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【全文無料公開・ぶんぶくちゃいな】元中国共産党党校教授が語る「江沢民の政治遺産」(前編)

江沢民が亡くなった。

彼は、日本ではあまり良いイメージを持たれていなかった指導者だった。最も彼のイメージを悪くしたのは、最高指導者として訪日した際にありとあらゆるところで日本の戦争責任に触れ、「自分(及び中国人)は決して忘れていないし、忘れない」ことをアピールしまくったことだった。それが、あのコワモテの顔つきと結びつき、「歓迎されざる外国首脳ナンバーワン」として論じられていたことを覚えている。

だが、彼のあの風貌は中国では「ガマガエルに似ている」と言われ、指導者の名前を書き込むだけで書き込みがSNSから消されてしまうような「センシティブな時期」には、人びとは「蛤蟆」(ガマガエル)という隠語を使って彼に触れた。

その風貌とニックネームの強烈なマッチと、ただしそんなニックネームで彼を呼んでも罪に問われることのない時代があったのだという点では、やはり当時の中国はおおらかな時代であったといえるかもしれない。

実のところ、日本人をいやな思いにさせた言動は彼の出自にかかわる大事な「ボトムライン」のせいだという話は何度も耳にした。彼は養子として育てられたことが公開されているが、実は実父は旧日本軍の協力者で、それこそ彼自身がそれによってその地位を失いかねない立場だったのだと言われている(一部ネット解説記事でも触れられている)。そのために、彼はことあるごとに、それこそ公開の場では徹底的に遠慮を排して、日本の「罪」を責め続けたというのが巷で語られている「真相」だ。

もちろん、そんなことを知っても日本人の気持ちは軽くはならないだろうが、中国にはそんな複雑な背景があることは理解しておきたい。

ただ、そんな江沢民も中国共産党の指導者としてまれに見る「米国好き」として知られていた。その言葉に英語の単語をわざと挟み込んだり、米国映画を大絶賛したり(「タイタニック」が大ヒットしたのも彼のおかげだと言われている)、米国からの訪問客に対して「自分がいかに米国文化に詳しいか」を披露してみせるという態度を見せたこともあった。

その一方で、香港人の記者の質問に対して「sometims too naive, too simple」(お前たちはときに非常にナイーブで、単純だ)と詰め寄ったことで、香港でも非常に嫌われていた。英語の「ナイーブ」は決してポジティブな意味ではなく、「お人好し」とか「おめでたいやつ」とか、ちょっと小馬鹿にするときに使われる。それが香港人の神経を刺激した。さらに、国家指導者が国民を小馬鹿にしたという意味で、逆に「自大な指導者」というレッテルを貼られてしまった。

ただ、振り返ってみても、これまで中国の国家指導者があれほど生々しい「個人」を見せた時代はなかったように思う。江の後に国家主席となった胡錦濤はいかめしさこそなかったものの、それほど個人的な表情を見せることはなかった。当時首相だった温家宝も多少人間らしさをかいま見せたことはあったものの、それでも江沢民ほど無邪気(?)に自分の好き嫌いを示すことはなかった。

そういう意味では、1989年の天安門事件の後に国家主席の地位につき、トウ小平という最高権力者の下で国を牽引する立場にあったものの、江沢民の時代はある意味、肩の力が抜けたところがあったと言えるかもしれない。それがさらに、彼の死後、人びとをして彼の時代を懐かしく思わせているのかもしれない。

そんな江の時代を振り返ってみようと思ったが、その政治遺産を語るには膨大な資料と膨大な論述が必要になりそうだと頭を痛めていたとき、またニューヨーク・タイムズ中国語版編集長の袁莉さんが、大変興味深いインタビューをポッドキャストで配信した。インタビュー相手は蔡霞・元中国共産党中央党校教授。なかなか一般の資料は報道では読めない「裏話」もたくさん盛り込まれており、さらに江沢民という人間の「生々しさ」が語られていた。そこで再び袁莉さんの同意を得て、それをここで翻訳公開させていただくことにした。

蔡元教授が所属しておられた中国共産党中央党校とは、中国共産党の高級幹部養成機関である。以前のインタビュー時の紹介によると、同元教授は中国軍人の家庭に生まれ、17歳で解放軍に入隊。自称「強烈なマルクス主義者」だったという。1992年に中央党校に入学し、その後大学院に進んだ後、党校で強弁を執り始めた。専門は「中国共産党の建設」だったが、2020年習近平を批判して党籍を剥奪された。現在は米国にお住まいとのことである。

約1時間のインタビューの話題は豊富なので、今回と次回の前・後編に分けて配信する。中国の細かな政治体制に興味ない方は、日本ではコワモテだった江沢民という人物が実はさまざまな苦悩と煩悩に苛まれながら政権運営を行っていたことを理解するだけでも面白いはずだ。

なお、いつもどおり、文中の[]は筆者による補足及び注釈である。


◎Vlog「不明白播客」(聞き手・袁莉):蔡霞・元中国共産党党校教授が語る「江沢民の政治遺産」(前篇)

袁莉:中国の元指導者、江沢民が11月30日に96歳で亡くなりました。彼が残した政治遺産について振り返るとき、蔡霞さんほど最適な人物はいないでしょう。蔡さんは中央党校において「3つの代表」[*1]の専門研究者として知られ、かつて全国でそれについての講演を重ねた方です。彼女は当時、江沢民が提起したこの思想を高く評価していました。それによって中国共産党を世界の流れのレールに載せて、政治改革に向けて準備を進めることができると論じていました。

[*1]「3つの代表」:江沢民が2000年頃から口にし始めたスローガンで、中国共産党は「中国の先進社会生産力の発展要求」「先進的文化の進路」「後半な人民の基本的利益」を忠実に代表するというもの。そこには党の執政や社会主義経済体制の構築、小康社会(まずまずの暮らしぶりの社会)の全面的構築などの具体的要項が含まれていた。

しかし、その後、蔡霞さんの中国共産党に対する見方が大きく変化します。2020年には習近平を批判したことを理由に党籍を剥奪されました。今年10月にもこの「不明白Vlog」でも、蔡さんが「中国共産党に絶望した理由」をうかがいましたが、江沢民の死に際して、改めて蔡さんに「3つの代表」や汚職の問題、法輪功に対する鎮圧、そしてなぜこれほど多くの人たちが江沢民時代を懐かしむのかなど、江沢民時代の政治遺産についてお話をうかがいたいと思います。

蔡さん、あなたは江沢民をどう評価しておられるのでしょうか。

蔡霞:平民としてあるいは国家指導者としても、特に国家指導者だった人物を評価するのは非常に難しく、一言で彼を言い表すことはできません。良いか悪いかを述べるのは本当に難しいですね。

改革開放以降の40年余りにおいて、江沢民が権力を握っていた10年、あるいは13年間[*2]は、右から左へと揺れた危険な最初の3年間にトウ小平(「トウ」は「登」におおざと)によって制止されたことを除けば、その10年間は中国の改革開放以降、最も素晴らしい経済発展を遂げた時代でした。

[*2]江沢民が権力を握っていた10年、あるいは13年間:江沢民は1989年に中国共産党総書記に就任したが、国家主席になったのは1993年で、その後2003年に胡錦濤にその座を譲った。つまり、国家主席として10年間、さらに党総書記としては2002年まで13年間権力を握り続けた。

中国社会は1980年代に変化に向けたドアを開きました。そして、中国社会が本当の意味で急速に、そして明確に現代文明に踏み込んだのが江沢民時代の10年間でした。

●トウ小平との対立、そして転換

蔡霞:ただ、江沢民を評価するには非常に複雑な事情を知る必要があります。まず彼が権力を握った1989年からの3年間、彼は逡巡期にありました。[その後編纂された、江沢民の言葉をまとめた]「江沢民選集」や彼の思想本にはその頃の彼の言論は含まれていません。その3年とは、トウ小平がそれまでにやってきた改革を彼がすっぱりと否定していた時期だったからです。

彼は1989年12月に中央党校で長い講演を行いました。その内容はほぼ公開されていません。彼はそこで、1980年代に「万元戸」[*3]になったり、小商いでお金を儲けた共産党員に対し、それらのお金を党に差し出せ、でなければ共産党員として資質に問題があると述べました。当然ながら、その2、3年間は改革はほぼ進んでいません。

[*3]万元戸:1980年代の改革開放期以降、個人の才覚でビジネスや農産物の自由市場などにより、年間1万元を超える収入を得た家庭を指す。当時は一般的な労働者の収入は月数百元だった時代で、1万元は「億万長者」に近い意味があった。

当時、[党のナンバー2だった]陳雲とトウ小平の間にははっきりとした意見の相違がありました。

だからこそトウ小平は1992年の春節に行った講話を、[陳雲の地元である]上海の皇甫平らが「中国の改革を進めたいといっても、また前進できていない」と論評した。そこでトウは華南を訪れ、わざとそこで、彼が推進しようとしている中国の改革について、江沢民によるその2、3年間の進展状況に対して不満を漏らしたわけです。それは江沢民に向けた警告でした。トウはそこで「改革を推し進めない者は、下野すべき」「思想を換えないなら人を換えるべき」と述べたのです。さらに、「改革発展をせず、経済発展を目指さないならば、中国共産党は死に向かってまっしぐらだ」「庶民はそれを許さない」とも。

すると、江沢民はこれを聞いてさっと態度を改めた。1992年に開かれた中国共産党第14期全体代表大会(十四大[*4])で、彼は「中国経済体制改革の目的は市場経済体制の構築である」と述べました。

[*4]十四大:中国共産党の全国の党員を代表する人たちが集まる最大の会議は5年に1回開かれ、それからの5カ年計画経済期間の始まりと位置づけられている。このため1992年に開かれた第14次大会(略称「十四大」の後は、1997年に第15次大会が、2002年に第16次大会が開かれ、2022年には第20次大会が開かれた。

もちろん、政治制度による束縛はまだ存在していたため、彼はそこに4文字を書き加えて「社会主義市場経済」と呼んだのです。

そして、2002年の第16次全体代表大会の時点で最高指導者の席を胡錦濤に引き渡しましたが、その引き継ぎの際に彼は非常に大事な点として、世界貿易機関への加盟というドアをこじ開けてみせた。それは中国が世界舞台に向かうための、大きな空間を押し開いたのです。それは間違いなく、江沢民や朱鎔基という指導者世代が中国のために困難な話し合いを重ねて、取り付けた結果でした。

当時わたしが在籍していた中央党校で、[WTO交渉代表だった]龍永図からその話し合いの経過について話を聞く場が設けられたこともありました。

そうして、江沢民は2002年に正式に中国の指導者の地位を離れたとき、中国に大きな発展の空間をもたらしてくれた。実際にWTOへの加盟によって経済や社会は発展し、中国は世界的人類の文明の流れに足を踏み出した。その巨大空間を押し開けたのは彼でした。

●「3つの代表」と江沢民の「勇気」

蔡霞:もう一つ触れておきたいのは、そのイデオロギーです。イデオロギーの面では、わたしは彼に対してプラスとマイナスの両面の評価をしています。

当時、共産党員だったわたしたちには党内に向けて指導者を批判することができる空間がありました。今のわたしは「非」党員になってしまいましたが、そんな時代を体験した中国人として振り返るなら、江沢民が提起した「3つの代表」思想は、間違いなく中国共産党に非常に貴重な転機となる歴史的チャンスをもたらしたとわたしは考えています。ただ、歴史の窓が開かれ、そのチャンスをきちんと握れるかどうかには、国そして党指導者の政治的才覚、胆略、その勇気が必要でした。ですが、彼はその一歩を踏み出さなかった。

そのため、「3つの代表」思想はその後、中国の党内や思想界に一時的には大きな影響をもたらしましたが、その意義は今に至るもきちんと評価されていません。というのも、人びとは当時の習慣から、「共産党のプロパガンダはずっと『ニセ・大げさ・空っぽ』だし」と考えていた。そのため、共産党内で一つの理論を提起しておおもとから思想を突破させ、その思想を調整し、硬化した外郭を叩き割るということは。自らの大きなイデオロギーの転換を意味しており、そのためにはまた過去の権力者の思想を引用して自分を支え、未来に向けたイデオロギーを合法的、正当性な保護する必要がありました。だからこそ、当時の江沢民はあれやこれやと回り道をしながら「3つの代表」思想を語ってみせたのです。

ただそれは、当時の党や国の指導者[だった江沢民]ですらそう簡単には突破できない壁だった。

そこからすぐに党内左派による[悪意ある]解釈や、庶民や党内から「3つの代表」思想に対する無理解からの批評が噴き出した。そして、「ニセ・大げさ・空っぽ」と言われてしまった。でも、当時のわたしはそれらの意見に同意できませんでした。

結局のところ、江沢民が提起したこの思想に対して正しい解釈は一度も行われてきませんでした。そして、左派からの攻撃や批判を受け、引っ込められてしまった。このため、「3つの代表」思想は本来あるべきその思想のパワーや効果を発揮することができずに終わってしまったんです。

江沢民時代の最初の10年間における市場経済の発展は中国に巨大な変化をもたらし、また彼に「3つの代表」思想を提起させ、歴史の窓を開いた。この「窓」とは彼自身がその前提条件を作り上げ、共産党、そして国の歴史を書き換える可能性をもたらすものでした。しかし、そんな格好のチャンスにおいて彼はまた彼自身の限界、そして党内の巨大な惰性によってそれを遮られ、最後の一歩を切り抜けることができなかった。彼は自らその大事な歴史的チャンスを手放してしまったのです。

●党の改革への思いが込められていた「3つの代表」

蔡霞:1990年代の10年間における市場経済の急速発展によって、1990年代末の中国国内にはさまざまな社会利益グループ間の分裂が起こりました。それまで「労働者階級、農民階級と知識分子階層」を「一つの階層、二大階級」として掲げる計画経済社会の階級構造では、江沢民が「3つの代表」を発表した時点ですでに社会利益をめぐって明らかな分裂が起きていた。さまざまな利益グループの出現を目にした彼は、そこで「階級」という概念を「階層」に書き換えようとしたのです。

「階層」が意味するのは「流動の可能性」です。「階級」とは政治によって身分を決めたもので、「階層」は職業によって客観的に社会で得る地位を指しており、そこからその人を論ずるものです。だから、「階層」には流動性がある。「階級」は二極対立概念に基づくもので、階級という立場に沿うものか、あるいはそれに反しているかで判断されるもので、それが当時の中国共産党内及び中国社会において基本的な考え方でした。

ですから、今でも「おまえは裏切り者だ」とか「反逆者だ」とか呼んだりしますよね。それはすべて彼らの頭の中にこびりついた、階級闘争の思考による反応なのです。でも、「階層」には流動性があり、たとえば「社会の低層」から次第に「社会の中層」になり、さらには上層に、高層へと上っていくことができる。江沢民はこうした社会の流動性をすんなりと認めていました。そのために、経済社会の流動面で分裂を生んでいる利益グループを階層とみなし、その政治における流動の可能性を探ろうとしたのです。

だから、彼は「3つの代表」を提起して中国共産党はああすべきだ、こうすべきだと言い、また同時に新たに出現した社会階層の先進分子の入党を認めるべきだと述べました。こんな、あれやこれやの回りくどい話をし続けたのは、結局のところ、まずは先に豊かになった人たちの中から、才覚豊かで、能力があり、さらに熱意を持って、国や社会の進歩のために力を尽くしたいと考え、自分という個人の資産獲得だけを目指しているわけではない人たちに対して、中国共産党がまず門戸を開き、党内に招き入れるためでした。

それは、中国の政治の、そして共産党の党内体制ガバナンスの開放を目指したものでした。米国などの自由で民主主義を標榜する国々はオープンな社会ですよね。当時の中国はまったく開放的とは呼べない、閉鎖的な社会で、それでもそのドアを開こうと努力していた。そのためには、中国共産党自らドアを開く必要があった。思想や理念という面から開放的な視点で西洋社会を見るかどうかよりも、自身の政治体制やガバナンスにおいて、そして人材の吸収においてもドアを開く必要があった。だから、まず中国共産党のドアを開放的にしなければ、と考えたのです。

提案は当時の社会に激しい論争をもたらしました。そして激論において、「江沢民は中国共産党を民主主義社会を推進する党に変えていくつもりではないか」、つまりそれまでの概念に基づけば「マルクス主義を信奉する党ではなく修正主義ではないか」という声が生まれ、さらには「富む者を入党させるのか」と批判が起こった。というのも、それまでは「共産党は貧乏人の党」であり、「貧しければ貧しいほど革命的である」と言っていたんですからね。毛沢東もまた、1926年に中国社会の各階層の勃興について分析し、「農村の貧農や都市におけるならず者プロレタリアと同じ」と述べており、共産党はこうした人たちの力を借りて政権を奪取し、国家の執政を担う執政党になったわけです。

江沢民はこうした意識を変えようとした。党内関係者の思想や知識教育レベルを引き上げようとしただけではなく、党内の年老いた知識分子や高学歴者たちにとって代わる若い大学生を招き入れ、新しい先端知識を持つ文化パワーを中国共産党に入党させたかった。また彼は、社会において自分の能力に頼って市場経済の発展に貢献する、政治的にも文化的資質的にも高いレベル人材を中国共産党に引き入れようとしたのです。新たな社会発展に必要なのはどんな人材なのか、誰が本当の意味での社会における優秀で先進的な力を持つのか、江沢民はそんな人たちに注目していたのです。

しかし、それが党内の極左思想によって抑え込まれてしまった。そこから中国共産党は実のところ「実利がものを言う」党であるのに、対外的には「イデオロギーがものを言う党」であると印象付けられてしまった。共産党は自身の合法性と正当性を維持するためにマルクス主義の旗を掲げつつも、その内面は非常な実利主義だった。江沢民は、中国共産党に対してイデオロギー面における大転換を迫り、執政党へと転換させようとし、さらに現代文明意識にを持った、開放的な党へと変えていくことで中国共産党がそれまで握っていた利益の独占や政治的独占の局面を打破しようとすることで、党内保守派の力をきっぱりと断ち切ろうとしたんです。

●革命党から執政党への転換

蔡霞:結局のところ、それはどうなったのか?

当時、わたしは中央党校に籍を置いていたわけですが、当時の校長とその点について議論しました。その校長というのは李君如、党校システム内にいる人にはよく知られた人物です。

袁莉:ああ、わたしも存じ上げています。

蔡霞:当時[改革派として知られていた2人の党校校長]鄭必堅とともに李君如は、中国共産党中央委員会の高級参謀を務めていました。

わたしが「『3つの代表』によって、どんな問題が解決できるんですか?」と尋ねたところ、李校長はこう言ったんです。

「考えてごらん。トウ小平は、「社会主義とはなにか」「どうやって社会主義を構築するか」という問題において、改革開放政策を推進することによって中国の発展の道を導き出した。そこで「3つの代表」はなにを解決するのか? 「執政党とはなにか」「どうやって執政党を構築していくか」だ。つまり、「3つの代表」思想は党の構造における自らの問題を解決するものなのだ」

だから、当時の我われ中央党校の旧主任、新主任は本来なら国と党の改革に力を入れていくべき立場にあり、堂々と「中国共産党は革命党から執政党へと転換すべき」とはっきりと論じるべきだと。

それは非常に重要な歴史的転換期であり、だからこそ「3つの代表」思想が利益グループの分裂を、社会面における利益グループの分裂と称したのです。そこで起きる矛盾や衝突を共産党が解決、緩和するには、もう革命によって富める者の財産を強奪するという手段ではなく、全面的に[共産党]自らの政治面やイデオロギーを調整して、市場経済メカニズムを整備することによって、政治改革を推進して人びとにさらに多くの権利を与え、人びとがそれぞれに自分の努力によって自身の経済条件を変えていくための空間を開くことができるようにすべきだ――つまり、我われが「合法的な正当競争」と呼ぶそれ、加えてきちんとした法制度下にある市場経済によって、初めて矛盾を解決できるとしたのです。

その「革命党という名前は捨てて、執政党に転換すべき」という提起は、当時の中央党校内では一般的な理解となっていました。そして、授業においても、革命時代の軍事的な物言いや、階級闘争などの絶対的対立型思考や相手を従わせようとする手法などから脱して、包括的で開放的、平和的発展、文明的な視野から現代の中国社会の変化を見るようにと論じていました。

江沢民の「3つの代表」思想は実際にこうした事情から提起されたもので、彼もまたこの国を前進させたいと考えていたのです。

●歪められた「3つの代表」思想

蔡霞:さらにわたし自身が当時感じたのは、中国共産党はただ、自らを革命党から執政党へと転換したいと考えていただけではないという点でした。それは大きな転換でした。彼はさらに自身の指導下において農業文明国から工業文明国への転換を完成させ、同時に社会を積極的に高速な情報社会に対応させようとしていたのです。そうすることによって初めて、世界の発展のスピードに追いつくことができると考えていたんですね。

でも、それらはまだ当時の中国において誰も気づいていない点でした。このため、江沢民の考え方は党内において激しい否定にさらされたのです。

そして、江沢民自身もまた[それを強行に推し進めるための]勇気がなかった。李君如は「政党をいかに構築するか」がテーマだと言っていましたが、彼[江沢民]は党がまず自らを改革して現代的な意識を持る現代政党に転換していくためのチャンスがそこにあったのに、それをきちんと掴まなかった。その結果、中国共産党中央委員会宣伝部(中宣部)[*5]が展開したプロパガンダによって、「3つの代表」は「だだっ広く」て「なんでもかんでも投げ込む」もので「非現実」であり、「なんでもかんでもそこに投げ込んだ結果、なんの解決も見いだせない」とされてしまい、打ち捨てられてしまったのです。

[*5]中国共産党中央委員会宣伝部(中宣部):中国共産党内で思想のプロパガンダ(宣伝)や世論工作を担当する部署で、習近平時代以降には広範にメディアやニュースを管理監督する機能が強化された。

一度は最も高い位置に持ち上げられながら、それは「最も空っぽで、大きいだけで役に立たない」「何を言っているのかわからない」とされてしまった。中国社会がその後「3つの代表」思想を非常に軽蔑するようになったのは、そのせいです。

●江沢民にかぶせられた「最」

袁莉:[江沢民が亡くなってから]「微信 WeChat」(以下、WeChat)や「微博 Weibo」(以下、ウェイボ)などをご覧になりましたか? 江沢民時代を懐かしむ声がびっしり流れていましたが、わたしはちょっと不思議なでした。例えばそこで言われていたように、習近平は本当に彼の、あるいはトウ小平の政治遺産を完全に葬り去ってしまったんでしょうか? そして、中国共産党は以前の革命党に押し戻されてしまい、使われる言葉も軍事的だったり、革命時代の言葉がまた使われるようになった? そういう物言いをどうお考えになりますか?

蔡霞:そのとおりだと思います。なぜ今の人たちが昔を懐かしむのかどうかについては、わたしにもよくわかりません。というのも、わたしは現在、中国政府による厳しい管理下にあり、中国国内の情報収集のための手段がすべて遮断されているので。

それでもすでに海外にも国内について論じるさまざまな声が流れ出すようになってきていて、それによると、人びとは堂々とウェイボやWeChat上で「江じいさん」を懐かしがっているようですね。彼が実権を握っていた10年間は最良の時期だったと…

袁莉:「最も開放的だった」「最も西洋世界を受け入れた」「最もしゃれっけがあった」「最も文化素養に満ちた」「最も華やかな外交を展開した」…そんな言葉がびっしりと並んでいます。または「外国人記者と直接がっつりとやりあった」とか(笑)…とにかくなんでも「一番だった」と言われています(笑)。

蔡霞:そうでしょうね。ネットユーザーたちの称賛に、わたしも同意します。

というのも、先程申し上げたように、今我われが振り返っても、1980年代は「解凍」の時代でした。その後江沢民は躊躇やためらいの3年間を経て、トウ小平に「改革を推進しないなら下野しろ」と激しいビンタを喰らい、その後彼自身も社会の変化を目にした。そのときにはもうトウ小平は亡くなっており、つまり「3つの代表」思想を提起したのは、彼自身がこの国を前進させるために努力しなければならないと気づいたからでした。ですが、党内にはかつてのトウ小平のような大きな力で彼を支える人物は存在せず、その結果彼は党内の攻撃や左派による批判を受けて、後ずさりしてしまった。だから、わたしは彼を論ずるのは非常に複雑だと言ったのです。

とはいえ、ともかくも中国経済は1990年からの10年間急速に発展した。江沢民が1990年代末期に「3つの代表」を提起したとき、まず最初に触れたのがそれが「先進生産力の『発展要求』 を代表するものだ」ということでした。この「発展要求」という4つの文字には非常に広い空間が含まれていました。なのに中宣部はそのプロパガンダで「先進生産力の代表」という言葉を使い、「発展要求」という言葉は完全に消されてしまったのです。その結果、人びとはそれをそのまま諳んじるようになり、[「3つの代表」を]「先進的生産力の代表だ」だと思いこんでしまった。

わたしは2002年の論文で「先進的生産力の代表」という言い方は間違いで、重要なのは「発展要求」の4字であると強調しました。「発展要求」という4文字には「政治体制を改革し、イデオロギー全体を改革し、前進していかなければならない」という意味が含まれていた。しかし、それが削られてしまった。とはいえ、「3つの代表」は党内の高層部、そして党内の改革支持派によってほんの一瞬現れた歴史的チャンスとして利用され、彼らがそれをいかに広げていくかに腐心したのは事実でした。

あの10年間、特に1997年以降、彼は思想的にも文化的にも開放的な態度を採るようになりました。このため、2002年の十六大報告では、旧式の分配制度によって支えられてきた社会主義的性質を持つ[共産党の]骨幹を変えていくことを盛り込んだ。[所有制度の]さまざまな分配手法を受け入れることによって、未来に向かっていこうという意志を示したのです。そこで社会のさまざまな利益要求の声を区分し、できるだけ社会の各面の利益に配慮して、それぞれに社会の公平性が行き渡るようにしたのでした。

それはそれまでの一刀両断的な貧富の均等性ではありませんでした。貧富の差は必ず出現します。その差とは多くの人たちにとって基本的な公平性を感じることができ、豊かな者も貧しい者も納得できるもの。そこで初めて社会に本当の調和が現れる。そこを基礎として人びとが外に飛び出して競争を通じて、自身の才覚を活かし、それによって自分の生存環境を変えていく。そうして底辺から中層へ、さらには中上層へ、社会のトップ層へと流動が可能になる。

だからこそ、改革開放後40年来の歴史を比較して人びとは、江沢民が権力を握っていたあの10年間は最も自由な時代だったというわけです。わたしはそのとおりだと思います。

というのも、トウ小平の時代は「解凍」の時代だったけれども、完全な「開封」には至らなかった。依然として一部のドアは閉じられていた。そしてその「解凍」時代はまた社会が歩き始め、目覚め始めた、「始まり」の時期でもありました。そして、実際にこの社会が人間のようにさっさと歩けるようになり、発展のスピードが高まり始めるには制度の変化によって支えられる必要がありました。それが市場経済体制でした。

●「悪」だった資本を「正当化」した市場経済体制

蔡霞:市場経済が中国の経済体制の改革目標としてはっきりと示されたのは1992年でしたが、当時は非常に苦労した結果だったんです。1997年にはさらに、社会の進歩を順調に前進させるためのアクセラレーターを生み出した。そのときに言われたのは「国有企業にはさまざまな実践形式があるはずだ」でした。どういう意味かというと、株式制経済を発展させるべきだ、というんです。

それまでの中国共産党は、民営による小規模経済を「労働人民階層における上層階層」だとみなし、個体経済の枠に抑え込んでいた。中国共産党の頭の硬さはみなさんもご存知だとは思いますが、当時は7人の共有なら「個体戸」と呼んで、そこで働く人たちは「労働人民」という扱いでした。しかし、8人以上の共有制になるとその人たちはみな「資本家」とされ、打倒の対象だったんです。つまり、共有制の人数は7人から8人が政治的な分割線であり、それによってその人物の入党資格が論じられていた。個体戸なら党員になれますが、資本家はダメでした。

この7と8という区分はどうやって生まれたのかというと、[カール・マルクスの]『資本論』を元にしたものでした。『資本論』を開くとまず最初に「資本家とはいかに生まれたのか」が論じられています。

たとえば、靴を作って売るグループを「企業グループ」と呼びますが、7人のグループが靴を作って売って得られる収益は彼らに支払われる賃金とほぼ同じなので、「搾取はない」。それが8人、10人と人数が増えれば、「靴をたくさん売るために多く搾取してやっと、その人数の賃金に見合う利益を確保することになる」と述べています。そこから来ているんです。

袁莉:なんと…そんな理論だったんですか。初めて知りました。ずっと、7、8という人数はいったいどこから来たのかと不思議だったんです。

蔡霞:みんなが不思議に思ってきたことでしょうね(笑)。

この「8人」という線によってまた、ある一人の人物が党員になれるかどうかという政治的な判断が下されるわけです。さらに民営企業は永遠に8人未満に制限され、大規模な経済体とはなりえない。つまり、永遠に民営企業は「個体戸」レベルに抑え込まれており、民営企業が大きくなれない社会は永遠に発展に向けて前進できません。

ですが、「資本を合理的、そして合法的に存在させる」、つまり我われが求める、工業文明化された現代社会において、分業の社会化、労働の社会化と同時に資源配置の社会化は「社会化」は非常に重要な特性です。すでに1997年の十五大報告では株式制を取り入れた混合経済について触れられていました。同時にそこでは剰余価値論[*5]が打倒されました。

[*6]剰余価値論:マルクス経済学の基本的概念の一つ。社会主義体制下では、文中で示されているような「7人体制による、搾取のない、賃金に見合った売上」を上げることは「必要労働」と見なされるのに対し、剰余価値は労働時間の延長や労働の強度を増大化させるなど、必要労働を超えた結果得られる価値を指す。詳しくはhttps://bit.ly/3V1sDwt

江沢民政権下において、1992年の十四大では市場経済政策が掲げられ、急速な中国経済の発展に向けた基本的制度環境の構築が提起され、中国はその道を歩むと論じました。そして彼はその道を歩むうちに経済発展を制約し、妨げるものに直面した結果、資本を正当化しなければならないと気づいたのです。このため、政策面で中国の経済方針において株式制経済を取り入れた。その結果、中国の経済発展はその後勢いを増し、同時に公有制である中央政府企業や国有企業もまたそれぞれの分野で資本を吸収することができた。これは一つの出来事の両面性であり、株式投資が可能となった結果です。

それが習近平による現在、公有制度下で国が株式の1%を持つ企業が[民営]企業の資本に参入してその企業全体を制御し、その経営権は党にあると言い出した。一体なんてことでしょうか。でも、それらは混合制経済の名義によって行われているのです。

袁莉:…(ため息)そうですね…

蔡霞:…混合制経済という概念の提起は、思想や理念、イデオロギーにおいて大きな発展のための変化をもたらした。そして共産党はその帽子をかぶって、下々の実利を手に入れようとしている。株式制度は本来は平等な投資参加、共同経営の概念で、合法的に各社の権利や利益を守るものだったはずなのに、今の共産党はいったい…習近平って…

袁莉:「混合所有制」という言葉も…どうやったら所有制度を混合できるのかしら?(笑)

蔡霞:そうなんですよね。今や「混合所有制」という名義を利用しつつ、わずか1%の資本参加で公的に民営企業を則ってしまっているのを、わたしたちは目にしています。

江沢民の時代の中国共産党は、まず経済から、そして思想やイデオロギー面において、さらには中国政治体制にいたるまでの開放のための門戸を開いていたのに。

●深刻な腐敗も彼の時代から始まった

袁莉:おっしゃるとおりです。我われのメディアの世界でもそうです。メディアの黄金時代と呼ばれていた時期もやはり、江沢民の時代から始まったのでした。

蔡霞:そして、経済の急速な発展が政治上、党内の急速な腐敗をもたらした。その二つは同時発生的に起こったのです。

袁莉:江沢民は軍隊のビジネス権を取り上げたのは良かったのですが、その後党内の腐敗が深刻化し始めたのも彼の時代でしたよね。

蔡霞:そうです。腐敗現象の急速な拡大、蔓延は江沢民の頃から始まりました。しかし、江沢民が意図的に腐敗を牽引したり、先頭に立って煽ったかどうかはきちんと区分して考えるべき点です。

その現象はたしかにその時期に急速に広がったわけですが、その現象の背景にある原因は江沢民個人がこの党を指導してその腐敗を引き起こそうとしたのか、あるいはその他の複雑な原因によって発生したのか。この点において、わたしは江沢民の弁護に回るつもりはありませんが、当時の中国社会の事情を客観的に見る必要があると思います。

** 次号・後編に続く **

(オリジナル音源:「不明白播客 - 蔡霞:如何看待江沢民的政治遺産?」より)

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