見出し画像

生活保護日誌.83

今の僕も歩き続けています。

でも前に比べて、歩く時間は減っています。

歩かされざるをえない日々を抜けて今は眼前に人がいようといまいと関係なく、ただ道を突き進んでいます。

今年の冬は拍子抜けするくらい暖かい日が訪れたりする、そんな変わった季節ですから、僕も大変苦戦を強いられてます。

ある夜突然目が覚め右腕が痒くてたまらずムヒを塗りたくって、そんでもって何とか寝苦しい時間をくぐり抜けて、あくる日の午前に玄関に小さな飛来物体が顔の前を横切り「あー、蚊だ」と人生初かもしれない冬に出現する”夏の忌々しいヤツ”がいたものだ。

冬の暖かい日は冬づもりの僕の心に隙を作る。

そして、固定観念が取り払われたことでエマージェンシー119脳の警戒スイッチがどんな状況でも君を守ろうと日常が思ってもみない色に染め上げられ、非日常へと変貌する。

駅2

幸い夜はぐっすり眠れている。

それくらいしか早鐘を打つ心臓を気にして必要以上に健康に危機する、自らが放つ臆病さを宥めうつ方法がない。

耳栓をすれば周囲の生活音を遮断できるかもしれない。しかし自らが発する鼓動の音が、自分の存在・位置を周りの音で推測できない代償作用としてのきついキーンとした耳鳴りが、これでもかと内側から響いてくる。

僕はデイケアに行かなくなった。

一つの空間に自分の予測を超えた動きをする存在たちが無遠慮に己の欲求を解消するために方々へ散らばりまどう気の流れに頭がいかれちまう。

これはデイケアに限ったことじゃなく他人と関わる上では避けては通れない問題なんだけど、これが僕にとっての日常だから仕方がないんだよなぁ。

もちろんデイケア室に常駐する精神保健福祉士・看護師または臨床心理士に僕の悩みを聴いてもらおうと試みようと、本当は声を吐き出すのもやっとだが、努めて人に話を聴いてもらおうとした。

でも、”傾聴”というのは何ともしがたい不気味さを覚える。

「夜眠れていますか?」

「食事は摂れていますか?」

「そうなんですね、一緒に考えていきましょう!」

「○○○○・・・」

「○○・・・・・」

「・・・・・・・」

「______…」

これが”医療”という文化圏にいる人たちにとってのお作法みたいなもの、だと薄々分かっているのだが。

その人たちの仕事だから、仕方ぁがない。

患者がカウンセラーの導きから自らの物語を組み上げていく、聞き手から答えを授けてもらうのではなく「何とか問題から思考を切り離して、どうにかやり過ごして生きながらえる」ことを目指しているという、僕の主観から見た腹の落としどころとしては、こんな感じかなぁ。

「体調はどうですか?」と話の主導権を渡されているふうに、でも結局『健康』という医療にとっての”神様概念”に沿って僕の葛藤が一つのケースとして記録され、誘導されて。

瞬間瞬間変わっていく今の僕からしての”僕だった”=情報、ソレを、「排泄されたう〇ち」を、無菌な透明な入れ物に保管する。

「コロコロ変わるその人の都合に合わせていたら、社会が成立たなくなる」

というのは、至極ごもっともだ。

でも、医療従事者が決まり文句によく分からん名前の薬の処方を勧め、ケースとしてう〇ちとして距離を取られて扱われているような気がしてならず、そう受け取ってしまう心の尺度を持つ僕は

またしても多大に人間としての尊厳を傷つけられる。

まー、僕が言う筋合いはないけど病院も一つのビジネスとして成り立っているわけで、一人の患者にでこ突き合わせてじっくり治療にあたるなんて悠長なことしてたら経営なり他の患者に割り食うこたぁ分かっているけどさ。

そういうものだよね。

またしても、自分の身は自分で守るしかないと悟る。

必ずしもオートマティックな人ばかりではなく崇高な心持で看護にあたっている人たちも中にはいると思うけどさ。

というか、冬の寒さで気が立っている僕の勝手な妄想の上で成り立った文章だから、これはあまり表現としてはきれいじゃないし偏見極まりない他人の事情を酌まず身勝手なものだから、大目に見てね。

ふう。

「僕が見る世界」は”僕の解釈をもとにして出来上がっている世界”だから、そう解釈してしまった事実は簡単には覆らずそこから上書きされる瞬時の出来事はその解釈の影響を少なからず受けているのだから、カルピスの原液が薄まり切って水になるまで飲み続けるしかない。

別に医療を批判したいわけじゃない。

毒は薬。傷を癒しに傷疲れ、健康は不健康を引き連れやってくる。

はあ。

僕はただ落ち着ける場所が欲しかっただけ。

まあここも逃げ場所として機能しなくなったわけだ。

僕はまた自分の居心地良く過ごせる場所を探すほかなくなった。

(駅3に続く)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?