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『ソーシャルメディア・プリズム』を読んでみた。

文章を書くことは楽しい。
初めてそう思ったのは、私が小学校6年生だった時。
担任の先生が、私の作文をたくさん褒めてくれたのだ。
「とても面白い視点だね」「この言葉使い、好きだな」「読んでいると楽しくなるよ」「もっとたくさん書いてごらん」
国語は好きだったけれど、作文はあまり好きではなかった。
そんな私を先生の褒め言葉が変えてくれた。
先生の言葉で、私は文章を書くことに対して自信がついた。
勇気をもらった、と言った方が正しいのかもしれない。
「これでいいんだよ。大丈夫」
優しく背中を押してもらったような気がした。
あれから何倍も生きたけど、先生、私は今も文章を書くのが好きです。

誰かに褒められたり、賞を受けたりすると、その分野が好きになる。
もっと頑張ってみたくなる。
もっと褒められる私になりたい、できる私になりたい。
そんな向上心が燃え上がるのだ。

『ソーシャルメディア・プリズム SNSはなぜヒトを過激にするのか?』(クリス・ベイル 著/文,  松井信彦 翻訳 みすず書房)を読んだとき、そんなことが浮かんできた。


版元ドットコムより

ソーシャルメディアは、プリズムのように自己や他者への認識を屈折させる。その歪んだ自己が過激化しやすい理由とプロセスを考察した本である。
なんとなく、似ている気がしたのだ。
褒められて頑張ろうとすることと、SNS上で過激になってしまう心理とが。

SNS上には、必ず褒められボタンがついている。
Twitterの♡、Instagramの「いいね!」、noteの「スキ」。
その数が多ければ多いほど嬉しいし、認められたような気がしてしまう。
また、そういう投稿は「正しい」ことのように思えてしまう。
こんなにたくさんの人が「いいね!」を押しているのだから、これが世間一般の考える「普通」で「正論」なんだろうと。

数字というのは曲者だ。
私はあまりベストセラーを読まないが、「この本100万部も売れてるんだ」と言われると、なんだかちょっと手にとってみたくなる。単に「ベストセラー」ならスルーするのに、「100万部」という数字を出されると揺らぐ。説得力があるのだ、数字には。

SNSには数字がたくさんある。
フォロワー数、リツイートされた数、再生回数、閲覧数・・・。
数字が大きければ大きいほど、その人の存在価値も大きく見える。
フォロワー数100万人越え! というキャッチコピー付きで紹介されるタレントさんの多いことが、それを証明している。
SNS上の数字はどれも、ドラクエのLEVELみたいなもので、多ければ多いほど強いのだ。力なのだ。

SNSではいくらでも「別人」になりすませる。
性別、年齢、性格、学歴、趣味・・・。何でも変幻自在だ。
転生しほうだい。
私も男性作家に憧れているので、できるだけ「男らしい」文章を書こうと努めている。
つまり、現実の「私」とは別の「私」がSNS上には存在しているのだ。
その「私」が褒めそやされているとする。
私の中の一部分だけが「いいね!」で「スキ」で「正しい」と言われている。認められている。力を持ち始める。
そうなったら、どうする?
私だったら「SNS上の私」に磨きをかける。多少嘘をついたとしても。
だって、みんながそういう私を求めているのだから。

もっと褒められたい。
その気持ちが、褒められるための「私」を研磨し鋭くしていく。
褒められない部分を削り落とした「私」は、一部分だけが肥大したいびつな姿になっていく。極端になっていく。

SNS上で過激な言動をしたり、誹謗中傷を繰り返す人を、自分とは全く違う異星人のように思ってきた。絶対に分かり合えない人種だと。
しかし過激化するプロセスを知ると、決して他人事とは思えない。

褒められるのは純粋に嬉しいし、励みになる。
褒められるから頑張れる。
でも、SNS上の褒め言葉には考える時間が必要だ。
SNSの「いいね!」や「♡」は「何に対して」なのかを教えてくれないからだ。
ソーシャルメディア・プリズムに惑わされないためには、自分軸をしっかり持つこと。自分という人間はどういう考えを持ち、何を大事にしているのか。自分軸さえしっかり持っていれば、プリズムによって歪むことはない。

そのためにはやっぱり読書、それも様々な分野の本に触れることが大事な気がする。違いを知ることは、自分を知ることでもあるからだ。
ううむ、今回もよい読書体験であった。
読書の秋2022の企画に感謝。
たぶんこの企画で紹介されていなかったら読むことはなかっただろう一冊。
noteがもたらすプリズムは、私の本棚を七色に輝かせる。

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読書感想文

最後までお付き合いいただきありがとうございます。 新しい本との出会いのきっかけになれればいいな。