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『ノラや』(内田百閒)を1度は読んでほしい。が、2度目はきっと読めない。
猫という生き物は、実にカッコいい生き方をしている。
どう見ても届きそうにない棚の上に向かって躊躇なく飛ぶ。
勝てる見込みがなくても、動物病院のセンセイと戦う。
ご主人(下僕ともいう)が呼んでいても、自分の眠気を優先する。
キライなご飯はどんなに空腹でも口をつけることすらしない。
忖度一切なし。常に自分の心に忠実だ。
こんなふうに生きられたら気持ちいいだろうなあ。
膝の上でゴロゴロいいながら寝ている我が愛猫を見ていると、羨ましくなるし尊敬もする。
『嫌われる勇気』という本があったけれど、あれを地で行っている。
人にどう思われようがかまわない。
私はやりたいことをやる。嫌なことは嫌だ。
『嫌われる勇気』はベストセラーになったけれど、実践している人には会ったことがない。私も読んだけれど、出来なかった。
だって、人に嫌われたくないんだもの。
自分の心に正直に生きるということは、裸の心で生きるということ。
むき出しの心でいられたら、喜びを強く感じるのかもしれない。
しかし悲しみや痛みもド直球でぶち込まれる。世の中辛いことの方が多いのだから、丸腰でいたらボコボコにされてしまうだろう。
人はみんな傷つきたくないから、自分の心に鎧を背負ってヘラヘラしているのだ。
素直に生きるのは無理。それが、オトナの常識。
ところが、世の中には「いやだから、いやだ」を貫き通すメンタル猛者が稀に現れる。それが内田百閒(うちだひゃっけん)だ。
『ノラや』は、裸の心で生きている百閒センセイが、猫と過ごした日々をつづったエッセイである。自分の心に正直に生きた男が、猫と暮らしてみたらどうなった?的ドキュメンタリーとでもいおうか。
百閒センセイは猫が好きではない。(と、本人は言うのだが・・・)
なので、猫と暮らしてはいるが下僕にはならない。
ただ、猫にしてやりたいと思うことをする。
猫が寒くない様に湯たんぽをあてがったり、自分は嫌いな寿司をとったり、動物病院に連れていったり(初版は1957年である!)する。
スリスリしてほしいな~とか、そのお腹に顔を埋めてもいいですか、とか、そういう下心は一切ない。
喜ばせたいわけでもなく、ただ、世話を焼きたいから焼く。
なんの見返りも求めないセンセイの姿は、尊くもある。
そのセンセイのそばで、ノラは幸せそうにしている。
その様子に、「猫は好きではない」なんて毒づきながらも、はしゃいだ気持ちが筆に出てしまっている百閒センセイ。
鬼瓦のような見た目のギャップも相まって、天井ぶち抜く可愛さである!
出てくるにゃんこも、「なぜこんなカワイイのと暮らしながら下僕にならずにいられるのだろう」と不思議に思うくらい可愛らしい!
ああ、猫がいるってなんて素晴らしいのだ!!!
百閒センセイと猫のノラに幸あれ!
と、一度目の読書では天にも昇る心地よさがあるのだが。
唐突にノラは百閒センセイの前から姿を消す。
人は、心の傷が深くならないように、自分を偽りながら暮らしている。
では、百閒センセイのように、自分に素直に生きている者の悲しみは・・・。
センセイは、無防備のまま、愛する者の喪失に立ち向かう。
素直だから、避けられないのだ。突き進んでしまうのだ。
猫を失った悲しみよりも、愚直なまでに真正面から心の痛みと戦おうとする百閒センセイの姿に、打ちのめされる。
悲しみをごまかそうとせず、悲しみをただ悲しみとして受け止め、味わいつくすかのようなその姿は、哀切で、でも、どこか羨ましくもある。
ああ、ここまで深く猫を愛し、人目を憚らずに泣くことができるなんて、と。
内田百閒の文章は、その生き方と同じく、まっすぐに読む者に届く。
だから、二度目は読めない。
あまりにも、悲しみが悲しみのままだから。
最後までお付き合いいただきありがとうございます。 新しい本との出会いのきっかけになれればいいな。