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ほめてのばす、の真実は

『ほめてのばす』とよく言うけれど、私は、その子、人によって、合う合わないがあると思う。だから、ほめりゃいいってもんでもない。ほめられてのびる場合もあれば、そうでない場合もある。

個人的に思う、ほめられてのびる場合とは。

自信がなくて、何か新しいことにとりかかることや、目の前にあることを始めることに躊躇しやすい、私なんかにできない、と思っていたり、自分は出来が悪いと思っている人がいたとする。そういう人が、何か少しできて、嬉しいと思ったときや達成感を得られたと少しでも感じられたとき、できたねとか、よかったねとか、すごいね、とか、短い言葉でもいい、できてたよ、見てたよ、大丈夫だよ、と、そう言われるだけで、次のやる気と自信につながる。

そういう場合は、『ほめてのばす』が当てはまるのだと思う。

基本的に、相手をよく観察する必要があると思っている。どんな人なのか、よく観察する必要がある。絶対。それは絶対。

観察して分かるものでもない部分ももちろんあるけれど、だからと言ってやらない理由にはならない。分かる部分が少しでもあれば、それでいい。

そういう意味では、『ほめてのばす』よりは、『目を離さない』が個人的には大事じゃないかな、と思う。どんな状況か見たうえで、本人の気持ちを推し量る必要もあり、軽く声をかける必要もある。

簡単なことではないけれど。

一方、頑張っている本人としては、ほめる要素がないときに、頑張ってほめられてもうれしくない。やってもやっても思っている結果につながらない。頑張るけれど、だんだんやる気がなくなる。でも頑張れって言われる。または、頑張ってるね、と言われる。でもできない、できるようにならない、いつになったらできるようになるのか、自分にはできないんじゃないか、などなど。

その気持ちも分かるけれど、なにかひとつできるようになるには、その過程が存在する。小さなことをひとつひとつクリアしていって、目に見える成果になるのだと思う。だから、そのひとつひとつができていること、続けていけばその先の大きな成果につながること、形になること、結果につながること、を伝える必要はあると思う。

もちろん、何言ってもどうにもならないときもある。それでも、声をかけることで気にかけていることは伝わる。挨拶だけでもいい。

ただ…、その挨拶すら伝わらないときもある。もうそうなったら、こちらとしては手は尽くした、諦めよう、せめて一旦なんとかしようとこちらから努力することはやめよう、と思うようにしている。そしてもうこうなってくると、考えてもしょうがない域に達している。それでも気になるは気になるけれど、考えないようにする。他のことに気を向ける。

こちらも人間で、そんなに聖人や仙人ぶる必要もないしね。

それでも何かの合間に、叫びたくなることがよくある。不思議な鼻歌が出てきたり、ため息をついたり。
しばらく考えないですんでいたのに、ふわっと脳裏に浮かんで、そんな風になる。

しょーがないやー、そういうしかない。

そしてもう一度、別のことに気を向ける。

そんなことばっかだなぁ。



個人的には、ほめられてうれしいけれどリアクションに困ることが多い。うれしいけど、何を言えばいいか分からない。せっかく言ってくれたのに、変な反応をすることが多い。でも、ありがたいな、と思う。伝えてくれてありがとう。

夫に対するくらい軽く返せばいいんだろうけど、そうもいかない。

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