【ぶんぶくちゃいな】あれから1年…「正義」を叫び続ける母

陳同佳、という名前を聞いて、すぐに誰なのか分かる日本人はたぶんほとんどいないだろう。だが、今の香港ではこの人物にまつわる話題が沸騰している。

この人物が誰なのか。説明すればきっと分かるはずなので、ちょっとおさらいをしてみよう。

今、毎日香港のニュース欄を賑わせている話題に香港国家安全維持法(以下、国家安全法)絡みのものがある。これは、少なくともこれを読んでいる皆さんはもうご存知ですね。

この国家安全法がどういう経緯で、そしてどんな紆余曲折を経て誕生したか。ここで「わからない」と思った方には、ここ数ヶ月の過去記事を読んでいただくとして、なにがきっかけで中国政府が堂々と国家安全法を制定したのか、思い出せますか。

…ちょっと詳細は割愛して、そう、昨年の香港の激しい抗議活動への対応策である。じゃあ、なぜに昨年の抗議活動があれほど激しくなったのか。

そのきっかけは6月に起きた参加者100万人、そして翌週の200万人と言われる大規模なデモだった。ならば、そのデモがなぜ起こったのか?

そう、林鄭月娥・香港行政長官が進めようとした「逃亡犯条例」の改定案に市民たちが反対を表明しようとしたのだった(蛇足だが、このときはまだ市民は政府が市民の声を聞くだろうと信じていた…)。

ここからちょっと細かくご説明しながら遡る。

「逃亡犯条例」自体は香港にもともとあった。まだイギリス植民地だった1992年に、宗主国イギリスが司法制度、刑罰制度、人権状況などの面で「一定基準を満たしている」と判断する国を相手に、香港に逃げ込んだ相手国の犯罪者を引き渡すという条例である。香港の主権返還(1997年)直前の制定だったが、このとき「中国」はその対象国に含まれなかった。

しかし、林鄭行政長官が昨年準備した改定案には、新たにその中国を対象とするという一文が含まれていた。これが香港で大恐慌を引き起こしたのである。

もし改定がなれば、中国政府が中国国内の法律に照らして「有罪」を主張すれば、香港政府は何人であろうともその人物を引き渡す義務が生まれる。その主導権は主張する側にある。もちろん、そこには引き渡しの審査があり、対象人物が犯した罪や予定される刑期などの条件はあるものの、中国国内においては司法が政権のいうなりである現状からすると、一旦目をつけられればその罪状や刑期なぞなんとでもされてしまうし、誰しもが罪人になりかねない(と、人々は考えた)。

「マズいことしなけりゃいいじゃん」と思う方もおられるだろうが、そんなあなたは中国の司法の恐ろしさを知らない。実際、失脚する高官がほぼ全員、みごとに女絡みだったり、賄賂絡みだったりするのはなぜか。それはほぼそれらが官吏の世界では当然のことになっているから、あるいはその事実はないのに「そういうことにされている」からだ。

その証拠に、同長官がその改定案を諮問にかけた時、香港ビジネス界からも激しい反対の声が巻き上がり、同長官はビジネスマン界向けに改定案を書き換えた。つまり、香港のビジネス関係者がこれまで中国ビジネスの世界で普通に採っていた手段もまた、「有罪」の証拠にされてしまうかもしれないという現実を反映している。

とにかく不透明な中国の司法に一旦狙われたら、どんな目に遭うか、さらには三権分立を否定する中国だから政治関係者に一旦目の敵にされればどうなるか。それこそ、香港で施行された国家安全法のように、一歩も中国に足を向けなくても、また外国籍であっても「犯罪者」と見なされる可能性すらあるのだから。

だからこそ、香港市民は街に出て改定反対の声を上げた。そしてこの逃亡犯条例改定案は、直接「送中条例」(「中国に送り込む」条例)とまで呼ばれた。

デモがその後過激化したのは、街を埋め尽くした200万人の人たちが「改定案の撤回」を叫んだにも関わらず、林鄭長官がその改定案を手放そうとしなかったからだ。

林鄭長官はなぜ、それにこだわったのか。それは、彼女がある人物とある約束をした、と堅く思い込んでいたからだ。

彼女はそのとき、その人物に「わたしも母親です。痛いほど気持ちは分かる」と言ったのだった。

●一人娘を失った母の嘆き

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