奔。姫段の子姫滑は衛に亡命し、衛が鄭を攻撃

  • 前722年:鄭が東周・虢と連合して衛を攻撃

  • 前720年:東周の桓王が、鄭の荘公に代えて虢公を周の卿士とする。周側は鄭を警戒し、虢公を重用していく

  • 前720年:鄭が東周を攻撃

  • 前720年:宋の殤公が即位

  • 前719年:秦の寧公が平陽(宝鶏市の東)に遷都

  • 前719年:衛の公子州吁が桓公を殺害して即位。これに対し、衛の大夫である石石碏が州吁を殺害し、桓公の弟宣公を擁立

  • 前719年:宋の殤公が衛・陳・蔡と連合して鄭を攻撃。鄭の国都の東門を包囲(東門の役)

  • 前718年:曲沃の荘伯が鄭・けい(河北)とともに晋の鄂侯を討伐。これに対し、東周は鄂侯の子哀侯を擁立

  • 前718年:鄭が衛・宋を攻撃

  • 前717年:鄭が陳を破る

  • 前717年:宋が鄭の長葛(河南)を奪取

  • 前716年:曲沃の荘伯が死去

  • 前716年:鄭が宋、次に陳と講和。一方で、鄭と宋の講和によって、宋と衛の関係が悪化

  • 前716年:魯がちゅを攻撃。時期は不明だが、邾は魯の付庸(属国)となっていた時期があるという

  • 前716年:戎が凡伯を攻め、捕らえる

  • 前715年:虢公忌父きほが卿士に任命される。以後も虢の君主は諸侯としてではなく、周王朝の封君として行動を続ける

  • 前715年:斉の僖公が温の会、続いて瓦屋がおく(河南)の会盟を主宰。瓦屋の会盟には宋の殤公、衛の宣公が参加していた。前年の講和と合わせて、この会盟により、鄭・宋・衛の講和が確定

  • 前714年:鄭の荘公が左卿士に任じられるが、以後の鄭は諸侯のようになっていく

  • 前713年:魯・鄭・斉が山東の中丘・老桃で会し、連合して宋を攻撃

  • 前713年:宋・衛・蔡が鄭を攻撃

  • 前712年:斉・鄭・魯が許を攻撃

  • 前712年:魯の姫允が隠公を殺害して即位(桓公)

  • 前712年:鄭・虢が宋を破る

  • 前711年:燕の宣侯が即位

  • 前711年:鄭が魯と山東の越邑に会す。そこで、周王の許しを得ずに、鄭のほう田と魯の許田を交換

  • 前710年秋:鄭と蔡の君主が会盟。はじめて楚の脅威を感じたためであった

  • 前710年:斉・魯と結んだ鄭の荘公が宋を破る

  • 前710年:宋の太宰華督が殤公を殺害し、荘公を擁立

  • 前710年:晋の哀侯が曲沃の武公の田を侵略し、抗争となる

  • 前709年:曲沃の武公が哀侯を捕らえる。晋人は哀侯の子である小子侯を擁立

  • 前707年:東周の桓王が鄭の荘公から政権を奪って、卿士を罷免。これに怒った荘公が周に朝見しなくなる。これに対し、東周側は鄭を懲罰するために、蔡・衛・陳とともに鄭に攻め込む

  • 前707年:周公黒肩こくけん・虢公林父りんほが率いる蔡・衛・陳の軍とともに親征した東周の桓王を、荘公が破る(儒葛じゅかつの戦い)。桓王は矢を肩に受けて負傷。後に、荘公は覇者のさきがけとして「小覇」と称された。以後、東周は諸侯に対する統制力を喪失

  • 前707年:杞が州を滅ぼし、淳于に遷都

  • 前706年:楚が曾(文献では随と呼ばれる)を攻める

  • 前706年:斉が北戎の侵入を受けたために鄭に救援を要請。鄭の太子こつが救援に赴き、北戎の軍を破る

  • 前706年:陳の桓公の弟である陳佗ちんたが蔡の地で姦淫し、蔡人に殺害される。蔡人は陳の厲公を擁立

  • 前705年:曲沃の武公が晋の小子侯を殺害

  • 前704年:楚の熊徹ゆうてつが王を自称し(武王)、以後の楚では継続して王号が用いられる。なお、武王や次の文王は後代の追号だとする説もある

  • 前704年:楚が随を破る

  • 前704年:杞の武公が死去し、靖公が即位

  • 前704年:秦の出子が即位

  • 前704年:東周の桓王が虢に曲沃を討伐させ、晋の哀侯の弟である姫緡を擁立

  • 前702年:鄭・斉・衛が魯を攻撃、山東の郎邑で激突

  • 前702年:曹の荘公が即位

  • 前702年:楚の屈瑕くつかうん国との戦いに際して卜占を行おうとするも、諌められる

  • 前701年春:おそらく斉のの主導で、斉・衛・鄭・宋が悪曹おそう(河南省)で盟を結ぶ(悪曹の盟)。後に僖公とその父荘公は「小伯(小覇)」とされる

  • 前701年:鄭の荘公が死去。子の昭公(太子忽)が即位するも、昭公の弟が宋の助けで公位を簒奪し、厲公となる。昭公は出奔し、鄭の内乱が続く

  • 前700年:陳の荘公が即位

  • 前700年:衛の恵公が即位

  • 前700年:魯の桓公が鄭の厲公と会盟し、連合して宋を攻撃

  • 前699年:鄭が紀・魯と連合し、宋・衛・燕・斉の連合軍を破る

  • 前698年:宋が斉・蔡・衛・陳と連合して鄭を攻撃し、各地を攻略

  • 前698年:秦の弗忌と三父らが出子を殺害し、兄の武公を擁立

  • 前698年:斉の襄公が即位

  • 前698年:燕の桓侯が即位

  • 前697年:鄭の大夫祭仲が厲公を破り、昭公を復位させる。敗れた厲公は櫟(河南)に逃れる

  • 前697年:東周の荘王が即位

  • 前697年:宋・衛・魯・陳が鄭に侵攻するも敗北

  • 前696年:衛で内乱が発生し、恵公が斉に亡命。弟の黥牟が即位

  • 前696年:宋・魯・衛・陳・蔡が鄭に再度侵攻するも敗北

  • 前695年:鄭の大夫である高渠弥が昭公を殺害し、姫亹を擁立

  • 前695年:秦の武公が三父らを殺害

  • 前694年:斉の襄公が彭生を遣わして魯の桓公を殺害。代わって子の荘公が即位

    • 別の伝承

      • 斉から嫁いできた魯の桓公の夫人姜氏は、兄である斉の襄公と情を通じていた(父の公とも通じていたとする説も)。このことが露見すると、夫人は夫の桓公を斉に誘い出して殺害した。跡継ぎの荘公は襄公の子であったという

  • 前694年:斉の襄公が鄭の姫亹と高渠弥を殺害。鄭の大夫らは姫嬰を擁立

  • 前693年:陳の宣公が即位

  • 前693年:周公黒肩が東周の荘王の殺害とその弟王子克の擁立を図って失敗。黒肩は殺害され、克は燕に逃れる

  • 前692年:宋の涽公が即位

  • 前691年:燕の荘公が即位

  • 前690年:楚の武王が随を攻めるも、陣中で没す。後継は子の文王で、湖北の丹陽から(位置は定かではない。現襄樊じょうはん市の楚皇城とも)に遷都。文王の代には、息(後に楚に滅ぼされる)・蔡・陳などの中原の十数国を従属させる

  • 前690年:斉が紀を討伐

  • 前689年:斉・魯・宋・陳・蔡が連合して衛を攻撃。恵公は衛に帰国

  • 前689年頃:秦の武公が邽・冀(ともに甘粛)の戎を討伐し、県とする

  • 前688年:衛の恵公が復位。黥牟は周に亡命

  • 前688年:秦の武公が杜・鄭(西鄭)の地を勢力下に収めて県とし、小虢を滅ぼす。小虢は虢季一族を指すか。これにより、秦が西周の故地、渭水流域の主要部分を掌握

  • 前686年:斉・魯が郕を攻撃し、郕は斉に降伏

  • 前686年:斉の襄公が殺され、公孫無知が即位。鮑叔牙は公子小白を奉じて莒に、管仲は公子糾を奉じて魯に亡命

  • 前685年:公孫無知が殺害される。これを受けて、管仲の暗殺の企みから生き残った小白が斉の桓公として即位。魯は公子糾を殺害。以後、桓公は管仲を重用して富国強兵を進める

  • 前684年:斉が魯を攻めるも、長勺で敗北

  • 前684年:斉が宋と再び魯を攻めるも、宋が乗丘(山東)で敗北し、斉も敗退

  • 前684年:楚が蔡を破り、哀侯を捕らえる(のちに釈放)

  • 前684年:斉が山東の譚を滅ぼす

  • 前683年:宋が再び魯を攻めるも敗退。魯は南宮万を釈放して、宋に帰らせる

  • 前682年:宋の南宮万が湣公を殺害し、公子游を擁立するも、宋人は游を殺して桓公を擁立。南宮万も殺された

  • 前682年:東周の釐王が即位

  • 前681年:斉の桓公が宗・陳・蔡・邾と山東の北杏で会盟

  • 前681年:斉が遂を滅ぼす

  • 前681年:斉と魯が柯(山東)で会盟。魯の武将曹沫そうばつは斉の桓公を和平会談の場で匕首ひしゅで脅して襲われた領土を取り戻したという

  • 前681年:杞の共公が即位

  • 前680年:斉が会盟を行う

  • 前680年:鄭の大夫傅瑕が姫嬰を殺害し、厲公が復位。厲公は傅瑕を殺した

  • 前679年春:斉の桓公が宋の桓公・陳の宣公・衛の恵公・鄭の厲公とけん(山東省)で会盟し、東方諸侯の指導者・覇者となる

  • 前679年:秦の徳公が即位。彼は陝西の平陽から雍(陝西省鳳翔県)に遷都

  • 前678年:曲沃の武公が晋侯緡を殺害して、本家を滅ぼす。東周の釐(僖)王は武公の求めに応じて、彼を晋侯として公認

  • 前678年:楚が鄧を滅ぼす

  • 前678年:秦の宣公が即位

  • 前677年:東周の恵王が即位

  • 前677年:晋の献公が即位

  • 前675年:東周の恵王の叔父であり、王子のたいが周の5人の大夫に擁立され、恵王を攻撃するも敗北。頽は衛に逃れた。その後、頽は衛・燕の支援を得て、洛邑を攻撃。結果、洛陽に入り、王となる。一方の恵王は鄭に逃れた

  • 前673年:鄭・虢が洛陽を攻めて、恵王を復位させ、頽らを殺害

  • 前673年:鄭の文公が即位

  • 前672年:陳の厲公の子である陳完が内紛を避けて斉に亡命し、斉の桓公に仕える。陳完は姓を田氏に改めた(田完)

  • 前672年:晋の献公が陝西の戎を滅ぼし、驪姫りきらを捕らえて夫人とする

  • 前671年:楚の王堵敖が弟の熊惲の殺害を謀ったため、熊惲は随に亡命。熊惲は随とともに堵敖を攻撃し、滅ぼした。結果、熊惲が即位(成王)。彼の代に初めて漢字を用いた。また、成王の代に初めて王と称したとする説もある

  • 前671年:曹の釐公が即位

  • 前671年:斉と魯が河南の扈にて会盟

  • 前669年:衛の懿公が即位

  • 前669年:晋の献公が諸公子を集めて殺害。生き残った公子は虢に逃れた

  • 前668年:晋の献公が首都を山西のこうに遷都

  • 前667年:斉の桓公が宋・陳・鄭と河南の幽で会盟

  • 前667年:東周の恵王が斉の桓公に衛征討を請う

  • 前666年:桓公が衛を破る

  • 前666年:楚が鄭を攻撃。これに対し、斉・宋・魯が鄭を支援し、楚は撤退

  • 前666年:晋の献公が驪姫の子の奚斉けいせいらを都に留める一方で、他の子らを各地に配置した

  • 前665年:東周の大夫であった姫皮が河南の樊で反乱

  • 前664年:恵王が虢公に樊を攻撃させ、姫皮を捕らえる

  • 前664年:桓公が魯とともに、北方民族の山戎に侵攻された燕を救援し、山戎を討伐

  • 前664年:秦の成公が即位

  • 前662年:魯で姫般が即位するも、前代の荘公の兄弟姫慶父らが姫般を殺害し、湣(閔)公を擁立。荘公の弟である姫友は陳に逃れる

  • 前662年:曹の昭公が即位

  • 前661年:邢が赤狄に攻め込まれ、斉に救援を要請したため、斉が宋・曹とともに出兵して救援。赤狄は撃退された

  • 前661年:晋が山西の耿・霍・魏を滅ぼし、趙夙を耿大夫、畢万を魏大夫とする

  • 前660年:虢公が渭汭いぜい(陝西)で犬戎を破る

  • 前660年:懿公が統治する衛を、赤翟せきてき(赤狄)の王卯虎ぼうこが攻撃。懿公は国人(国都の住民)らに出征を拒絶されるも、自ら出征。しかし、かんの地で赤狄に大敗し、戦死した。結果、国都の朝歌が陥落し、衛は滅亡

  • 前660年:衛滅亡後、衛から脱出した難民らが懿公の従兄弟である公子申を後継として擁立(戴公)、曹に避難した。この後、斉の桓公が軍を派遣して、曹の防衛に当たらせる

  • 前660年:斉の桓公が、擁立していた戴公の死去に伴い、燬を擁立(文公)

  • 前660年:秦の穆公が即位

  • 前659年:魯で姫慶父らが湣公を殺害。魯人は姫慶父らを追い、釐(僖)公を擁立

  • 前659年:赤狄が邢を破る。これを受けて、桓公は邢を助ける。邢の都を夷儀(山東)に遷させ、宋・曹とともにその城壁を築く

  • 前659年:魯の釐公が三桓氏を立てる。桓公から分かれた季氏(季孫氏)・孟氏(孟孫氏、仲孫氏)・しゅく氏(叔孫しゅくそん氏)の3つの一族を三桓氏という

  • 前658年:楚が鄭を侵略

  • 前658年:斉が衛の文公を楚丘(河南)に遷させ、城壁を築かせる。これにより、衛が復活

  • 前658年:斉が蔡と楚の間に位置する江・こう国と同盟。楚からの引き離しを図る。蔡はこの頃には楚の同盟国となっていたか

  • 前658年:晋が虞に道を借り、連合して虢を攻撃。結果、山西の下陽を攻略

  • 前658年:燕の襄公が即位

  • 前658年9月:斉の桓公が諸侯と会盟

  • 前657年:斉の桓公が魯・宋・陳などと連合して、鄭を侵略した楚を敗退させる

  • 前656年:献公が奚斉を後継者にしようとする驪姫に惑わされ、驪姫一派の謀略により申生・重耳(母の孤氏は戎か白狄の出身か)・夷吾は、献公暗殺未遂の嫌疑をかけられる。結果、申生は自害。重耳と夷吾は白狄と梁に出奔した(驪姫の乱)。重耳は後に諸国を巡ることになる。なお、この重耳の亡命に随行した趙衰は後の趙王の祖先であるが、彼は狄の女性を娶っている(両者の子が趙氏の宗主となる)

  • 前656年:斉の桓公が魯・宋・陳・衛・許・曹ら諸侯を集め、楚側についたと思われる蔡を討伐し、楚に進撃。河南の召陵にて楚と講和を結ぶ(召陵の盟)

  • 前655年:晋の献公が虞に道を借りて、虢を滅ぼし、虞も滅ぼす。献公は、軍制において従来の一軍から上軍・下軍の二軍制に改めていた(1軍は1万2500人)

  • 前655年:斉の桓公が太子鄭と諸侯らと盟約を結び、周王の後継者としての太子鄭の地位の保全を図る(首止の会)。一方の鄭は大夫申侯の議に従い、諸侯と会盟せず

  • 前655年:楚が河南の弦を滅ぼす

  • 前654年:斉の桓公が諸侯と連合して鄭を攻撃。これに対し、楚の成王は許を攻撃し、諸侯軍を許に転身させて、鄭を救援

  • 前653年:斉が再び鄭を攻撃。鄭は大夫申侯を殺して和睦

  • 前653年:東周の恵王が死去するも、太子鄭はそれを公表せず

  • 前653年:曹の共公が即位

  • 前653年:晋が狄を山西の采桑で破る

  • 前652年:桓公が周の人々や宋・衛・許・魯・曹・陳とともに山東のとうの地で盟約を結ぶ。これにより、太子鄭は恵王の死を公表し、襄王として即位

    • 襄王の動き

      • 襄王は諸侯を攻める際に狄を動員し、その功績から狄の娘を后とした

  • 前652年:狄が晋を攻撃

  • 前651年夏桓公が魯・衛・鄭・許・曹と葵丘ききゅうで会盟(葵丘の会)。この時に襄王が桓公に対して、「文武の(文王・武王への祭祀の際に供された祭肉)」を賜与する。これにより、桓公の四方の諸侯の統括者、周王朝の保護者、覇者としての地位を認めたか

上図:斉の桓公と管仲

出典:Wikipedia
  • 前651年:宋の襄公が即位

  • 前651年:晋の献公が死去し、奚斉が即位。しかしこの後、反驪姫派の大夫である里克の主導により、奚斉と驪姫らが殺害される。里克は重耳を呼び戻そうとするも、重耳は拒否。代わりに夷吾が秦の穆公に擁立されて帰国し、即位した(恵公)

    • 恵公の統治とその後

      • 恵公は重耳の命を狙ったため、重耳は斉の桓公のもとに逃れ、一族の娘を娶る。後に重耳は楚に身を寄せる

  • 前650年:狄が河南の温を滅ぼす

  • 前650年:晋の大夫里克が恵公により自殺させられる

  • 前649年:東周の襄王の弟である王子帯が戎を誘い、洛陽を攻める。これに対し、秦・晋が東周を救う

  • 前648年:楚が斉に接近し、反抗的な態度をとるようになっていた黄国を滅ぼす

  • 前648年:東周の王子帯が斉に逃亡

  • 前648年:陳の穆公が即位

  • 前647年:斉・宋・衛・鄭・魯・陳・許・曹が河北の鹹で会盟。戎の侵攻に対する防衛などを議論

  • 前647年:晋で飢饉が起こり、恵公が秦に食糧援助を要請。秦はこれに応じる

  • 前646年春:斉の桓公が縁陵(杞)に城壁を築く。杞は徐・きょに脅かされていた

  • 前646年:蔡の荘侯が即位

  • 前646年:秦で飢饉が起こる。晋の恵公はこれに乗じて秦に出兵

  • 前645年:楚が安徽の徐を攻撃し、婁林で破る

  • 前645年:斉・宋・魯・陳・衛・鄭・許・曹が山東の牡丘に会盟し、徐に援軍を出して救う

  • 前645年:秦の穆公が親征し、韓原(陝西。山西とも)にて晋軍を撃破(韓原の戦い)。穆公は敗走する恵公を追うも、かえって包囲された。しかし、西戎の兵に助けられ、恵公を捕虜とする(この西戎は後に「馬酒兵」と呼ばれる)。穆公は恵公を帰国させ、代わりに太子ぎょを人質とした

    • この後の展開

      • 恵公は帰国後、戎(陸こんの戎)を誘う。そのため、彼らは晋郊外の地を領有

  • 前645年:晋が再び飢饉となったため、秦が援助

  • 前645年:晋が、公田を戦士に賞与する爰田制を施行

  • 前644年:斉・魯などの9諸侯が安徽の淮で会盟

  • 前644年:北狄が晋に侵攻

  • 前643年:魯が河南の項を滅ぼす

  • 前643年:斉の大夫らが反乱を起こし、桓公を幽閉。桓公はそのまま死去した。太子昭は宋に逃れて、4人の公子らによる後継者争いが勃発。斉は覇権を喪失した

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