ぺこぱが生んだ新しい漫才を考える

M-1グランプリ2019において、その場の空気を大きく変えたのがぺこぱ(サンミュージックプロダクション所属、11年目)である。ツッコミ・松陰寺太勇から発せられる言葉は「誰も傷つけない優しいツッコミ」と評され、新しいスタイルの漫才が注目を浴びた。では、彼らネタはこれまでの漫才と何が違うのだろうか。


ぺこぱは常識を拡張する

まず、漫才において観客は平均的な認識=【常識の基準線】の上にいる存在であり、ボケはその線から【非常識】か【超常識】のどちらかに向かってとぼけていると考えられる。
【非常識】は、間違った認識で言動を起こす王道のスタイルである。一方、【超常識】は決して間違った考えではないが、その思想が強すぎるが故に一般的な常識から離れてしまったボケを指す。(図A)

名称未設定-2-01

これらに対してツッコミは、ボケは間違ったことを言っていると修正し、平均的な認識を提示する。つまり、ツッコミは観客と同じ【常識の基準線】上に存在することで、線から離れたボケのおかしみを表現している。(図B)

名称未設定-2-02

反対にあえてボケを過剰に受け入れるのが肯定ツッコミである。ツッコミは常識の基準線がボケ側にあると主張することで、そのネタの世界では観客の視点のほうが間違っていると認識づける。しかし、結局正しい【常識の基準線】は観客の視点となるためダブルボケに近い形となる。(図C)

名称未設定-2-03

ぺこぱは、一見すると肯定ツッコミに分類されるが、深層部分はまた異なる関係性で成り立っている。
松陰寺太勇は、しばしば「〜とは言い切れない」「〜の可能性がある」といった非断定的な言葉を用いてツッコミをする。(例:「ナスじゃないとは言い切れない色合いだ」「宇宙人が電車に乗ってくるってことは、宇宙船が壊れている可能性がある」)
「そういう場合もあるけれど、そうでない場合もある」、つまり解には幅があり、常識というのは線のように細く狭いものではなく、面のように広いことを示している。
観客は、不動で明確だと思っていた基準線が、実は大きな面を構成している一辺に過ぎず、ボケの視点も観客の視点もどちらも常識に内包されていると気づくことで笑いが起こる。(図D)

名称未設定-2-04


・ぺこぱは社会を悲観しない

ぺこぱのネタには、日本の今や未来に関する時事問題が登場する。(例「ぶーんじゃなくてすーんの車がもう街中に溢れている」「お年寄りがお年寄りに席を譲る時代がもうそこまで来ている」)
同じく、爆笑問題やウーマンラッシュアワーなども時事ネタが多いが、彼らは人々が話題にしづらいと思っている部分にあえて触れてみたり、風刺表現を使って批判をすることで悲観的に問題提起をしている。
しかし、ぺこぱの場合、そういった事実があると述べるだけで、それに向かって良いとか悪いとかを言うことはない。ただ訴えているのは、そういった問題のある世の中で生きていくための道徳的な考え方である。問題解決型漫才と言えるかもしれない。
ぺこぱにとって時事問題は、彼らが伝えたいメッッセージを訴えるためのツールに過ぎないということだ。
(ネタ「タクシー運転手」の中で、松陰寺が日本人は労働時間が長いため、世界に比べて生産性が低いと言う部分があるが、これはこのあとボケ・シュウペイが発する「うるさいな!」に対する盛大なフリに過ぎず、この台詞自体では笑いをとっていない。)


冒頭「ぺこぱのネタはこれまでの漫才と何が違うのだろうか」という問いにひとつの結論を出すとすれば、彼らはお笑いをお笑いの世界に閉じ込めず、社会の流れを捉えて令和という新しい時代に羽ばたかせたトップバッターであったいうことだ。
令和最初のM-1グランプリは、10組中7組が初出場という新鮮なコンビが揃い、ぺこぱ同様に表現の新しさを追求していた。しかし、多くのコンビは、これまで他の芸人がやってこなかったこと、つまりお笑い界の中から新規性を見出していたように思う。そのため、ぺこぱの視点を変えた漫才は、我々観客の目に衝撃的に映ったのではないだろうか。