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プリニウスの追憶 〜古代ローマの「髭剃り」事情〜


「顔はイケメンだったんだけどさ」

 通路を挟んだ横に座る、短髪の女性が言った。

「仕事は?」

「広告代理店」

 彼女の向かいに座る色っぽい長髪の女性は「信じられない」と言った顔で、口に運ぼうとしていたドーナツを持つ手を止めた。

「えごめん、それのどこがご不満なわけ?」

「髭がね......」

「ひ、ひげ?」

「そう。髭がこう、整えてるんじゃなくて...」

「ああ、無精髭か。わかる、私も無理」

「でしょ? 清潔感ない人、私も無理」

「向こうではむしろそっちの方がよかったんだけど」

「わかるわかる。私もよ」

 約10年ほど前のことだ。
 心待ちにしていたミスドの新作に舌鼓を打っていると、隣の席に座る2人組みの若い女性たちからこんな会話が聞こえ、プリニウスはふとローマを思い出した。


 帝政時代の首都ローマでは、多くの理髪師が賑やかな場所(公共広場や競技場など)で熱心に営業し、大半のローマ人男性は髪と髭を綺麗に剃って整えていた。
 理髪師の起源は共和政の時代にあった。先日図書館で調べたところ、紀元前3世紀以前は男の威厳を保つという理由から、髪も髭も伸ばし放題だったらしい。そんなローマ人が髭を剃るようになったきっかけは、あの第2次ポエニ戦争だ。ハンニバルがイタリア半島に進行してきた際、彼はボロボロになっていたカルタゴ兵の服を戦死したローマ兵から剥ぎ取った服に着替えさせた。すると当然、敵か味方の判断がつかなくなる。ローマ軍は悩んだ末、全兵士に髭を剃ることを義務付けた。なぜなら、カルタゴ人は髭を伸ばす風習があったからである。
 こうして髭剃りの需要が増えたため、ようやく最初のトンソール(理髪師)がシチリア島からイタリア半島にやって来たのだ。

 正直、私は髭剃りがあまり好きではなかった。それは単純に、痛かったからだ。いや痛いなんてもんじゃない。激痛だた🥺 “この世界”のような剃刀やシェービングジェルは古代にはないのである。弱酸性の石鹸もなかった。錆びついた、切れ味の悪い青銅または鉄製の刃で剃るのだから、剃っている最中も剃った後も、しばらく地獄の痛みが続いたのである。しかも、傷を負った際の処理としてなぜかオリーブオイルと酢の混合液で湿らせた<蜘蛛の巣>で傷口を覆った。全く意味がなかったのは、想像に難くないだろう。

 しかしそれでも、美意識(というか虚栄心)が高かった者は、少し毛が伸びれば理髪サロンを利用していたし、金も暇もあり、虚栄心の塊のような貴族は毎日のように通っていた。特にカリグラやネロといったユリウス一族の皇帝らは、髭のみならず、体中の脱毛を念入りに行なっていたことで有名である。


「じゃあさ、どうすんの? もう会わないの?」

 長髪の女性の声で、プリニウスは我に返った。

「ううん。一応、もう1回だけ会ってみようかなって」

 短髪の女性はそう言うと、苦笑いを浮かべ、ポン・デ・いちごミルクを頬張る。

「まぁでもさ、どうせあと半年なんだったら、無理しなくてもいいんじゃない? 経験ないわけじゃないんだし。てかあのクソ仲介人・・・、具体的な日にちは教えてくれなかったの?」

 〈仲介人〉という言葉に、プリニウスの心臓が飛び跳ねた。思わず、「yぇおhっ!」と上擦った声をあげてしまう。2人は、プリニウスの方をチラチラ見ながら苦笑していた。

「あの、すまないが君たち...」

「は、はい」

「あの、あれかね。<仲介人>っていうのは、その…...」

 プリニウスが言い淀んでいると、短髪の女性が優しい笑みを浮かべ、口を開いた。

「そうですよ」

「ああ、やはりそうか。仲介人という言葉が聞こえたから、もしやと思ってな」

 すると、長髪の女性が目を輝かせながら聞いてきた。

「あの、違っていたらすみません。もしかして、ローマの方じゃないですか?」

 プリニウスは動揺する。
 なぜ、わかった。“この世界”に、私の肖像画・・・は多くない(しかも似ていない)。

「そうだが、なぜ...」

「やっぱり!!」

 2人は同時に声をあげ、きゃっきゃきゃっきゃと手をパチパチ叩き合った。

「なぜ、わかった?」

「だってほら、これ!」

 長髪の女性はそう言うと、カバンから1冊の本を取り出し、プリニウスに差し出した。

「あなたにそっくり!」

 漫画である。表紙には大きな字で「プリニウス」と書かれてあり、そして、自分・・がいた。
 どこからどう見ても、プリニウスの漫画であった。

「聞いていたかもしれないですけど」

 短髪の女性が口を開く。

「私、あと少しで向こうの世界に戻っちゃうんです」

「こっちには何年?」

「50年です。ちなみにセクシーな彼女は157年目」

 長髪の女性を見る。彼女は嬉しそうに表情を崩すと、「ちょっと、わたしのことはいいのよ」と大袈裟に手を振った。

「でも彼女すごいのよ。縄文時代出身なんだけど、なんと女性ハンターなの。つまり、狩りをするのよ」

 今度は短髪女性が「別にすごくないですって」と恐縮する。

「ああ、聞いたことがある。その時代の女性は木の実を採取していただけじゃないらしい、と」

 それを教えてくれたのは、プリニウスの担当仲介人だった。彼もまた、同じ縄文出身なのである。

「そうそう。でも、もう完全に腕が鈍っちゃって。だから、また向こうで生きていける訓練するために半年後からアマゾン入りなんです、わたし」

「アマゾン入り、とは...?」

「アマゾンの奥地で自給自足の生活をするんですって」

 俄には信じられなかった。

「てか、その前にプリニウス本人に会えるって、マジラッキー過ぎるんですけど!」

「ねぇ、やばすぎるよね! え、これ読んでみてください! てかLINE聞いてもいいですかぁ?」


Fin.

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