胸を揉む

 寝ぼけ眼で煙草に火をつけてカメラを構え、紫煙に眉をしかめつつ、隣で額にも頬にも胸元にも濃度の高い汗を大樹から染み出す蜜のように掻き、いよいよ日本も東南アジア諸国の一部に仲間入りしてしまったと思わせるような袖も襟もないひざ下までの色彩鮮やかなワンピース姿で眠りを貪っている凪咲の写真を撮影する。凪咲の筋肉の少ない柔らかな身体は、もうすぐ世界が終わることを十分に予感させる強烈な西日の差し込みを受けて、現像した時にかえって露骨すぎると指摘されてしまいそうなほど美しい陰影を、シャッターを切る前から作り出していた。
 片手で支えるには重すぎるカメラが傾くままに任せてシャッターを切る。正面を通り過ぎていく、面の部分は白を基調に、一方で線の部分は緑のラインを引いているデザインが目を誘う二両編成のローカル電車が、走行に伴って正面から見えない髪をなびかせるように切った風のあおりを受け、網戸もないくせにやたらと立て付けの悪い型板ガラスの嵌められた窓をがたがたと揺らした。
 目にかかる前髪が疎ましくて、カメラを置いて起き上がり胡坐をかいて髪をかき上げる。かじっていた煙草を指で挟んで吸うと、先端がにじにじと赤く灯り、じんわりと脳をほぐした。
 緊急事態宣言が発動されてから二週間が経過していた。
この二週間、凪咲とほとんど無職のような状態でどこに出かけることもせず、時間の流れに身を委ね、無責任に放り出してきてしまったあれこれのその先を案じる代わりに世界の今後を憂い、そうして思考での世間へのおもねりに疲れてくると、凪咲の熟れすぎて重力に逆らえずに下に流れた大きな胸を揉んで過ごしていた。
 吸いかけの煙草を灰皿に立てかけ、凪咲の胸に手を入れる。自分の意志とは無関係に血液が巡り肥大化する一物を凪咲の左手に触れさせながらまだ惰眠の中にいることなど構わずに舌を絡ませると、喘ぎが一洩れ、それから凪咲は呼吸のままならない苦しみで目を覚ました。凪咲は面倒くさそうに俺を押しやると、畳にしかれた布団の上を障子側に向かってごろりと寝返りをうった。時計を見やればこの西日が示す通り六時を手前に控えた夕刻となっており、先ほどの交わりからは三時間以上も経過していたが、凪咲は起きて煙草を呑む俺とは異なる世界線、つまり性交の余韻が残る甘美な世界を歩み続けているようだった。
 すっかり先の短くなった煙草をくわえ、換気扇の元へ移動する。頬に止まった蚊を叩くと見事に中指の第一関節の節の部分で捉えていたので、そのまま平らになった蚊を灰皿の上に落とし、短くなった煙草と共に灰皿の上で力任せに潰して消した。蚊は暴力的な意思を介在せずに反射による叩き一発でこの世界から抹消され、灰と蚊、両者はかつて別のものであったことなど何も知らぬものが見たら一切想起させぬほど見事に一体となって灰皿の上で一つの吸い殻へと変貌を遂げていた。
 鈍色に光る蛇口をひねり水道水をあおる。午睡で乾いたのどは、金魚すくいの紙を破るように勢いをもって俺の体内に染み込んでいった。外から子どもたちのばいばいと大声で叫ぶ声が聞こえた。ここ鳴子へ越してきてからは間もないので知る由もないが、自分の住んでいた東京の下町と比較しても格段に明るく楽しそうな声の響く様子からは、緊急事態宣言によって県を跨ぐ外出が固く禁じられ、公共交通機関でさえ越県できなくなってしまった結果、確かに元気な子供たちの姿が息を吹き返しつつあるのではいないかと思われた。
 今度は悪ふざけを交えずに、軽く肩を揺すって凪咲を起こす。
「ごはんを食べに出かけよう。また夜が来てしまう前に」
 凪咲は力強く顔をしかめた後、思いきり顔を左右に振って、その反動を利用して身体を強引に起こした。顔の全面を長い髪がふさいだままの状態で布団の上で両足の裏を揃えて、ヨガの合蹠のポーズのような形で座り、それからのどの渇きをアピールするように口を大きく開いて片側で舌を噛んだまま胸元をかいた。そのだらしなさには紫や苺の赤のような強烈な魅力が感じられ、俺はその潜んでも匂いたつ艶めかしい匂いをフィルムに収めたくて再びカメラを手にとりシャッターを切っていた。
「みず」撮影をする俺のことなどまるで意に介さず、凪咲もキッチンへ行き水を飲んだ。カメラを再び凪咲に向けると、背中越しに透明のコップが夕日を反射して凪咲を陰にし、なにかを暗示するような一枚を収めることができた。
 のどを鳴らして水を飲んでいる姿には生きる力があふれていて、俺は凪咲のことを非常に頼もしく感じたし、こうしてここに二人で居られることを嬉しく思った。
「夕飯を食べに行こう。お腹空いた」
 鳴子にやって来たのは緊急事態宣言が発動される前日の夜だった。一週間前から緊急事態の宣言日は予告されており、我々は翌日から県跨ぎの移動が出来なくなることを分かっていて、その日の夕方、一緒に逃げて欲しいと連絡を寄越した凪咲の誘いに乗って、敢えて前夜に鳴子入りを果たしたのだった。鳴子であることに必然となる理由はなかった。スタートが東京駅で、とにかく北へ向かおうと乗り込んだのが東北新幹線はやぶさで、主要駅である仙台駅よりはずっと閑静な場所へ逃げ込みたいと携帯電話で行先を検索しているうちに、こけしや鳴子峡の美しい景色に魅かれた凪咲が鳴子行を決め、先ほど家の前を通り過ぎた陸羽東線に乗って鳴子温泉駅に降り立ったのだった。
 実を言えば、震災の直後、まだ生きていた祖母と二人で鳴子温泉にやって来たことがあったので、俺にとって鳴子の地に足を踏み入れるのは人生で二度目だった。
 仙台に住んでいた祖母は東日本大震災を被災したものの命は無事で、どころか内陸部にあった自宅は地震でも塀に雷が走ったようなひびが数本入ったものの立派に耐え抜いたし、津波からの難も逃れていた。未曾有の大災害の中にあっては不幸中の幸いだったと、親族たちはこぞって心配を投げかけたその口でわずか五分後には「でも良かった」と不謹慎な言葉を発していた。しかし、祖母は古くからの友人が沿岸部にも多く住んでいて津波によって命を落としたり行方不明になっていること、それに加えて連日繰り返される凄惨な津波の映像や小難しい用語で報道される原発問題で精神的に相当に参っているように俺には感じられ、祖母を元気づけるために近場の温泉地である鳴子温泉に連れてきたのだった。
 宮城県を訪れたのは震災の半年後だったし、祖母の家から鳴子温泉はひたすら内陸を進む道だったので、テレビで見ていたような被害の爪痕を目にすることはなかったけれど、それでも市内に降り立った時の雰囲気には異様なものがあった。この景色を脳裏に刻まなければならない責任があるはずだと一種の義務感のようなものを覚え、意識的に目に映る光景を焼き付けるように努めたけれど、ふがいないことにあれほど必至に見たはずの街並みの細部は東京に戻った頃には悔しいほど記憶から抜け落ちてしまい、胸にだけ残された空気感を人に伝える手段がどこにもないことがもどかしくて、それから俺はカメラを手にするようになった。
 鳴子温泉駅からいま住んでいる部屋までは実に坂道をひたすら下るだけの単純な道のりで、道中には流行っているとはいいがたいものの観光地として細々と営みを続けている飲食店が散見される。暮れ行く夏の終わりの一抹には、鳴子温泉駅のすぐそばにある土産物屋で購入した木製のサンダルがコンクリートを鳴らす高い音がよく似合っていた。坂道と歩行者だけが下りられる階段の分岐点に立つこけしの頭を撫で、少し遅れて歩いて来る凪咲を正面から撮影する。
「だれに見せられるわけでもないのにそんなに撮ってどうするの」
「どうもしないよ。ただ、この世界が在ったことをフィルムの中だけにでも残しておきたくてさ」
 俺の言葉には反応を示さずに、凪咲は今日の夕飯を食べる場所を探すべく、いつから飾られているのかも分からない店先のショーウィンドウに並べられたディスプレイをじっくり眺めていた。太陽は地平の向こうに姿を消し、圧倒的な昼のエネルギーに夜の帳がゆっくり覆いかぶさろうとしていた。気温はまだ高いものの、都会と違って日が傾くとあっという間に体感温度は下がっていく。凪咲の身体に沿ってしなやかに形を変える衣服のラインは美しく、足元から伸びる影も躍動感にあふれ、まるで夜の闇に飲み込まれてしまう前にどこかへ逃げようと画策しているかのようだった。
 ふと、先ほど凪咲を撮るために肘を載せていたこけしを振り返ると、こけしは相変わらずの表情を浮かべたままそこに立っており、熱の低い視線で相変わらず我々の歩いてきた道の先を見つめ続けていた。

「決めた。今日は山菜カレーにしよう」
 店内に店員の姿は見当たらなかったものの、座ったテーブルには『ランチタイム禁煙』の張り紙のすぐ下に灰皿が用意されており、間違いなく営業していることを伺わせた。
「すいませーん」俺の声におくから「はーい」と返事が返ってきた。
 店員が出てくるまでの間、我々はメニュー表の中からひらがなを「あ」から順番に見つけ出すゲームをしていた。「か」を探しているところで店員がやってきて、昔ながらの小さなメモ帳とボールペンを手に注文をとった。俺が最後にビールを頼むと、凪咲が二つ、と付け足した。
「帰りにちょっとコンビニに寄ってもいい? 朝ごはんもなんにもないし、あと、生理用品買っときたいんだよね。荷造り慌ててて入れ忘れたんだけど、そろそろ来る頃だから」
「いいよ。この前泊まった旅館の先にコンビニがあったはずだけど、そこでいい?」
「うん。あ、か、あった。かんち!」
 俺は笑いながら手元に灰皿を手繰り寄せ、煙草に火をつけた。
 鳴子温泉駅に着いたその日、我々は外部との連絡を絶つためにスマートフォンの電源を切り、それから祖母との旅行でも泊まった立派な温泉旅館に宿泊した。旅館に泊まった翌朝に不動産屋を探すも見つからず、新幹線の停車駅にもなっている古川駅まで戻って物件を探したところ、保証人もなくその日から契約できるアパートが一件だけあった。検討の余地もなく、風呂トイレはかろうじて別ではあるものの、玄関を開けるとすぐにキッチンで、そのおくに六畳の畳部屋が続く今の部屋を借りることに決まった。部屋を借りたその日の午後に布団は買うことができたけれど近くに家電屋はなく、未だに部屋の中にはテレビどころか冷蔵庫すらないので、飲み物を飲みたければ先ほどのように水道の蛇口をひねるしかなかった。
 凪咲が日用品を選んでいる間、俺は立ち読みをしていた。辺りは真っ暗で、コンビニの青い灯りに小さな虫たちが、殺すために敢えて虫が集まりやすい波長の蛍光ランプを放たれているとも知らずに哀れなほど群がっており、その姿は蝋を固めた翼で太陽に接近しすぎて死を迎えることになったイーカロスを思わせた。それでも自分から接近して死んでいけるだけ、我々の末路よりはまだずっとマシかも知れない。
「ねぇ、花火も買っていい?」そう言って隣に来た凪咲の籠を受け取ると、俺は花火と、それから六缶一組の新ジャンルビールを追加で投げ込んだ。
会計を現金で済ませて店の外に出ると山向こうで雷が光っているのが見え、雷と店先の虫たちをまとめてカメラに収められればこの言葉にできない気持ちを表現できるか逡巡したけれど、結局カメラは手にとらなかった。
「なにか怒ってるの?」
「なにも。ただ、こんな意味のない緊急事態宣言をしても確実に世界は南から北上して終わっていっているのに、みなはどうしてただじりじりと死を待つというこの状況を、そんな当たり前のように受け入れられるのかがいまいち信じられなくてさ」
 コンビニ袋を提げていない左手に凪咲が右腕を絡め、その柔らかな胸が当たった。
「でも、だからこそいまあなたと私はこうして一緒にいられるんじゃない」
 
 俺と凪咲の出会いは、出張先のホテルで利用したデリバリーヘルスだった。ホテルは静岡の熱海で、ホテルの窓からは海や湾向こうの灯台が見えており、季節は春だった。凪咲の魅惑的な身体を我を忘れてむさぼり堪能した後に、俺が今度は身体だけの関係ではなく外に遊びに出かけないか、と凪咲をデートに誘うと、行為以外のことは旦那に禁止されているし、それに同居している義両親や子どもの目もあるからとてもそんな時間はないと凪咲が話し、それで凪咲が既婚者でかつ子持ちであることを俺は知った。聞けば旦那は働かずに凪咲を風俗に出し、稼いだ金は搾り取ってパチンコにあててしまうくせに、凪咲が少し派手な化粧をすればおまえは既婚者でありながら身体を売ってお金を稼ぐ売女のくせにこの上心まで売るつもりかこのビッチ、と凪咲を罵り叩くのだと言う。
 その頃にはすでに世界の終わりが始まっているとテレビでしきりにマスコミが喧伝していた。世界がそう遠くない未来に終わると知っても、つながっている日常のどこをほどけば世界との別れに向けた糸口が見つかるのか皆目見当も付かないままに日々を過ごしている間、凪咲は子どもの給付金にすら手をつけてしまう旦那からのハラスメントに耐えて日銭を稼ぎ、ただひっそりと世界が終わるのを待っていた。
 凪咲の肌には確かに暴力の痕が残されており、俺はひどい憤りを抑えきれずに、凪咲にどうにか旦那のもとから逃げ出すことを提案したが、その頃の凪咲は自分がいかに特殊な環境にいて、どれほど苦しい思いをしているのかをてんで自覚していなかった。そうしてホテルの一室で話をしていると凪咲がこれ以上遅くなるとまた旦那に叱られるからと帰宅を急いだので、車で最寄りの駅まで送っていくからその間だけでも一緒にいてくれないかと誘うと、凪咲はそれならば構わないと頷いた。
 外は海風が強く吹いており、凪咲の長い髪が大きく風にたなびいて運ばれてきた桜の花を絡ませる姿を見ながら、俺は久方ぶりに胸に去来する恋の予感を強く感じていた。花びらが舞う中、煽られる風に髪を抑える凪咲を撮ると、凪咲の左手に俺の右手を伸ばした。伸ばした手は拒まれずに優しく受け入れられ、我々はそのまま手をつないで歩いた。さっきまで生まれたままの一糸纏わぬ姿で本能の赴くにまかせ行為にふけっていたにも関わらず、手をつないで歩くというそんな些細なことに照れと高揚する胸の高鳴りを覚えながら、駐車場までの短い道のりを共に歩いたのだった。
 別れ際に仕事用ではない連絡先を交換したいと言うと、凪咲は意外にもあっさり教えてくれた。
「逃げ出したくなったら、その時は俺を頼って」そう言う俺の言葉に凪咲は微かに笑い、そうして知らない街の人込みに紛れて行った。俺は煙草に火をつけ、その姿が遠目にすら確認できなくなってもしばらく車のドアに寄り掛かり、凪咲の歩いて行った先を漫然と眺めていた。

 一度シャワーで汗を流してさっぱりしてから花火をすることにし、俺が先にさっと浴びた後で凪咲が交代で浴室に入った。俺は煙草を吸いながら、温く湿気を含んだ夜風に当たり空を眺めていた。さっきまで遠くに光る雷が見えていただけだったのに、いつの間にか風に流され雨雲はずいぶんこちらにまで接近してきており、夜空に星はほとんど確認することができなかった。
 あの雨雲が、南から世界を飲み込む終焉の正体なのだろうか。いま、世界はどのあたりまで終わったのだろうか。鳴子に逃避行して来る以前に見ていたテレビでも、いつの間にか政府の統制下に入ったマスコミが、終わる、という事実以上の具体的なことはなにも放映してくれなかったし、それはインターネットの世界においても同じことだった。そのせいで、世界が終わることは、緊急事態宣言が出されたという一点の事実を除けばまるきり現実味を欠いていた。
 世界が終わると思えばこそ、俺は無責任にも仕事を放り出して家庭もあり子どももいる凪咲を連れ出すことができたけれど、もしも政府やマスコミが煽る通りにきちんと世界が終わってくれなければ、投げ捨てたつもりになっていた現実のかけらを回収し、元に戻るために帰らなければならないのだろうか。そんな事態はまっぴらごめんだった。
 この後本当に花火をしに出掛けて良いものかどうか天気予報が気になり、かと言ってこの部屋にはテレビもなかったので、電源を落としていたスマートフォンを立ち上げていると、浴室の方から髪を乾かす音が聞こえてきたので声をかける。
「雨が降ってきちゃうかも知れないから、支度が整ったらすぐ花火に行こうか」
 ドライヤーをかけている凪咲から返事はなく、咥えていた煙草を灰皿に挟み、換気扇の下に運んでから、凪咲の耳に聞こえるように浴室まで移動してもう一度声をかける。凪咲は暑いのが我慢できなかったのか、パンツだけを履いた状態でドライヤーをかけており、滑り台のような曲線を描いた胸とピンク色の乳輪が性的ではなくあくまでも体の一部として凪咲とともに動いていた。
 起動の完了したスマートフォンには職場からの執拗な電話以外に、母から何件かの着信とメッセージが入っていた。職場から休んでいるとの連絡でも入り心配して連絡してきたのかとメッセージを開くと、そこには祖母が亡くなったと書かれていた。日付はこちらに来た翌日だった。亡くなったけれど、緊急事態宣言下のいま、移動もできないので、宮城県で一人暮らしの祖母の葬儀は行わない旨も記されていた。

 閉め切られ籠っていた空気を換気するために家じゅうの窓を開ける。仙台市に向かう途中から雨は本降りになり、いまも大きな雷鳴が轟いている。古い家なので襖や引き戸も多く、一部はかなり立て付けも悪くなっていたけれど、亡くなって二週間が経過したいまも、祖母の気配は確かに家に残っていた。
 祖母が急逝した連絡を受けて居ても立ってもいられなくなり、駅前のレンタカー屋で車を借りようと調べると店は六時までで、タクシーを電話で呼び出して一時間半かけて祖母の家にやって来た。昔から変わらない外の植木鉢の下に置かれた合い鍵を使って中に入ったは良いものの、家主不在の家でできることなどあるはずもなく、換気も兼ねて家の中の撮影を済ませると、縁側に腰を下ろして強まる雨脚を眺めた。
 東京と宮城で離れていたため、けっして親密な仲の祖母だったわけではないけれど、高校にあがるまでは毎年夏にここに遊びに来る数日間がとても楽しみだった。木登りや虫取りをしたり、庭に大きなビニールプールを出して遊んだりもした。カブトムシを捕まえた夏も、気の早いトンボに指を回しながら近づいた夏もあった。あの震災の後で鳴子温泉に向かう時も、ここに祖母を迎えに来て出発したのだった。
「ねえ、うっかり持ってきちゃったんだけど、ここで花火したらまずいかな?」
 隣に腰をおろした凪咲は、そう言って俺に花火を一本差し出した。見ればもうすでに花火はビニール袋から取り出され、綺麗に縁側に並べられている。
「いいね、やろう」
 祖母の家に遊びに来た晴れた夜に花火を庭先でしたことは何度もあったけれど、これほどの豪雨の中でするのは、場面を限定せずとも人生で初めてのことだった。縁側の下の踏み台に花火セットについてきた小さな蝋燭を立てた。祖母の家の塀が高いことも手伝ったのか、蝋燭の火は、雨を軒並み横殴りに変えてしまうほど強く吹く風に煽られながらもきちんと着火した。
 凪咲は右手と左手、それぞれに一本ずつ花火を持って、カメラを構えシャッターチャンスを狙っていた俺に向かって、極上の笑顔と共に花火を振りかざした。俺は花火を撮るときと凪咲を撮るときで設定を切り替えて何枚も何枚もシャッターを切った。花火もせずにカメラで凪咲を追うことに、凪咲はなにも言わずに付き合ってくれた。花火は暗闇の中、凪咲の手に操られながら、眩い火花と煙幕をあげ、円を描いたり波状にたゆたったりと器用に踊った。俺は撮影に夢中になるあまり、いつの間にか軒先から出てしまい、花火が終わる頃には哀れな濡れ鼠になってしまった。最後に二人で一本ずつ、線香花火を分け合った後、バケツに張った水の中で鎮火されている夏の風物詩の残骸を写して、我々の短い花火大会は幕を下ろした。
 バケツの水を門の外の排水溝に流し、残りの花火は花火と新ジャンルビールの入っていたコンビニ袋にまとめ、凪咲が風呂場から適当に見繕って持ってきてくれた大輪が幾つも描かれたバスタオルで頭を拭きながら縁側に腰をおろし、そのまま仰向けになる。
「今日が最後の日だったらなあ」
 寝転がってつぶやいた俺の上に凪咲が乗り、おでこにキスをした。覆いかぶさると襟の緩い服を着ていた凪咲の胸元が開き、隙間から下着をつけていない胸が覗いたので、俺はその柔らかい胸を触りながら、頭を押さえて口元にキスをした。
 甘い雰囲気になりそうなところで、呼び鈴を鳴らす音がして、我々は慌てて居住まいを正し、すでに漏れている室内の灯りから居留守を難しいと判断した俺はインターホンに返事をして扉を開けた。
 訪問者は隣に住んでいるという若い男だった。俺が、ここの孫ですけどどなたですか、と尋ねると、男の妻が倒れた祖母の第一発見者で、祖母が病院に運ばれたところまでは知っていたが、すでに亡くなっていると思っていたのに電気がついていたので、どうにか息を吹き返したのか、はたまた不審者でも侵入しているのではないかという話になり、男がやって来たと教えてくれた。男が話している途中で、物陰から様子を伺っていたのか、胸に寝息を立てた赤ん坊を抱えている妻と思しき人物が現れた。
「でも良かったわ。近くに身寄りはいないとおばあちゃん言っていたから、この緊急事態宣下じゃ随分哀しい人生の終わりを迎えることになっちゃったんじゃないかって、夫と話していたんです。県内にお孫さんがいたのなら良かった。おばあちゃんのご容態は……」
 俺は静かに首を振った。雨を凌ぐ庇に取り付けられたスポットライトが照らし出す先に寝転がっていた蝉が、じじじ、と微かに鳴いた。
「遺品の整理に寄っただけなんです。祖母の遺言で、葬儀をやる予定もありません。生前は祖母が大変お世話になったのでしょう。また改めて挨拶に伺わせていただきます」
 口から出まかせを並べ立ててドアを閉めようとすると、上がり框の脇に控えていた凪咲がそのドアを止めた。
「赤ちゃん、おでこに怪我をしているみたいですけど……」
母親は咄嗟に赤ん坊のおでこを隠し、さっき寝る前に家の柱にぶつけちゃって、と答えた。

 そのまま祖母の家に泊まることもできたけれど、亡くなったばかりの人の家で、おまけに凪咲にとってはほぼ赤の他人の家にいきなり宿泊することは躊躇われ、我々はもう一度タクシーを呼び、鳴子の家に帰ることにした。
「あの赤ちゃん、それにお母さんも、旦那さんから虐待を受けているじゃないかしら」
 帰りのタクシーの車中は、祖母の家にやって来た隣家の話で持ち切りだった。凪咲の口調は野次馬的なそれではなく極めて真面目なものだったので、俺は温くなった新ジャンルビールのプルタブを二つ開けて片方を凪咲に渡した後は真剣に凪咲の話に付き合った。
「確かに違和感を覚えなくはなかったけど、でも、そんな風に乱暴を働く人がわざわざ祖母を気遣って様子を見に来てくれたりするかな?」
「だからよ。後ろめたいことがあるから隣家の灯りが気になるんじゃない。それに、そう言う人ってだいたい外面は良いの。変なところで社交性が高いって言うか……」
 雨は降り続いていたけれど降り始めに見た雷は一時的なもので、どうやらこの雨と世界の終わりは無関係のようだった。日付も跨ぎ、鳴子へとタクシーが進行するにつれて雲は切れ、雨も走り去る車の照らすライトを灯篭のように写す水たまりを置き土産に綺麗に上がってしまった。
 タクシーの運転手に肩を揺さぶられ、眠りの世界から呼び戻される。どこで気を失ったのか、酔いの回った我々は深くシートに埋まるようにして眠ってしまっていた。
「お客さん、燃えてますよ。お客さん、燃えてますよ」
 初老の域に達した運転手が言っている言葉の意味を把握することができず、俺は彼の顔のパーツを目、鼻、口と順に追い、視界と頭の焦点が揃うのを待った。どうにか身体を起こし横を見ると、凪咲はまだ眠っていた。その向こうに、無言のまま遠くを見つめるあのこけしがいた。
「お客さん、燃えてますよ!」
 その指はこけしの見ているのと同じ方向を差しており、先を追って見ると、確かに家が燃えている。借りたばかりの我々のアパートが、二階の正面の窓から火を噴き、黒い煙を四方から上げていた。辺りにはおそらく近隣の人であろう人々で人だかりができていた。消防車の高い音が近づいてきている。
 俺は心の中で、もしかしたら出かけ際に吸っていた煙草の火を消さずに放置してしまっていたかも知れない、と思いながら、世界の終わりが終わるまでに時間がかかりすぎていることに対して腹をたてた。それからカメラを構え、ファインダー越しに燃え盛る自宅を覗く。
「逃亡に気が付いたあの人が追いかけて来て火を放ったのかも知れない」
 ぎょっとして横を見ると、凪咲は背もたれに身体を預けたまま目だけを開けてその光景をじっと見つめていた。
「でもこれで、あなたのおばあちゃんの家で暮らせば、もしかしたら私たちであの赤ちゃんを助けてあげられるかも」口元を手の甲で隠した凪咲が、目元を細めながら呟いた。

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