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#5 適応障害の療養期間をインタビュー形式で振り返る :気づくということ(ゲシュタルト療法)

春先に体調を崩し、しばし会社をお休みすることに。医学的な病名は適応障害とのこと。療養期間を経ること4か月。人生の過渡期であったそんな期間をインタビュー形式で振り返りたいと思います。
それぞれの気づきにわけて。

(#4の続き)

ー今まで「場所」のことを聞かせてもらいましたが、それ以外に自分自身の手助けになったことはなにかありますか?
そうですね。かれこれ20年近く、趣味の傍らカラダやココロのことをずっと探求してきだんですよ。そのことが思い当たりますかね。

ーカラダとココロですか?
はい、入り口はゲシュタルト療法という心理療法なのですが、カラダとココロはつながっていると考えるんです。別々のものとせずに。
その体感もあって、特に「カラダ」は思考と違って、「今、ここ」に存在するものなので、なおさら興味を持ち続けていました。

ーカラダに興味を持つというのはどういうことですか?
確かに文面だけだと特殊な言い方ですよね。「カラダに興味を持つ」って。

カラダをきっかけにして、自己理解を深めるって言った方が合っているのかもしれません。
カラダって意識を向けない限り、なかなか気づかないんですよね。
例えば、今、自分の重さをどこで感じているか、とか、今、呼吸が浅いのか深いかのか、って当たり前にやっていることだからなかなか気づかないんです。

そんな自身の中の無意識の領域にゆっくり触れていく、気づいていく感じが心地よいんです。

ーそうなのですね。例えば、カラダへのアプローチってどんなのがありますか?
そうですね。例えば、さっき言ったゲシュタルト療法などが思い当たりますね。

ゲシュタルト療法ではそれを「気づき」という言葉で表すのですが、
気づきの世界も3つに分けています。

1つは思考の世界、1つは皮膚の内側、例えば感情とかカラダの感じの世界(インナーの世界)、もう一つは皮膚の外、五感を使って気づく世界(コンタクトの世界)、です。

ーもう少し具体的に教えて下さい。
さっき言った3つの世界のどこかに自身の「意識はいる」んです。

そして、大概、「思考の世界」にいたりする。過去のことを振り返ったり、明日のことを気にしたりしてますよね。
仕事ってそうしないと回していけないこともあるし。
ただそうすると「インナーの世界」や「コンタクトの世界」を置いていきがちだったりするんです。

ー「思考の世界」にいることがダメってことですか?

いえ、「思考の世界」にいることがNGってわけではないんです。

たしかに「思考の世界」だけにいると、ありもしない不安を作ったり、もう済んでしまっていることに恐れを感じたりすることはありますが、
昨日の反省を活かしたり、明日の予定を立てたり、と生活するのにはとても「便利な」世界です。

大事なのは、どの世界にいるか、に気づいているかどうかということです。
オートマチックにそれをしているのか、自分で選べているのかと。

ーわかったような、わかんないような・・。なんか難しいですね。
わかりづらいですよね笑 とても体験的な心理療法なので、説明をさぼりがちなところもあるんですが笑

ゲシュタルト療法のことはまたどこかで書きたいと思います。20年来の付き合いなので自身の振り返りもかねて。


この写真(視覚)の中に、嗅覚、触覚、聴覚(もしかしたら味覚も)も同時にあるとしたら?

ー言い方が悪いかもしれませんが、20年来やってきても適応障害になってしまったということですか?心理を勉強していたのに?
直球ですね笑 そうです。心理をやっていたのに、適応障害になりました・・・。と言いたいところですが、そこにあまり因果関係を持たせない方がいいと思っています。

自分を責める要素にしない、というか。
病気になる前は、たかを括っていた部分もありました。心理療法をやっていたのだから、きっと大丈夫と。
もちろんセルフケアはやったりしていたので、心理療法を知る前よりは耐性はあったのだと思います。
ただ、それはそれとして万能なことではないんだなと思いました。環境と自分とで50%50%の関係性なんだなと。
どちらも微調整することが、生活する、ことにつながるんだなって

ー病気になってから、ゲシュタルト療法は受けたのですか?
そうそう、受けたんですよ。
休職してすぐに受けたのですが、その頃はもう前頭葉が疲れている真っただ中で。
思考で物事を捉えることができない。
ただ、その分、五感が敏感になっている時期でした。
思考が停止した中で回りの事象と出会っているような、「コンタクトの世界」に意識を向けやすいような状態でした。
なんか、今までとは違う不思議な感じでした。

ー不思議な感じ?
はい、さっき「気づき」について触れました。そして、そんなゲシュタルト療法とは20年来の付き合いであることも。
ただね、自分でも無意識にシンプルな「気づき」ではなく「気づこう」、「気づかなければ」と思っていたことに「気づいた」んですよ。

ー「インナーの世界」や「コンタクトの世界」にいるつもりが、「思考の世界」にいたということ?
そうそう! うわっ、って思いましたね。 でも、この体験が、言い得て妙、であり、「気づくこと」に学びの長さは関係ないということです。
その時、その時が真実であって。

ーそうなのですね。改めてどんな体験だったといえるのでしょう。 
これは病気になったからこそわかったことなのですが、
休職する前のヒリヒリしていた自分は、なんとか苦しい現実を打開しようとして、藁をもすがる気持ちでした。
今までの知識も経験も総動員に、その中に馴染みのゲシュタルト療法もあり、「気づき」にもすがったわけです。

ただ、知らずに気づこう、気づく方がよい、と思い、傷口に絆創膏を張ろうとしていた。
ただそれはなぜか心の在り様が変わらなかった。本来の「気づき」ではなかったわけです。

休もう、癒そうと思っているとき、その手前の傷ついている自分に気づいてあげることの大切さをしりました。
「やすみたい」「癒されたい」ってことにまずは気づいてあげないと「休もう」「癒そう」もただの押し付けになると。
つまり、気づきは結果ではなくプロセスなんだと。

このことは日常でも意識するようになりました。

ーうーむ。確かに見落としがちなことかもしれませんね。ついつい、疲れのせいにしたりして、やりすごしていることもありますしね。
まぁ、それに近いかもしれませんね笑 
自分自身に気づきを向けられる「空間」と「時間」をとってあげることが大事なのかもしれません。

ゲシュタルト療法については、自身の整理がてらまた書きたいと思います。
療法とかつくと堅苦しい感じはしますが日常と重ねると、生活を耕す、のに有用なものだと思いますので。


ときにはひなたぼっこ

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