カルマについて重要な真実。被害に遭った人は「罪」の報いを受けたとは限らない

この記事は非常にデリケートな話なので公開するのを躊躇しましたが、体験者が書かねば他に書く人がいないと思い、上げておくことにします。


災害などでたくさんの人が亡くなった時、スピリチュアル業者や宗教団体の信者たちが
「このたびの被災はカルマの報いです。前世の悪い行い(または先祖の罪)の報いだから悔いて受け止めなさい」
などと言い出します。
被災者は悪行をした魂だと言いたいのか? 
その発言だけでも被災者の心を踏みにじるというのに、宗教団体の信者はあろうことか
「うちの団体に入信すれば魂の罪が消え、救われますよ! 入会金〇〇円を払いなさい。お祓いには〇〇円かかります、騙されたと思って金を出しなさい」
などという勧誘を始めます。

酷い目に遭われた方をさらに鞭打つ極悪非道な行為。それどころか、財産を失われた方からなけなしのお金まで搾り取ろうとする。
許しがたい。
これはもう精神的暴力という犯罪、刑事罰と民事賠償に相当する不法行為だと私は思います。
(そもそも私は災害時だけではなく、全ての宗教の勧誘そのものも法で禁じるべきだと思う者ですが。何を「信仰」しようが個人の自由。その内心の自由は基本的人権として憲法で認められるけれども、脅迫を用いての勧誘は他者の人権を侵害しており、決して許されるものではない)


過去世の記憶を幾つも持つ体験者として、はっきりと真実を言っておきましょう。

災害や犯罪の被害に遭った人は、過去世で悪行をして罪を負った魂とは限りません。
過去世でも被害者だった人が、生まれ変わるたびに何度も同じ苦しい経験をされる場合がよくあります。

そんな理不尽な! と思われるかもしれません。
でも、現世現実を眺めてみればこの真実が分かるでしょう。
一度DVの被害者となった人はどういうわけか次にまた同じようにDVをする相手を選びがち。詐欺に遭う人も、何度も詐欺に遭ってしまう確率が高い。
そして多くの場合、加害者側も常に加害者です。
当然、加害者は刑罰で強制的に「報い」を受けることになるのだけど、処罰されても暴力を好む本質を変えることは難しい。たいてい、すぐには変えられず刑務所へ戻ってしまう。

これと同じことが輪廻転生でも起きています。
被害者が加害者となることは滅多にありません。災害などはまた別ですが、犯罪被害に関してはその運命を変える勇気を持たない限り、何度生まれ変わっても被害者となりがちです。
(あるいは魂を磨くため、あえて何度も苦しい経験を選ぶ者もいます)

加害者も同じ。
加害者は言うまでもなく暴力という快楽に溺れがちな魂であるため、生まれ変わっても加害者となる人生を繰り返す確率が高いはずです。

私は『宿曜前世占い』で、
「魂は前世で過ごした人生を今世でも引きずります。これはボールが転がる様子と似ています。一度加えられたある力の作用は、他の力が加えられない限りそのままボールの転がる軌道に影響を与え続けます。魂も同じで、前世で得た生き方の作用は今世に伝わります。」
と書きました。

宿曜前世占い:
https://note.com/waresoba23/n/n0ba762aa92ea

被害者が被害者であり続け、加害者が加害者であり続けることはこれと同じ原理です。
言わば物理学的な原理と似ているのですから、「ボールの転がる方向は別の力が加えられない限りそのままの軌道を辿る」だけなのです。
地上の人間意識で考えると似た人生を繰り返すのは一見不思議に思われるでしょう。
でも物理原理をモデルとして考えれば、何も不思議なことではありません。

魂の癖を変えるために反作用として加えられる力が、たとえば加害者だった人が被害者となる人生計画です。
そんな人生計画が実現された場合のみ、一般的に言われる意味での
「カルマの報い/過去世の悪行の報復を受けて不幸になった」
という状況です。
そういうこともたまにはあります。過去世の行いと同等の反作用をぶつける人生を繰り返していけば、“輪廻”の輪は閉じて“アガリ”となります。
でもそれは、実はレアケースなのです。何故レアケースなのかと言うと、カルマの輪を反作用で閉じることはとても勇気の要ることだからです。

「カルマの輪を閉じることは勇気が要る」のは被害者のほうも同じ。
自ら被害者であり続けることをやめ、生きているうちに一歩踏み出す勇気を持つことで反作用が起き、ようやくカルマの輪が閉じるのです。

カルマ法則は、算数計算のように
「前世で悪いことをした人はバチが当たり、来世で必ず悲惨な目に遭う」
「今世でボランティアなどの善行を積めば、来世で金持ちになって安楽な人生が送れる」
という単純なシステムにはなっていません
小学生が設計した宇宙ではないのだから当然です。笑


――であるから。

災害に巻き込まれたり犯罪被害に遭われた方に対して、
「お前は罪ある魂なのだ」
という暴言は絶対に吐いてはいけない
わけです。
それは相手を傷付けるだけではなく、真実でもないと言えます。

もし仮に過去世で悪い行いをした魂が、報いとして今世で被害に遭う人生を受け入れたのだとしても、その魂はとても勇気があり高潔なのだということになります。尊敬すべき魂なのだから、指差して非難してはなりません。当たり前のことですが。
まして、「お前は過去世の罪があるから不幸なのだ。金を払えば罪を消してやる」などと脅迫して宗教へ勧誘するなどもってのほか
そのような悪行に手を染めてしまえば、あなたのほうが来世では負債を負うことになります。あるいは半永久的にカルト宗教に縛られ苦しむ人生を繰り返すことになるか。

なお、“加害者は常に加害者”と書きましたが、他者を苦しめる人生が永遠に許されるわけではありません。

※罪を判定する神様などは存在しないので「許される・許されない」という問題ではないのですが。ここでは分かりやすくするためこう表現しています。「カルマが消失することはない」という意味です

当然ながら悪行を重ねるたびに負債となるカルマは積み重なっていきます。
反作用として加えるべき行いも膨れ上がって巨大となり、カルマの輪を閉じることがほとんど不可能となるでしょう。
そんな「返済不能」に陥った魂が将来どうなるのか?
私自身は経験ないので分かりませんが、重い次元に縛り付けられ永久的に閉じ込められるか、またはそうなる前に指導霊たちによって「エネルギー解体」され個性の死を迎えることになるらしいです。(宗教団体の教義ではなく、→ニュートン本による)


厳しい試練を越えなければならないのは、加害者だけではなく被害者のほうも同じ。
被害者も、いつまでも被害者であることに留まってはならないのです。

被害者となる癖を持つ魂は
勇気を持って逃げる
ことが必要です。
生きているうちに勇気を持って踏み出すことが、カルマの輪を閉じるための反作用となります。

だから不幸なことが起きそうな時に
「大丈夫、大丈夫。もし何か起きても運命だから受け入れる」
と言って留まることもまた間違っているということになります。
一概には言えませんが、その方はもしかしたら過去世でも留まることによって被害に遭ったので、今世では逃げることをテーマとして生まれて来られたのかもしれません。

カルマを閉じるためのポイントは「勇気」です。
状況によりますが、特に災害などの場合は逃げることも勇気です。


「運命」という言葉を多くの人が間違って使っています。
起きてしまったことについて「運命だった」と言うのはほとんどの場合、正しいことが多いでしょう。
(実際は受けるべきではなかった不幸もありますが)
しかし、まだ起きていないことを何もせずに受け入れる態度は「運命」ではありません。

何故なら、唯々諾々と受け入れるようにだけ設計された人生計画など一つもないからです。
全ての人生計画はかつて自分の意思で決めたもの。だから生きている間も意思を持ち、勇気ある行動を採るように計画されています。

本質的な意思に従うことこそが魂の使命であり運命
これがカルマの真実なのだと、どうか知っていただきたいです。


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