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生活保護日誌.86

お久しぶりです。二足の草鞋です。

元気してますよ、ハイ。元気だけが取り柄ですから。まあー言ってみれば、元気だけで、現金はお察しの通り最低生活費しか支給されませんので、さほど持っていませんが。まあ、何とか自分なりに穏やかに過ごせています。

早いところもう、4月が見えてきましたね。3月になって「春らしい季節が来るかな」とか思っていましたが、全然そんなことはありませんでした。

寒い、寒すぎる。

まだ”冬の季節さん”が季節の座を、春さんに明け渡したくないのでしょうね。それでもいいです。かかってこいですよ。なんせ去年の11月から寒くなり始めて今日に至るまで、こちとら冬の季節に体を慣らしたのですから。

逆に、季節の変わり目のほうが怖いくらいです。それだけ体の調子をグンと入れ替えなければならないですから。

そりゃー一日や二日で季節の変化に合わせられればいいですよ?でも、僕は「体」というものは、そんなこんなじゃ切り替えなんてできやしないというのが分かったというか

「時間をかけて、ゆっくり、自分のペースで目の前のことに対峙する」

という心がけを、常日頃から行うよう努めて生活していますので、とにかく、ゆっくりです。

体で何かをなそうとするには、どうにもこうにも時間がかかるもの。そりゃ、頭で考えたらものの数分で、終わりますよ?でも、僕はそんなことに価値を見出していませんし、言葉だけで完結する正解なんて、僕より偉い立場で学者やら哲学者やら歴史に名を遺す人やらがもう答え、出しています。

僕がなすことは、この体から立ち上る言葉を日々、書き留めることです。

その書留は、単なる”文章”という形ではありません。

もちろん、こうして、SNSを使ってnoteというコミュニティーに参加しているわけですから、文章を書いて少しだけつながりを持ってまた次なる何かに向かって歩むこと、も立派な書留です。これを見た誰かが何かを感じていただけたら、うれしいな。

また、歩くことだって書くことです。歩くたんびに目の前の景色が移り変わる。そのたびに自分がどう動くか、判断しなければならない。

信号が青になったら渡る。渡る前に近くに人がいるかどうか、また、車が来るかどうかを予測する。

道端にごみが落ちていたら、拾う。拾ったごみを地方自治体が設置しているごみ箱に捨てされてもらう。

そんな感じで歩くと否応にも目の前の出来事に対処する必要がありますし「必要」という意識をしなくても、体が勝手に動く。その直観力といいますか日々積み重ねた、歩きに付随した僕のサブで持ち合わせている行動が、毎日歩くことによって磨かれていく。

ごみを拾うことをあなどってはいけない。

僕はトングを使ったり、ごみ袋を持ったり、軍手を使用せずに、素手でごみを拾います。このご時世をあらゆる方向から賑わせている存在、といいましょうか、不潔から自らつっこんでいく僕の行為はある人から見たら狂気の沙汰のように思えるかもしれません。

でも、手が不潔になれば洗えばいいですから。街中には公園もありますしショッピングモールに行けば必ずトイレがあります。僕は必ずハンカチを携行しています。手を石鹸でシュッとよく洗ってハンカチでキュッと水気をふき取りさえすれば、もう元通り。

まあ、また道端にごみが落ちていると、拾っちゃうんですが。

習慣って、怖いものですね。

別にごみ拾いをして社会貢献したい、なんてことはさらさらありません。僕は、僕のためにごみを拾っています(すいません、なんかごみごみつぶやいていますが、続けさせていただきます)。

小さな変化に気づくこと。

まあー僕が、神経質な性格でこだわり気質、元来の性格というか特性というか、医学方面でいうと、もう「広汎性発達障害」と20歳の時に診断がなされていますが、そんな感じで見る人から見ると「うわ、神経質かよ。。。」なんて呼ばれそうで、疎まれます。

ですが、僕はこの自分が持っている神経質な性格が、今となっては大好きです。まあ、、、細かいことに気づきすぎて、それを他人に押し付けることは、なしです。僕も過去そのようなことをして、さんざ家族や今までかかわりを持ってきた人たちに迷惑を掛けました。申し訳ありませんでした。

今現在も僕は生活保護を受給しています。

だからといってなんですが、僕の持っているマイペースさ、僕が「自分にとって何が大切なのか」を見出すための、この、生活保護受給の決断だったわけであります。

家族と距離をとる、雇用契約を結びお金を獲得するために労働という対価を支払うことから、距離をとる。

そうして問答無用で自分のペースを守れる土台を作ったのだな、と、今思えばそう感じます。

僕は歯磨きをするにも30分かかります。そのあいだ、洗面台は僕が占領することになり、そのあいだ他の人は使えません。自分勝手極まりないですよね。他人の都合を全く考えていない行為ですから。

でも、僕は自分の歯を大切にしたいがために歯を30分かけて一本一本磨いています。歯は命に等しい存在です。なんせ食べることに必要不可欠でしゃべることにも歯が必要で、食べること、言葉を発することは生きることには欠かせない大切なものです(といっても僕は無口な性格なのでこうしてテキストとして言葉を発しています。文章多弁極まりないことご容赦)。

一人暮らしを始めて4年。

その前に一人暮らしの試んで何度か失敗を重ねたのちの4年間ですが、ね。

歯を磨くことに時間をかけても、誰から何も言われません。なんせ、一人。

一人ですから。

でも一人だと時間を持て余してしまいます。

「今日一日、何をしようか」

と昨日も息をついて出た言葉と毎日対峙することこの上ないです。

でも、特段、「何をしようか」なんて思う必要なんてない。

体が勝手に動きますから。

日々積み重ねた何らかの出来事をもとに、「僕」が起動します。

その歩みをもう4年間も続けてきましたから、今更ゼロにするつもりは毛頭ないです。

喜怒哀楽、
喜ぶ僕、
怒る僕、
哀しい僕、
楽しい僕、

そして、それらをないまぜにしたよく分からない存在として

今ここにいる僕。

一人でいると、それらの僕たちが、まるで座を囲むようにしてあれこれ口をはさんできます(半分本気で半分妄想です)

僕は元来一人遊びが好きな子供でした。指人形を机の上に並べてブーンだのガッシャーンだのオノマトペ発しながら手に持つ人形を勝手気ままに動かしていました。

今、何となく、当時の僕が、やっと、顔を出したのかなと思います。

社会のあれこれが、僕にとっては遠い出来事です。

今まではそこから取り残される恐怖が勝ってまとめブログやSNS、動画共有サイトを食い入るように見ていました。

でも、今はあんまし気にならないです(100%じゃないですけどね)

”デジタルネイチャー”だの言われる今の世の中、流れる情報をすべて自分の手中に収めるなんてこと、できやしない。ネイチャー=自然、”自然”の雄大さをたかが人間である僕風情が、思い通りにできやしない。

だから最近は19時には床に就きます。

PCは、今、ネットカフェでカタカタとテキストを打っています。

僕の住んでいる部屋はワンルームですので、まあノートPCがあれば取り回しが楽で場所を取らないのですがPC・スマートフォンといういわゆるパーソナルコンピュータ、インターネットがつながるデバイスは、その端末が持っている質量以上に、重いのです。

まあー単に、僕が持っている古いデスクトップパソコンが狭いワンルームを占領して息苦しくなるってだけです。

それならば、こうしてネットカフェでたまに息抜き程度にパソコンを思う存分カタカタ言わせたほうが気が楽。一応鉄筋コンクリートのマンションですけど、よゆーで隣人のいびき、聞こえますからね。神経質な僕にはたまったものじゃないですけど、この環境が僕にとっての分相応な場所です。

もし僕がお金をたくさん持っていたとしてもあまり広い場所に、住みたくはないな(すっぱいぶどう)。

掃除しないといけないですし、人一人生活するには究極のところ

寝て一畳、起きて半畳

で十分だと思います。まあ、今は過程のさなかですのでまだまだ生活するにしても一畳以上の場所は取りますし、この言葉はまだ、

僕にとっての理想にすぎません。

ゆくゆくはそうした生活になればいいなと思っています。

過去の記事で

「内にも、外にも一人になれる居場所がない。」

と言いました。

だから、僕は、

自分が取り廻せる領域だけを自分のものとしたい

と考えています。

寝る、食べる、坐る、歩く。

少しずつ、生活を磨くことによって見えてくるものがあります。

まあ、、、今現在思いつく範囲ですが、ね。

今僕はどうにもならない時、自らの瞳の中に逃げています。それか、歩き続けて一瞬一瞬一人になり続けられるよう、努めています。

てな感じで、今日はこれくらいにしておきます。

最低限度の生活ですから、分相応な生活に一生をかけますから、ネットカフェ代そんなにかけられないや。

こうしてネットカフェを利用して「PCを利用する」という行為。

僕はこうした自分にとって大切にしたい行動にしっかりと手間暇と身銭(といっても市民による税金ですが。市民の皆様、ありがとうございます。大切に使わせていただきます)を切って、痛みを知って、覚悟が立ち上って、実行に移したい。

ついこの間、銀行に行って「両替」をしてきました。両替することもいまとなりゃお金のかかる行為です。僕はなぜ両替をしたのか。それは、通っている個人商店の鮮魚店で買い物するのにお釣りを出したくなかったからです。

そうした僕にとってのこだわりが、少しずつ他人に対する思いやりに波及して、今度はその他人による行動が少しでも穏やかなものとなり、僕にとってのささやかな生活な潤いにつながれば、というか、そういったものも今となってはどうでもいい。気づかれずに誰かに対して気遣いができれば。

見返りなんてどうでもいい。

僕がしていることが他人にどう見えたって、それは他人が決めることであり、僕は僕にできることをただやるだけ。

もし僕が自分の機嫌を損ねたら、そうしてもしその機嫌の損ねが、不用意に物に当たったり他にネガティブをまき散らしたら。

※僕は特定の団体に所属しているわけではありません

宗教的な用語を使用させていただきますが、”因果応報”の法則に従って、めぐりめぐって僕に災難が降りかかる。

よって、僕は他人に対して何か良いことをしようというわけではなく、事前に災難の芽を、摘み取ることに、努めて生きています。ていうかそうして生きられたらなーと思っています。

蛇足ながなが申し訳ありません。これ以上ネットカフェにいると財布の中身が乏しくなるので、また今度次の機会でお会いしましょう。

noteで関わる皆様のご武運もお祈りします。

では、またいつか👋

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