【ぶんぶくちゃいな・無料全文公開】江雪:「長安十日」わたしのロックダウン10日志

冬季北京オリンピックまであと1ヶ月を切った中国では、新型コロナ封じ込めに今必死の対策がとられている。

中国にとってこのオリンピックは大変重要な意義を持つ。初めてのオリンピックを2008年に開催してから14年、世界的に見てもかなり速いスピードで2回めの開催権を取り付けた。その裏には経済的な中国の成長があり、それを象徴する意味からしてもオリンピックを大々的に執り行う必要がある。

また、オリンピックでメダルの数を誇示する中国にとって、ウインタースポーツはこれまでずっと「弱点」だった。中国の地図における豪雪地帯は多くが国内でも貧しい地域にランキングされており、経済的にも遅れ、そのためにそうした地域では地の利を活かしてスキーやスケートなどを「楽しむ」層が長い間育って来なかった。コロナ前の中国では、経済発展を背景にようやく国内でも一部で広がり始めたスキーなどウィンタースポーツをさらにブーム化して、広範な観光資源にしたいと考えた。だからこそ、「冬の中国」を国内に、そして海外に印象づけるため、この冬季オリンピックはとにかく中国にとって、特に中国経済にとって非常な意味を持っている。

このため、中止することはありえない。延期もできれば考えたくない。「強い」なにかが常に求められる中国においては、「万難を排して決行すること」に意義があるからだ――少なくとも政府トップはそう考えている。

だが、中国政府は一方で新型コロナ対策の最終ゴールを「感染例ゼロ化」に定めており、このときに海外からの選手を受け入れることに敏感にならざるを得ない。さらにはどうにかして国内での感染を抑え込んだ姿を世界に印象づけ、称賛を得たいという「期待」をオリンピックに寄せている。

ただし、この期待は現時点ではかなり無理があるのは間違いない。だが、相変わらず中国は「ゼロ化」を曲げず、国内各地での感染の兆候に神経を尖らせている。

そして、12月初めごろからずっと感染者の拡大が噂されていた古都、陝西省西安市がクリスマス直前にロックダウンされた。すでに2週間以上続くロックダウンでは、さまざまな不備を指摘する声が上がっている。その一部はツイッターなどでも翻訳されて流れているので、関心のある方はお気づきだろう。

今回は西安在住のフリージャーナリスト、江雪さんがまとめた「ロックダウン志」を、友人の仲介で江さんに連絡を取り、翻訳する許しを受けた。この「ロックダウン志」は今週、SNSメディアに掲載され、またたく間にSNSで多くの人たちにシェアされ読まれた1本である。

彼女はこの記事によって、武漢のロックダウンのときに日記を発表し続けた作家の方方さんにたとえられて、「西安の方方」とも呼ばれている。しかし、個人的な思いを記した方方さんとは違い、長年調査報道に関わってきたジャーナリストとして江雪さんはここではっきりと政府の不備と不足を指摘し、そして政府を賛美する人に対して厳しい言葉を投げかけている。

今も続く西安のロックダウンはいつ終わるのかはわからない。以下、江さんのこの記録を読んで、少しでも突然の不自由に追い込まれ、苦しんでいる人たちに思いを寄せていただきたい(文中、日本人読者にわかりにくい事象については[*]で訳注を加えた)。

なお、付け加えておくと、西安の緯度はだいたい日本の福岡くらい。ただし、内陸であることからその気候は夏は蒸し暑く、また冬は少々冷え込みが厳しめで福岡よりも雪も多い。今はちょうどその寒さのまっ最中にある。

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【江雪:「長安十日」わたしのロックダウン10日志】

団地のスピーカーがまたがなり始めた。住民にPCR検査を受けに来るようなんども繰り返している。長い長い列に並ぶと、検査担当の女性は一人ひとり検査を終えるたびに、消毒液を自分のビニール手袋に叩くように思い切りふりかけている。あのひんやりとした匂いに、彼女の手はすでに青紫色に凍えているだろうと想像した。

それは2021年12月31日のこと。昨年最後のたそがれ時で、暗闇が迫っていた。バルコニーからのぞくと、通りは空っぽで人影はない。忙しく行き交う車や人の姿が消えたこの都市の夕方の死んだような静寂に、なんともいえないバカバカしさとともに不安を感じた。

●ロックダウン当日

12月22日午後、西安のロックダウンが宣言されたその日。わたしは西安市の南部郊外にある家で編集作業に没頭しつつ、感染状況が深刻しているのを頭の隅で気にしていた。自宅前の一部レストランのドアは数日前に封鎖のシールが貼られ、その前の日にはコンビニも宅配の代理受け取りをストップし、不便を感じ始めていた。3時過ぎに友人の随喜がSNSで、「野菜を買いに行って食料を備蓄したほうがいい。そろそろスーパーが閉まるから」とメッセージをくれた。彼女の言葉は信じられる。彼女は経験豊かなチャリティ活動関係者で、災害に見舞われた土地になんども赴いて救援活動をしてきた人だ。だからすぐに買い物に出かけた。

スーパーについてすぐに、なにかがおかしいと気がついた。その日の記者会見はまだ開かれておらず、夕刻の買いだめ騒ぎも起こっていなかったが、客のカートには品物がびっしりと載せられていた。少し多めに買っておこうと決め、載ってきたシェアバイクでは間に合わず、最終的に車で家に戻った。

果たして5時過ぎに開かれた記者会見で「ロックダウン」が発表された。政府は「物資の供給は足りている」と言いはしたが、買いだめ騒ぎが始まった。買い物を済ませていたわたしは落ち着いていられた。手持ちの仕事を済ませてから街に出てみた。その道すがら、ハイテク産業区の沙井村の入り口に人だかりができているのを目にした。村全体の外側、2、300メートルに道に沿ってすでに緑色の板が打ち付けられていた。

陸橋を渡って向かいの道に下り、どんな状況なのか見てみようと思った。すると、板の向こう側で営業している商店がまだその時明々とライトを付けているのが見えた。陸橋の階段に立ち、店主に声をかけた。午後から突然村の封鎖が始まったので、店ももう少ししたら閉めなきゃならない、と彼は言った。

村の入口には数百人が集まっていた。みんなマスクを付けたまま押し合いへし合いしており、その他の防御用品は付けていなかった。そばにパトカーが止まり、ライトを付けていたが車内にはだれもいなかった。

若い女性が一人、大量の品物が詰まった買い物袋を地面に放り出したまま、しゃがんで家族とビデオ通話をしていた。中年男が自転車を押しながら心配そうに人の群れを見ていた。彼によると、朝仕事に出かけるときはいつもどおりだったのに、夜8時に仕事を終えて帰ってきたら村が封鎖されて入れなくなっていたと言う。彼は村に1ヶ月の家賃500元(約9000円)の部屋を借りているのだそうだ。

その手の家のことはわたしも知っている。20年前に大学を卒業したばかりのとき、都市内にあるスラム地区で暮らした。10平米あまりで風呂場はなく、道端で食事の準備をし、日当たりは悪く、真っ暗な部屋だ。

清掃員が2人、手にビニール袋をぶら下げて立っていた。たぶん、生活用品を買いに出たのであろう。人だかりの中で黄色い清掃員の制服がひときわ目についた。尋ねてみると、午後4、5時頃に仕事に出た時にはまだ出入りできたのに、夜になって帰ってきたら入れなくなっていたそうだ。

ずっと前にわたしも清掃員の取材をしたことがあった。彼らが部屋を借りられるのは市内のスラム地区しかなかった。というのも彼らはたとえ街中のアパートを借りることができても、台車やほうきなどの道具を収める場所が必要だからだ。わたしが勤めていた新聞社そばにあった黄雁村は、そんな清掃員たちが暮らす家が集中していた。その後、そこが取り壊されてマンションが建ち、彼らにとって落ち着いて暮らせる場所がまた一つなくなった。

わたしは彼らに寄り添うようにして路肩に立ち、やるせない彼らの思いを感じていた。年齢高めの一人は不安げに、なにか言い間違えないかと恐れていた。年若のほうはずっと笑みを浮かべて、わたしにうなずき続けていた。マスクの向こうにある日焼けした顔から、その笑みの暖かさが伝わってきた。

少ししてから遮蔽板の継ぎ目のところで騒ぎが起きた。どうも隙間が開けられたようだ。人びとは村の責任者たちが今会議を開いているところで、その結果を待っているところだという。2人の清掃員も慌ただしく向かっていったが、少しすると失望したようにそこを離れた。スマホを見るとすでに夜10時近かった。人びとは寒風の中で少なくとも2時間も待ち続けていた。

数日後、都市スラムに住む若い男性がロックダウンのせいで食べるものがなくなり、大泣きしたという話をネットで読んだ。すぐにあのロックダウンの夜のことを思い出した。その男性もまた数万人が住む沙井村に住んでいて、あの晩村から締め出されて途方に暮れたのかもしれなかった。

その日はさらにいくつかの場所を回って家に帰った。その時までに通りはほぼ空っぽになっていた。吉祥路にはけばけばしい赤ちょうちんが街路樹にたくさんかけられていた。大小の荷物を抱えた人が街角に立っていた。ハイテク産業区に向かう道ではバイクに乗った配達員の呉さんが、日付が変わる前に最後の注文を運んでいた。「ロックダウンされても人は食わないといけないだろ。アーケード街のレストランはたぶん営業し続けるから、仕事はあるよ」と彼は言った。ニコニコと嬉しそうだった。

あの時、今回の「ロックダウン」がこれほどバタバタで進められ、人々が思いも寄らない方向に向かうとはわたしたちは思っていなかった。あの夜、家から締め出された人、スーパーで買いだめする人、妊婦、病人、大学院入試を控えた学生、建設労働者、ホームレス、西安に足を踏み入れた旅行者……その誰もが今回の「ロックダウン」が彼らにもたらす災難を低く見積もりすぎていた。

この都市の「一時停止」ボタンを押した人たち、権力を握る人たちは、それがこの都市に暮らす1300万人の運命にどんな影響を与えるかを考えたのだろうか? これがどれほどの大事件なのか認識していたのだろうか?

●わずかに残った市場

少なくともロックダウン当初は、まだ楽観論があった。団地入口のスーパー、八百屋はこっそりと営業を続けていた。人びとの動きはすでに止まっていたが、基本的な生活物資の供給は動いていた。ただし、そのスピードはかなりゆっくりにはなっていたが。

わたしが暮らす団地では、2日ごとに庭でPCR検査が行われた。団地の門は自由に出入りできず、管理会社が出す「外出証」、それはただの紙切れだったのだけれど、それがあれば門の外に出ることができた。隔離政策は「2日に一度、各戸から一人が食品の買い物に行ける」ものだと聞いていた。

わたしは外出して野菜を買う必要はなかった。まずは買いだめ分があること、次に団地そばのコンビニがまだ営業を続けており、まめな女主人が柵を隔てて我われの需要を書き留め、野菜だろうが米だろうが小麦粉だろうが油だろうが、そして生活用品であろうが、それをすべてひとまとめにして手渡してくれた。12月25日には雪が降った。団地の門の外に野菜販売車両が新鮮な野菜に加えて新鮮な肉を持ってきてくれ、近隣の人たちが自然な列を作ってそれを購入していた。一人の女性はみんなの羨ましげな視線を受けながら、注文しておいた大きな花束を抱えて歩いていった。

誰も想像していなかったことに、ロックダウンからわずか2日で西安中の人たちがネットで野菜を探し求めるようになった。誰もが野菜を手に入れるのに苦労していた。今のような物資過剰で、みんながダイエットを叫んでいる時代に、突然食事が難題になるとは。

12月26日、ロックダウンから4日。ネット上でこのところ注目を集めていた湖南省の田田先生[*1]の帰宅が許されたと知った。喜ばしいと思ったのと同時に、ふと若い弁護士の友人を思い出した。彼の妻はこのときにもネット上で、夫の帰宅を待ちわびていた。だが、彼女の声はあまりにもか弱かった。

[*1]田田先生:湖南省の小学校教師の李田田さんのこと。2021年12月、上海の歴史教員が「南京大虐殺の30万人死亡という説には具体的な根拠がない」と授業で説明したことが明らかになり、クビに。李さんはネットで「あの教員は間違ったことは言っていない」と擁護したことで、現地政府に強制的に精神病院に入院させられた。その際にネットに書き込んだSOSが大きな注目を浴び、彼女の解放を求める声が巻き起こっていた。

むしゃくしゃした。野菜を買いに出るという名目で外をぶらついてみることにした。

「外出証」を手に門を出て、雪が溶けきれないままの路上でシェアバイクのカギを開け、この得難い自由を味わった。大通りではバスがまだ走っているものの、誰も乗っていなかった。あるバス停の椅子の上ではホームレスが一人横になっていた。街では出前や宅配の配送員の姿がたびたび目の前をかすめていった。

停まっているパトカーの数は少なくなかった。団地を出てからたぶん4、5台は見た。

いつもなら野菜を買いに行く甘家寨村の入り口は板で封鎖されていた。板の上に紙が何枚か貼られており、歪んだ字で「調味料」「唐辛子」「楡林豆腐」「農家の豚肉」などと書かれ、それぞれに電話番号が記されていた。男が2人、板の向こう側から片手で品物を渡しつつ、もう一方の手で支払い用のQRコードを読み込んでいた。

ここは立ち退きを迫られた人たちが暮らす、巨大な市内スラムで、地域の有名なマーケットにもなっている。毎日夕刻には明々と電灯が灯り、それはにぎやかになる。宅配会社も複数、ここに地域サービスセンターを置いている。周辺の団地とは違い、ここは衣食住、そして交通のすべてが集うところだった。ロックダウンはされていても、村の中の小型レストランがたくさん営業を続けていた。このときも団地の囲いの外に配送員が数人立っていた。ちょっとすると、レストランの若い経営者が走ってきて手にした包みを、柵の向こうから彼らに手渡していた。

配送員の若者がバイクに跨ってスマホをいじっていた。ちょっとの間、彼と話をしてみた。

若者は劉さんといい、今年29歳。陝西省の宝鶏市の出身だという。22日にロックダウンされると聞いてさっさと実家に帰ろうと思ったが、実家に帰れば集中隔離され、1日210元(約3800円)もする費用は自分持ちだと言われた。それで残ることにしたと言った。しかし、彼が借りた家は沙井村にあり、村が封鎖されたのでそこにも帰れなくなった。

仕方ないのでホテルに部屋をとった。ホテルなら自由に出入りできるし、配達員も続けられる。大通り沿いのホテルは一番安いところで1日150元(約2700円)するので、他の人とシェアしている。このところ、営業しているレストランが減り、配達の仕事も少なくなったけれど配達員も減ったので彼は1日まだ3、400元(約5000円から7000円)ほど稼ぐことができ、以前の1日平均収入を超えるくらい稼げるときもあると言った。

数日後、ニュースで陝西省咸陽市淳化県出身の男性がロックダウン後に西安から帰宅するため、シェア自転車で零下6、7度の関中原野[*2]の道約90キロを夜8時から朝6時までこぎ続け、実家の近くまで来た時に感染予防対策担当者に「捕ま」り、罰金200元(約3600円)の処分を受けたと伝えていた。さらに、ある若者は帰宅するために咸陽空港から秦嶺まで山の中を昼夜違わず8日間歩きき続け、分水嶺そばの広貨街まで来た時に見つかってしまったらしい。

[*2]関中原野:西安市が属する陝西省中部地区にある平原。秦の時代から唐代まで政治と経済の中心地でもあった。

わたしは劉さんを思い出した。その後の「管理強化」で、彼はまだ出てこれるのかしら? 出てこれたとしてもまだ配達できるのかしら? 1日150元の宿泊費をどうやって工面しているのかしら? 彼の電話番号を聞いておかなかったことを後悔した。

●管理強化

12月27日、突然西安全体が「管理がグレードアップ」されたと耳にした。団地の警備員は、これまで実施されてきた「2日に1回野菜を買いに行く」ルールが廃止されたと言う。この日からだれも団地を出入りできなくなった。

28日、ネット上で「野菜難」の声が上がり始めた。わたしが住む団地の入口の門にはカギがかけられ、管理会社は我われが門のそばで購入したいものを書き込むことも許さなくなった。わたしは門のそばのコンビニに集うグループをQRコードで読み込んで連絡先に加えたが、その時初めてそれが今後の生活補給における唯一の頼みの綱になるかもしれないと気がついた。

その後ゆっくり考えれば、それはとても単純なことだった。もしすべての人が外出できなくなれば、外の世界に十分な物質があり、政府がそれをどんなに喧伝しても、庶民にとってそれは無関係なことだからだ。

コンビニのSNSグループは大混乱だった。グループにはすでに400人が参加していた。誰もが食品を求め、買いだめしようとしてた。コンビニの女主人は、毎日の「需要リストの受付」は朝の1時間だけというルールを設けていた。だが、新しい人がグループに入ってくるたびに我先にと順番荒らしが起き、女主人に叱られていた。

グループ内の情報をさかのぼって読むと、団地内の若者が助けを求めているのに気がついた。「誰か、お箸とお椀を売ってくれない? どこにも売ってないんだ」。わたしは、10分後に階下に取りに来てとメッセージを送った。そして彼に手渡すお椀、皿、お箸などの食器をまとめて、それを持って下りていった。

緑地帯を挟んで、彼の状況を尋ねてみた。彼は近くに住んでいて、会社がこの団地内にあるらしいが、封鎖されてから家に帰れなくなったものの、オフィスではなにもないので煮炊きできないという。どうにかして鍋を手に入れたが食器がなく、それを買うところもない……感謝の意を示そうと彼はわたしにスナックを持ってきてくれていた。チキンソーセージ一袋、チョコレート菓子のスニッカーズ、そしてナポレオンブランドの牛乳もあった。

次の日、事態はさらにひどくなった。グループ内にいる若者2人がもう1週間ずっとラーメンを食べており、口元が荒れてしまったと言った。一人は、残っているインスタントラーメンはあと2袋だけだと言った。もうひとりは、すでに「すっからかん」になったと言った。

わたしは2人にメッセージを送った。翌日の正午にお弁当を届けてあげるわ、と。一人は辞退したが、もう一人は受け取ると答えた。夜寝る前に冷凍庫に入れてあった牛肉を取り出し、翌日この女性に牛肉のトマト煮を持って行ってあげようと考えていた。しかし、翌日になって彼女は「食べ物が手に入ったのでもういいです」とメッセージを送ってきた。なんどか押し問答したが、彼女はうんと言わない。想像するに自尊心からなのか、それとも警戒心からなのか、わたしも強くは求めなかった。ただ、もしなにかあればいつでも連絡ちょうだいね、と伝えておいた。

わたしもだんだん、自分の在庫を数えながら過ごすようになった。隣人は、野菜を節約するために毎日油溌麺[*3]を食べていると言っていた。わたしはしいたけ4つ、トマト2つ、そしてズッキーニ1個を届けた。それにロックダウン前に買ったビールを加えて彼女のドアノブにかけておいた。彼女はとても喜んでくれて、お返しに甘くて歯ざわりのよいりんごをくれた。わたしにとってもとてもありがたいものだった。

[*3]油溌麺:「麺の大家」といわれる陝西省独特の麺の一つで、きしめんのような麺を茹でて唐辛子やネギなどの香辛料をかけ、そこに熱した油をかけて食べる。

この頃にはネットで、多くの団地で住民同士で「物々交換」が始まっているという記事を目にした。インスタントラーメンをたばこに、にんにくをじゃがいもに換えるなんて思わず笑ってしまうけれども、当然ながらそれは現実だった。

突然物資困窮状態に陥ると、人びとは食べ物に対して細かく算段するようになる。わたしはたびたび台所に行き、冷蔵庫の中の残りの品を確かめたいと思うようになった。ロックダウンも1週間に近づき、事前に買いだめした食べ物も半分が消えた。もっと補給したいけれども、コンビニのグループはもう列に並ぶのはまったく無理だった。多くの人たちがお腹を空かせた状態で食べ物を待っていて、早く配達して頂戴と言っていた。わたしはそこに割り込むことはせず、他の手段を探すことにした。

●それぞれの自己救済

12月28日から31日まで、少なくともこの4日間はほとんどの西安の市民にとって、いかにして野菜や生活の必需品を手に入れるか、つまりいかにして食べるかは自己救済に頼るしかなかった。

他の地区に暮らす友人たちが不思議そうに、宅配じゃダメなの?という。現実には12月21日頃には西安の宅配便はストップしており、人びとは市外からネットでものを購入することができなくなっていた。ロックダウン後、SNS上で感染対策期間中でも野菜が買えるというオンラインサイトがシェアされてきた。だが、オーダーする時になって初めて、居住地を西安にすると配達できないことがわかった。いつも使っている「盒馬」[*4]は、永遠に「配達員が見つからない」状態だった。やっとのことで「人人楽到家」というサイトを見つけて野菜を注文したが、支払い後2日経ってもなんの連絡もなかったのでキャンセルした。

[*4]「盒馬」:IT大手「アリババ」が運営するオンライン生鮮食品スーパー。

12月29日に開かれた西安市人民政府の記者会見は、ネット生中継のコメント欄は「野菜難」のコメントで溢れかえり、コメント欄がすっぱりと閉鎖されてしまった。

わたしはSNSのボランティアグループ上で友人たちと話し合った。彼らはさまざまな災害救援に参与したことがあり、経験豊かな人だったが、今回の西安ロックダウンでなにかしたいと思ってもとても難しい、と口々に言った。ロックダウン当初、彼らはオンラインやオフラインでボランティアを募り、数千人が集まったものの、なんの力も発揮できなかった。政府が「横並びに」すべての団地を閉鎖してしまい、通行証を手に入れるのが非常に難しく、ボランティアたちは自分が住む場所を離れることすらできず、前線で活動することができなかった。これはまた、彼らの長年の経験にはなかったことだった。

実際にはそれは容易に想像できた。わたしたちの団地住民はまだ幸運な方だった。家の中にはそれなりに備蓄があり、すぐにお腹を空かす羽目にはならなかった。最も悲惨なのが旧式の団地や市内のスラム、建設現場などの「三不管」[*5]地区の人たちだった。予想外だったのが、日頃は企業で働く若者たちがロックダウン後に最も食事に困るグループの一つになったことだ。彼らは日ごろ自炊をしないために炊飯用具を持っておらず、またオフィスに寝泊まりしている人もいた。そこに外のレストランは閉まり、配達がストップし、門からも出て行けず、インスタントラーメンが貴重な物資になった。

[*5]「三不管」:中国の縦割り行政制度の中で、どこにも属さない分野。特にここ20年間の経済発展のあおりを受けて自然発生的に生まれた業種や分野、地域などが含まれることが多い。

12月30日夜、気温は零下になった。あるSNSグループの中で友人が「今、街中のホームレスに食事を届けてきたところだ」と書き込んでいた。この友人は日頃からチャリティに熱心で、グループで長年ずっと西安の街中で暮らす赤貧の人たちに食事を届け続けていた。ここ数日、彼は郊外南部の作業所でホームレスのための食事を準備して、市内に送り込んだ。一晩であたたかい食事185人分を配ったという。彼は通行証を持っているので、出入りを邪魔されることはなかった。

ロックダウンの前にわたしは友人のイベントに参加して、ホームレスの人たちに温かい衣料を届けたことがあった。彼らはいつも街中の銀行やATMマシンの下などの場所で夜の暖を取っている。ロックダウン後はそこから一方的に追い出され、また街から人がいなくなり、乞食をするにしてもゴミを拾うにしてもそれができなくなった。彼らにとって非常に厳しい冬となっているのは間違いない。

元旦当日、わたしはやっとのことでヒマを見つけた張さんとお喋りをする機会を得た。彼女はチャリティ団体の運営を始めてもう10年以上になる。以前は障がい者向支援を行っていたが、ここ3、4年はコミュニティ活動に力を入れている。今回の感染対策で彼女はコミュニティと協力し、資源をつなげ、多くの救助活動に参与していた。

張さんによると、ロックダウンという極端な状況下において、コミュニティ近隣の自己救済が非常に大きな意味を持つという。一人暮らしの老人、子どもなどのグループの特殊な要求、食べ物も飲む物もないなど、一部緊急を要することは近隣の相互支援で完全に解決することができるらしい。重大な事態が発生した時、コミュニティ内部の自己救済は不可欠となる。しかし、目下のコミュニティはこうしたことを行わず、人と人の関係はまるで孤島のように孤立した状態になっている。本来ならチャリティ団体はこうした場面で多くのことを行い、コミュニティ建設を行うことができるはずだった。しかし、この点は往々にして政府にはタブーとみなされてきた。

目下いたるところで「野菜難」が起きている状況を、彼女は「まるでみんなを一絡げにしてそこに政府の職員が『食べ物を投じ』ようとしているみたいだ」と言った。「でもそれを数千万もの人が暮らす都市でやることを想像してみて、それは実現可能なことかしら? 一つのコミュニティの住民が約2万人として、末端政府職員は普通10人もいない。彼らはさまざまな行政命令を実施するだけで大忙しなのよ」。彼女はため息をついて言った。「わたしが知る限り、コミュニティ職員は若い女性が多い。その多くが母親でもある。今のような時に彼女たちは家に帰るなんてできず、超負荷状態で働いているのよ」。多くの人たちがオフィスに布団を敷いて寝ていることに「心が痛む」と言った。

「政府はまだわかっていない。行政の力ですべてを解決するなんてできないのに。今回の感染対策のように、末端の職員たちは昼も夜もなく大変な思いをしているのに、その効果といったらどう?」おしゃべりしているうちに、1時間が経っていた。

●わたしたちの提案

12月31日午前、やっとのことで感染対策が始まって以来初めて、野菜を一箱分買うことができた。これもやはり近所の人たちとの相互支援のおかげだ。団地のSNSグループに販売者が出していた広告を目にし、1箱20キロで108元(約2000円)と手頃だと思った。急いで注文したら、翌日にはなかなか新鮮な野菜が届いた。

それまでネットにはさまざまなニュースが流れていた。政府の無償野菜が一部の団地に届いたとも言われたが、ネットユーザーが調べたところ、いわゆる「十分な供給を受けている」団地はどこも政府と関係が深いところであることが明らかになった。それと同時に曲江区に住む友人たちにも「真心の野菜」が届き始めたと、彼らが次第に「ポジティブ」喧伝を始めた。だが、たとえ政府が気持ちを送り始めたとしても、我われの手元に届くにはしばらくかかるはずだ。その理由は簡単だ。市場がストップし、市内の日常の物流配送もストップした状態で、1300万人が暮らす大都市で末端政府職員とボランティアだけで一瞬にして野菜を各戸に届けるなんて可能だろうか?

わたしは自分が買った野菜を受け取ってから、そのビジネスの経営者に声をかけた。経営者によると、野菜は寧夏自治区から取り寄せたもので、5000件ほど集めたそうだ。これまでは通行証の手配が難しく届けることができなかったという。一つの団地内の需要が5件以上に達すれば配送してくれるという。「市場は永遠に政府より賢い」とよく言われるが、このときこの事態において、わたしは心からそう感じた。

事実が、何日も続いた「野菜難」の本質は人災だったことは明らかだったことを証明している。西安では物資不足は起こっておらず、物資が最もそれを求める人たちの手に届けられないだけだったのだ。多くの個人メディアの文章がそれを指摘しており、そのうちの1本、著名コラムニスト「獣爺」さんはこう書いていた。「我われには『天猫』[*6]や『JDドットコム』[*7]のような強大な物流システムがあるのに、政府はなぜそれを使わないんだ? なんでわざわざまるでその功徳をひけらかすように自分たちで野菜を送り届ける必要があるんだ?」

[*6]「天猫」:アリババが運営する、中国最大規模のECサイト。
[*7]「JDドットコム」:前述「天猫」のライバルである京東グループが運営するECサイト。

毎日、SNSのタイムラインやグループの書き込みを読んでいるうちに、心が情報の絶え間ない爆撃を受けているような気分に陥った。管理強化に伴って、毎日のようにひどい情報が流れてきた。「高齢出産の妊婦が病院に行くことができなかった」「腎臓移植後に薬が必要な病人が薬を手に入れることができない」「出稼ぎ労働者が建設現場に閉じ込められて食事を取れない状態が続いている」「大学院入試のためにやってきた受験生が街角でお腹を空かせている」…感染対策強化が引き起こしたさまざまな災害がなんども起こっており、このまま行けば、人道精神に反する災難へと発展する可能性すらある。

12月31日の朝一番に友人たちとチャットで、どうすればいいだろうと意見交換した。そして随喜たち友人間で一連の提案をまとめた。わたしは、市民という個人身分で、まずこの提案を公開することにした。この「西安の一市民による野菜難問題解決のための救急提案」の中で、こんな提案を行った。

「市場秩序を次第に回復させること。まず末端物流システムを回復させ、野菜屋台や八百屋、スーパーマーケットなどが団地での供給に対応できるようにし、さまざまな救命薬もまた住民の手中に届けられるようにすること。そして社会を元気づけるためのエネルギーを救命システムに組み込み、民間の自己救済などを奨励すること…」

最後に署名するのは止めた。そうすることで「ラベリング」されるのを避け、ただ市民の声を表明するだけにしたかったからだ。しかし、心のなかでわたしがどんなに不安だったか、だれも知らないはずだ。友人の敏涛は2日前に書いたブログで、「野菜難」の解決を訴えたが、それから2日後の今、その記事は消えてしまった。わたしがよく知るあるサイトでは、西安の感染事情を伝えるすべての「ネガティブ」記事が削除され始めていた…

● 「西安には勝利しかないのだ」

2022年の1日目がやってきた。朝早く、窓のカーテンを開けると朝日が優しく降り注いでいたが、通りは依然として荒野のように寂然としていた。

わたしは新年を迎えた気持ちを書き込もうとスマホを手に取った。目についた動画を開いたところ、うちからそれほど離れていない南窯頭地区で、マントウ[*8]を買いに出て戻ってきた若者が、団地の入口で感染対策職員らに取り囲まれ殴られる様子をとらえたものだった。

[*8]マントウ:中国北部地区で広く主食として食べられている、小麦粉でできた「餡なし」蒸しパン。

真っ白なマントウが地面に転がっているのを画面で見て、わたしは心が割れる音を聞いたような気持ちになった。彼を殴っている人は、自分の仲間に対し、寒風の中を食べ物を買いに出た人間にどうして手を下せるのだろう? ほんのちょっぴりの権力が人間をここまで変えてしまうのか? 権力を手にした者にとって、暴力こそがもっとも簡便な解決方法なのだろうか? わたしは黙ってスマホの電源を落として、この瞬間ただ目を閉じ、耳を塞いで、落ち着いた気持ちでこの新年の1日目を過ごしたいと思った。

この都市の表面上の静寂がその内々の乱れぶりを隠し通すのは無理だった。個別の案件をとっても、12月27日以来、ほぼ毎日のように災難が発生していた。最初は食事にありつけないといったさまざまな話、その後それはさらに病気治療のためのSOSに変わった。わたしがかつて勤めていた新聞社は「記者がお手伝い」という欄を設けて、「少しでものお手伝い」として記者が市民のために薬を買って届けたり、どうしても越えられない何かを解決しようとしていた。そこには毎日のように数千本の助けを求める情報が届いていた。

新年に入ると、わたしの暮らす団地内のあちこちの家のドアに封鎖シールが貼られ始めた。もう一つの棟の住民から陽性者が2人出たためだった。最新の「感染者ゼロ化」政策に基づくと、もしさらに感染者が出た場合、わたしたちの団地の住民は全員が集中隔離用施設で隔離生活を送ることになるとされた。

団地の個別SNSグループから、みながビクビクしながら過ごしていることが感じられた。12月31日夜半に住民全員が集中隔離施設に追いやられた糜家橋団地はうちの近所だ。明徳門8英里団地からハ橋公共団地(「ハ」はさんずいに「覇」)での集中隔離に入った人がSOSを発していた。我われはまだ温かい自宅にいられているのだと痛感した。このとき、すでに管理会社の注意を受けずとも、団地内グループはみなが熱心に「すべての買い物や外出を取りやめて、とにかく安全確保に努めよう。そうでなければ団地住民全員が集中隔離されてしまうのよ」と呼びかけていた。ある住民は家にいる猫5匹のことを最も心配していた。うち3匹は感染対策に駆り出された職員から預かっている猫だった…「それでも簡単な準備はしておいたほうがいいわよ、突然集中隔離施設に追い立てられることになる前に」と友人が言った。

1月3日、また1日が過ぎていった。SNSグループのメンバーの一人が「やっとまた1日無事に過ごせた」とつぶやいた。「繁栄の時代」に我われはこんな生活をしているのである。

この日の正午、ネット上に「太陽花花花」と名乗る少女の情報が駆け巡った。彼女の父親が心臓発作を起こし、大変な苦労の末に団地を出て病院に向かったが、病院は彼女の住む団地が「中リスク」地区であることを理由に最初は受け入れてくれなかった。最終的にどうにか受け入れてくれたものの発作から時間が経っており、緊急手術を行ったがとうとう父親を救うことができなかった…というものだ。

わたしは、彼女のネット上の書き込みからこの父親を亡くした少女に連絡を入れた。この寒い冬に、彼女がいったいどんな目に遭ったのかを知りたかった。もしチャンスがあれば、彼女を優しく胸に抱いてあげたかった。そして、我われの苦しみをきちんと記録しておくべきよ、それをただ胸にしまっておくのではなく、と伝えたかった。

わたしは彼女に、わたしに連絡してほしいとコメントを残した。だが夕刻になっても返事は来ず、逆に彼女のページトップにあった父親の死を告げる書き込みがすでに削除されているのを目にした。幸運にもわたしは書き込み画面のキャプチャを残していた。それを読み直すと、非常に多くの人たちが彼女をフォローしていた。コメント欄には「この無茶苦茶な都市では、ウイルスにやられて死んだのでなければ死んだうちに入らないのだ」といった内容のものがあった。

1月3日の黄昏が下りてきた。都市が封鎖されてから10日目だった。彼女からの返事はないままだったが、かつてとても親しかった友人からのメッセージに気がついた。だらだらとした長文がだいたい意味していたのは、「感染者ゼロ化政策」への称賛だった。そして最後は、「西安には勝利しかないのだ。他の選択はなく、後退もできないのである」と結ばれていた。

それを読み終えて何も言えなかった。だまって、女性が自分の父親を失ったことを書き込んだキャプチャーを彼に送りつけた。本当に、彼と議論する気も怒らなかった。

だが、最後にやはり我慢できなくなっていくつか言葉を付け加えた。

「『西安には勝利しかない』なんて、正しげな大ウソ、常套句、そして空論でしかない。これにそっくりなものに、『我われはすべての代価を惜しまない』がある。それっぽく聞こえるけど、具体的に一人ひとりの普通の人間レベルで考えたとき、そこで言われる我われとは『わたしたち』のことなのか、それとも必ず犠牲にならなければならない『代価』のことなのかって、あなた考えたことある?」

「ある出来事の後でそれを振り返らず、血や涙の教訓を汲み取らず、功を立てて表彰されることばかりに気をとられ、賛美して持ち上げるだけなら、人びとの苦しみはただの無駄だったってことになるじゃないの」

わたしはもう彼に会うつもりはなかった。ただ、この都市が最終的にいかなる壮大な物語としてこの苦しみを語ろうと、今夜のわたしはあの父親を亡くした女性のことだけを思うわ。涙を流しながら見も知らない感染対策職員にその苦しみを伝えて生理用ナプキンを求めた若い母親のことを思うわ。そして、辱められ、傷つけられ、軽視された人たちのことも。彼らは本来ならこのような苦しみを負う必要のなかった人たちなのよ。

そしてまた彼に言いたかった。「世の中とは、一人ひとりがばらばらな孤島として暮らすものではない。一人ひとりの死はみんなの死を象徴しているのよ。ウイルスがこの都市の生命を奪い去ったわけじゃない。でも別のなにかがそれを引き起こしてしまったのよ」

(原文は「江雪:我的封城十日志」。オリジナルURLからはすでに削除されている。)

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