見出し画像

諦めてからの人生

久々に体重計に乗ったら自分の予想をはるかに超えた数字が見えた。ひたすらに食べた夏休みを経て未だに生活を戻し切れていないので納得の数字だったけど、さすがにダイエットしようと思った。

1年前と比べて、メンタルの波がだいぶ小さくなった。同時に自分の体型に対する執着も減った。今の体重を1年前の私が見たら、間違いなく病むし、ストイックな減量生活をしていたけど、今はまあちょっとずつ減らせばいいかくらいの認識で、病むことはない。確かに、身体の動きが悪かったり、顔周りがたるんでたりと日常生活でショックを受けることはあるのだが、そのことで頭がいっぱいになり何もできなくなることはない。

私は摂食障害のような身体症状は今まで経験したことがない。ただ、精神症状はかなりひどい方だったのではないかと思う。特にひどかった高校時代から(どれくらいひどかったかは昔書いた食に関するエッセイを読んでくれたらと思う。)大学生の間、約7年、行動や思考の根底にはずっと「体型」があって、食事はおろか、進路選択も運動もバイトも、全部体型維持をできるかが根底にあった。それ自体が悪いのではなくて、それをネガティブなマインドで続けていたことが悪かった。だから、それに反した時、自己嫌悪と罪悪感に襲われて病む。私の場合、食事に対してより運動に対する脅迫観念が強かったので、夜中に数十キロ走ったり、睡眠時間を削って筋トレしたりして常に疲れていた。我慢するのもつらいし、欲に負けるもの辛い、代償行為をするのも辛い、何しても辛い、辛いから抜け出せなくて毎日がしんどかった。

2年前の良く晴れた日、突然限界が来た。
生きててずっとしんどいなら、もうやめたい。でもそれを選ぶ勇気がなかった。何もできない、考えられなくなってから数日後、私はこのまま生きるのを諦めた。私は自分の理想を体現化できるほど能力が高い人間ではない。どうせ死ぬのなら、完璧に生きなくていい。そこで、「楽に生きる」ために今までの理想と積み上げてきた努力を手放そうと思った。

思考や感情は脳のクセなので、変えるために莫大な時間がかかった。それはとてもゆるやかなものだった。2年経って、客観的に見て初めて変化に気が付くことが出来る。最近は、生活の中で実感できることが増えた。ただ、まだ違和感がある。まあいいか、と思っている自分を客観的に眺めている自分がいる。どこか不穏な空気を醸し出しながら生きているので油断は大敵だと思う。でも、これもいつかなじんで来て、気が付いたら私になっているのだろう。そう思えるようになったのが一番の進歩だ。

食に対する執着が減った。朝ごはんに食べる菓子パン、深夜のアイス、頑張った日の唐揚げとハイボール。食べることが本当に楽しいし、うれしい。あと、食べる量も減った。食べたいものをちゃんと食べることが出来るようになった。
食を考えている時間が減った分、趣味が広がった。友達と気兼ねなく遊べる。
運動も楽しくなった。「痩せるため」でなく、「楽しむため」に体を動かす。
強迫観念に追い詰められ生きていたあの頃の自分と生活はそこまで変わっていないが、心持が変わっただけでここまで生きるのが楽になることが未だに信じられない。自分の欲に従うことは悪いことでない。死にたいと思って生きていてもどうせ人は死ぬのだ。

頑張ってたあの頃の自分、本当に尊い。でも死にたいくらいしんどいのならそこにこだわらなくていいよと言ってあげたい。私は昔の自分も今の自分も大好きだ。

これは、ある意味私の節目の記録。ここまで長かったね、よく頑張ったね。
私のもがきながら必死に生きた記録が、誰かが生き続けるための灯台になってくれた嬉しい。そんな傲慢なことを願わせてほしい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?