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なぜ朝鮮人は歴史コンプレックスを抱くのか 〜属国の朝鮮史から考える〜


どうもwanyawanyaと申します。今回は朝鮮人が抱く歴史コンプレックスについて述べていこうと思います。
どうして韓国の人たちは歴史を直視しないのかなぁ?日本も日本有利な歴史教育を行なっているかもしれないけど、韓国はそれを超えていると思います。ハッキリ言って異常な点が多い。今回は朝鮮の歴史をたどりながら朝鮮人の抱く歴史コンプレックスの原因を探してみます。        

尚、本テーマはシリアスな内容になるので、砕けた口調ではなく真面目な感じでやりますのでご了承ください。
それでは本題へ!

まず断っておくが、朝鮮人というのは蔑称として用いているわけではない。むしろ朝鮮民族全体を指しているので朝鮮人は韓国∪北朝鮮なのだ。さらに加えて世界各地の朝鮮民族も集合朝鮮人に含まれるのである。これをここでいう朝鮮人の定義として先に進もう。また私は決して朝鮮人の歴史を貶めるためにこの文章を書いているわけではない。私は小学時代から朝鮮史に強い興味を抱いて勉強してきたような人間だから、朝鮮に対するリスペクトがあった上でのこの言論である。しかしネガティブな内容なだけに、少々朝鮮史にとってマイナスの面が取り上げられがちである。朝鮮の高度な文化などを見たい方はこれを読んだ上で、博物館や図書館に足を運んでみたり、あるいは自粛の時間を利用して論文などを読んでみることをお勧めする。

文明と朝鮮
朝鮮は長年中国の属国であった。何故か。時に拡張主義的な中華帝国の膨張に屈服したことが問題であったり、事大主義的な朝鮮国内が問題となって属国化を招いた。行ってしまえば東アジアの被害者なのかもしれない。その歴史は文明以前にまで遡る。アフリカで発生した人類のうち一部はやがてアフリカ大陸での競争に負け、ユーラシア中央部の争いに負け、東アジアの辺境にやってきた。彼らは原人たちとは異なる新人(ホモ=サピエンス)であり、その知能と集団力を生かし、時に原人と交わり、時に争ったりして競争に勝利した。そんな新人たちは農耕を覚えると自然発生的にゲゼルシャフト(原始的で伝統的な共同体)を作っていった。やがてゲゼルシャフトをベースにした文明が現れると、いよいよ人々の間に格差が現れた。東アジアにも大河にそって諸文明が三々五々と勃興しはじめた。朝鮮半島に最も近かった文明は遼河文明。決して朝鮮人(当時はそんな概念はないし、民族も構成されていないため便宜的に朝鮮半島に住んでいた人たちのこと)たちが東アジア世界で覇を唱えるには悪い立地ではなかったが、黄河文明には及ばなかった。さて、その後の東アジアの諸文明はどうなっただろうか。ご想像の通り併合された。バーンチエン遺跡をはじめとするメコン川流域の文明(中国文明とは一線を画していたとされる)、三星堆遺跡を代表とした古蜀文明、良渚遺跡などの長江文明などなどは多少の地域性を残すのみとなり、多くは黄河文明流に合流・同化した。無論、遼河文明もこの例に漏れなかった。

朝鮮で盲信される謎の王朝
北朝鮮で習う朝鮮初めての王朝は「檀君朝鮮」(단군조선;ダングンチョソン)聞いたことがないのは当然「神話」だからだ。これは朝鮮民族最初の国家は朝鮮人によって作られたと信じたいが為に創作されたと考えられる「神話」で史記は勿論のこと漢書や魏書といった古代中国の書物にはその片鱗さえも残さない。初出は三国遺事という高麗時代に描かれた書物であり、その引用元もハッキリしていない。まさにファンタジーだ。韓国にも信じている人は一定数いるだろうが、その感覚は日本人における神武天皇のようなもので、アイデンティティー構築のためのいち材料に他ならない。そんな歴史コンプレックスの権化のような檀君神話は悲しいことに中国神話の「天帝」や「仙人」などの概念に強く影響を受けているという、なんともアイロニカルな様相を呈している。ちなみに朝鮮民主主義人民共和国では檀君が実在したとしており、その遺骨を発見したと主張している。

箕子朝鮮を滅ぼして建てた国も燕人の国家
箕子朝鮮は紀元前195年に衛満という燕人によって滅ぼされる。燕とは遼東半島に栄えた「中国の王朝」である。そう、また中国人なのだ。衛満は燕の亡命者たちを連れて箕子朝鮮国内に迎え入れられた。最初は高度な技術者集団として受け入れられてきたが、燕人がコロニーを形成するようになると箕子王朝と対立するようになった。ある日、衛満が箕準という王に対してクーデターを起こし、あっさり箕子朝鮮は滅亡。燕人の王朝である衛氏朝鮮が成立した。韓人(ここでやっと現在の朝鮮人の祖先とも言える韓人が形成された)たちは変わっていく主人たちに対して反発することも叶わなかった。ミュンヘン会談のヤン・マサリクもこんな気持ちであったのだろうか。

ついに朝鮮は漢に併合
衛氏朝鮮は紀元前108年拡大主義をとっていた漢の武帝によって滅ぼされてしまう。またまた中国人である。しかし、今回は前回までとは異なり、中国の統一王朝が攻め入ってきたのである。燕の亡命政権で、辺境の国である衛氏朝鮮では圧倒的な軍事力を持つ漢帝国に抗うことすら許されなかった。さらに運悪く、武帝以降の漢帝国は急激に封建的郡国制から州郡県制(郡は2郡のみ)への変革を推し進めていたため、朝鮮には土着の封建国家を作られることもなく完全に漢の領土に併呑されたのである。朝鮮は幽州に属することとなり、さらにその領内も玄菟郡、真番郡、臨屯郡、楽浪郡の四郡に分けられた。これを漢四郡という。楽浪郡は漢書や後漢書に書かれているので中学や高校で歴史をとった人にとっては馴染みがあるかもしれない。このような歴史をどのように韓国は教えているのか、私は生憎、韓国語を勉強しているもののその能力は十全ではなく、韓国の歴史教科書「国史」を持っているわけではないので、井上直樹氏「韓国・日本の歴史教科書の古代史記述」を参考にする。その内容は衛満は朝鮮人の服を着ていたから朝鮮系文化に帰化したと強調しており、漢四郡についての記述は1970代には朝鮮と漢の融合した文化に「楽浪文化」があり、我が民族の独自の発展を阻害したと書いていたが、1990年代以降その記述もなくなり、漢四郡に対しての記述は僅か3行余りになったという。なんとも自国史に関する「コンプレックス」が垣間見えた瞬間である。この時代について韓国では特にセンシティブなのかはわからないが「チュモン」という韓国ドラマでは歴史ドラマとは思えない派手な衣装と漢人に対するレジスタンスを表現した作品が作られ大反響となった。実際、私も試聴したがアクション激しめの素晴らしい作品であった。史実としてではなくファンタジーとして見るのであれば一見の価値があると思う。

高句麗という扶餘人の国
閑話休題朝鮮史の説明に戻ろう。やがて朝鮮には漢の支配に抗う人々も現れた。先ほど紹介したチュモン(朱蒙)もその1人である。彼らは楽浪などを攻撃して勢力を拡大、紀元前37年頃の朝鮮北部に高句麗を建国した。ドラマでこそ長く漢に抵抗した偉大な国家として描かれていたが、実際は漢に朝貢しており冊封国家体制、華夷秩序に取り込まれていったことがわかる。しかし、ここにもまた彼らのコンプレックスを刺激してしまう事実がある。高句麗の建国者「朱蒙」は扶餘人なのである。扶餘とは今の満洲地域に存在していた国で、建国神話ではクムワ王の妻ユファが産んだ卵から孵って朱蒙が生まれたとしている。この卵生神話は朝鮮独自のものではないが、黄河文明神話とは一線を隠しており他文化の影響を受けていると考えられる。この点は自らの正当性を中国の太伯に求めた倭人とは異なる。さて、卵生神話は中国やインド、東南アジアなど世界中に分布しているため決して珍しいものではないことは押さえておく必要がある。しかしその一方で三国史記には黄帝の子孫であるともしており、中国神話と朝鮮神話のハイブリットとも言えるとも考えられるが、私は専ら対外的には自国独自の建国神話を示すことで独立の正当性を訴える一方で、国内では楽浪文化の影響を受けた伝統的な中国神話が浸透していたため、自国のオーソリティの裏付けとして中国神話を引き合いに出したのではないだろうかと考えている。そう言ってもやはり高句麗の支配層は扶餘人であったが主体は韓人であった。高句麗はその点を持って朝鮮の歴史と言えるだろう。

朝鮮南部の小国郡
朝鮮半島南部には辰国があったという記録があるが、詳らかではなくよく分かってはいない。しかし考えられるとすれば「馬韓」「辰韓」「弁韓」地域の総称であろう。これらは小国郡はそれぞれ54ヵ国、12ヵ国、12ヵ国で構成されていた。馬韓は濊貊の部族によって形成された部族国家であり、伯斉などの国があった。辰韓は秦人の末裔たちが居住した国であり、この学説は秦と高句麗のハイブリット的な「積石木槨墳」を代表とした墓制の発掘や自国の呼称などからほぼ確実視されている。尚、ここにも朝鮮のコンプレックスが垣間見える。辰韓の建国は紀元前57年としており高句麗よりも古い。この記述は新羅人という感覚が発生し恣意的に書かれている三国史記を基にしている書物だ。資料編纂には多少なりとも王朝の意図が混ざるものである。これは中国の正史や日本の六国史もれ以外ではない。高句麗に対して正当性を示すために辰韓の建国年を早めたということも考えられる。扶餘人ではなく朝鮮伝統国家の正当性を高めたかったのかもしれない。しかしその辰韓も秦人の末裔であるというアイロニーである。さて残りの弁韓は少し特殊だ。弁韓は倭人との関係が深いとされている。実際、「魏書」烏丸鮮卑東夷伝倭人条(魏志倭人伝)には「從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國七千餘里」と記されており、狗邪韓国が倭の北岸であることが記されている。「韓」と呼ばれる地方に倭人国家があったことを意味している。これはのちの任那日本府の説明の際に詳しく述べる。水野祐はその著書「大和の政権」(61頁15行)にて南鮮と北九州の文化は同一であったとして「倭韓文化圏」の存在を主張している。

三国時代と倭
馬韓、辰韓、は2世紀から3世紀にかけてそれぞれ百済、新羅という国家に集約されていく。一方で弁韓は伽耶諸国としてその状態を維持した。まず百済の建国であるが、百済は朱蒙の子である温祚を祖しているため扶餘の王統を引いている。次に新羅であるが新羅は独自の建国神話を持ちそれぞれの出生には倭人である瓢公が多く関わっているため、倭人との関係も深かったと言える。晋が滅び五胡十六国時代になると倭人の進出が顕著となり、たびたび百済、新羅は倭に侵された。そのことを示す資料に広開土王碑がある。これは高句麗の好太王が倭と戦争した際の戦勝記念として建てられたもので、当時の資料としては高く信頼できる。さて、この碑文には倭が百残(百済)、新羅を攻めて臣民としたという記録があり、神功皇后の三韓征伐伝説との関連(実際、倭人が高句麗の国境まで勢力を拡大した可能性はかなり低いため、新羅などが高句麗に要請した援軍と倭人の戦闘であろう)も考えられる。

朝鮮半島南部の倭人


魏晋南北朝時代になる頃には高句麗、百済、新羅、倭が宋や梁などの南朝などに積極的な朝貢を行なった。これは東アジアにおける優位性を保つためであった。
この頃になると百済の勢力が衰え、新羅が強勢となった。そこで百済は高句麗を目標とした北征から伽耶諸国に対する勢力拡大に路線変更した。527年大伴金村は任那日本府をはじめとする任那4県を百済に割譲した。任那日本府がなかったという説が有力であるが、私はあったと考えている。理由は広開土王碑の内容や三国史記や記紀にあるような倭に対する王族の人質、光州明花洞古墳などを代表とする朝鮮南西部にある前方後円墳の存在である。この建造時期は5〜6世紀前半であり、古墳の終末時期が大伴金村が任那4県を割譲する時期に一致ことなどからである。これを韓国の学会は否定しているが、これもある種の歴史コンプレックスからくる反応なのかもしれない。また同時期を舞台とした作品としては「百済の王 クンチョゴワン」という韓国ドラマがある。「百済の王 クンチョゴワン」では百済が趙や燕といった五胡十六国時代の中国の国に勝利するなどといったトンデモ展開やチング(神功皇后をモデルとした人物)という女王が百済の力を借りて倭を統一するといった展開があり、朝鮮中心主義が如実に現れている作品と言える。一方でクンチョゴワンのモデルである近肖古王が倭と深い関係にあったことは否むことのできない事実である。古事記では近肖古王を思われる人物が応神天皇に馬、論語、千字文などを朝貢している。この朝貢は日本有利の恣意的な表現であるが、関係があったことを示す例である。また朝鮮は倭に対して高度技術を教えたことに対して大きな自負を持っており、それが日本人蔑視の歴史観につながっているのではないだろうか。


裏切りと謝罪の高等テクニックで唐を利用し朝鮮を統一した新羅
6世紀後期、7世紀になると中国で強力な力を持つ国が現れた。隋と唐・武周である。隋は楊堅時代にその基盤を確立させた国で、法による支配のもと強大な経済、人口、軍事力を有した。隋は高句麗に遠征を行なったが失敗。暴君煬帝の大規模工事などによって求心力が低下、軍閥が力を持ち始め、やがて李淵、李世民父子が隋を倒して唐を建国する。唐は隋を超える勢いで成長し東アジアの覇権を握った。このような情勢の中で朝鮮諸国は緊張に包まれた。この中で最も賢い行動を行なったのは新羅だった。新羅は金春秋を唐に派遣し朝貢することによって、唐からの信頼を得て、唐の力を持って百済を滅ぼした。また663年には百済の残党と、それを支援する倭軍をまたしても唐の力を借りて倭軍を殲滅した。これを白村江の戦いという。これにより完全な形で倭が朝鮮に及ぼす影響を排除したことになる。その後またまた唐の力を借りて高句麗を滅ぼした後に、朝鮮における唐の勢力(唐は高句麗の王族を報徳国の王などに封じて三国の力関係を保とうとした。)を排除するために唐に対して反乱を起こした。これを唐新羅戦争というが、この唐新羅戦争の間も新羅はたびたび唐に対して謝罪使を送り、油断したところで再び攻め入るという巧妙な奇襲を多く用いて、朝鮮半島から唐の勢力を一掃、新羅が朝鮮を統一した。しかし朝鮮統一後は再び唐に対して忠誠を尽くすという、なんとも賢い立ち回りを演じた。その後250年余りの間、新羅は唐、倭との関係をなんとか保ちながらその安全を確保した。一方で唐にも新羅にも敵対的な高句麗の遺民と靺鞨族たちが建てた「渤海国」が満洲に成立すると、北方への憂いが生まれた。この渤海国は遺民の国ではあったが、非常に強い国でありその都上京龍泉府は長安に次ぐ都市であった。そんな脅威が北にいれば安心はできない。新羅が尚更、唐に依存することは火を見るよりも明らかだった。さて、依存するということは危険なことである。酒であってもタバコであっても薬物であっても国であっても極論同じなのだ。要は依存中は楽だが「依存対象」が消えると一気に衰える。唐は安史の乱をきっかけに力を失っていく。やがて地域の節度使たちが軍事、行政を支配し独立の機運を高めた。907年に唐が崩壊して中国が五代十国時代に突入すると、新羅が朝鮮を独力で支配することが難しくなった。10世紀前半には旧高句麗・百済の王族たちが担がれそれぞれ後高句麗、後百済として独立。再び朝鮮半島は分裂した。

唐の皇帝の血を引き継いだ王朝
やがてこの混乱を収めた王建(ワン・ゴン)は易姓革命を起越して新羅を滅ぼした。さて、この王建という人物の出自はなんだろうか。なんとも例に倣って中国人だったのである。王建の曽祖父は唐の皇帝の粛宗あるいは宣宗と言われており、このことは史実として認められている。しかし韓国と中国の間には見解の違いが存在している。それは王建が漢民族か朝鮮民族かというものである。勿論、韓国では王建は中国人の血を引く朝鮮人としているが、中華人民共和国では漢民族として王建はみなされている。細かい論争と思うなかれ、これは非常に重大な論争なのである。もしこれで韓国側が王建を漢民族として認めてしまえば、また朝鮮民族は被支配階級となった歴史が増えてしまうのだ。韓国側からすれば譲れない議論なのだ。さらに言って仕舞えば、朝鮮の英語訳「Korea」の語源は高麗なのであるが、この高麗が中国人の国家であれば彼らのプライドを大きく傷つけてしまうことは想像に難く無い。つまりこの議論はKoreaの威信をかけた議論なのである。しかしながら王建が唐の皇帝の血筋を利用して最初期は「王」号ではなく「皇帝」号を名乗っていたというのだから、唐の後継国家として自称してしまっていることになる。こうなれば「高麗が100%朝鮮民族の国家だ」と断定したくても難しいだろう。またこの高麗には高句麗系統の血も混ざっており、国号からも分かるとおり、高句麗の後継をも自称している。さて高句麗はどこの人の国であったか。扶餘である。つまり満洲の国家であるとも言えるのだ。今のところ高麗は朝鮮国家となっているが、いつ、その説が覆されるか彼らにとっては不安であろう。これも朝鮮人の抱く歴史コンプレックスにつながるのではないだろうか。

遊牧民に悩まされる高麗
初期こそ独立を保った高麗であるが、11世紀にもなると満州の耶律氏が中心となった遼(契丹)に侵されるようになっていく。契丹は10世紀末から11世紀にかけて5度にわたり大規模な侵攻を行なっている。高麗は1度目の侵攻で大敗。宋との断交や遼への朝貢といった屈辱的な条件を飲まされる。この後も5度目の侵攻で高麗軍が遼軍に大勝するまで高麗は敗北を重ねて、国力を大きく失った。そんな高麗に対して遼の次に立ちはだかったのは運悪くモンゴル帝国だった。モンゴル帝国はモンゴル高原の小部族からナイマン部やタタール部などの一大勢力を併呑していった史上最大版図の国で、チンギスハーンの下、遊牧民たちが強固に団結した軍事大国であった。遊牧民からなる騎馬軍団と、農耕で生計を建てる歩兵と騎兵を基調とする軍団が平地で戦ったらどちらが勝つだろうか。無論騎馬軍団である。彼らの練度の高い騎馬軍団は考えられないほどの機動力と破壊力を持っていた。これに高麗は敗北。三別抄の乱などのレジスタンス運動も虚しく、高麗はモンゴルの属国となった。またしても属国である。モンゴル帝国に属した高麗は多くの朝貢と貢女(コンニョ)といった高麗人の女性奴隷をモンゴル帝国に捧げることとなった。

高麗の衰退
モンゴル帝国は敵対するホラズム・シャー朝などの国家には激しい略奪を引き起こしたが、一方で属国には比較的柔軟な統治政策を用いたため、高麗の文化は大いに発展した。白磁瓶などはその卑近な例であろう。しかし、軍事力をモンゴル帝国に遠慮して拡大できなかった高麗はモンゴル帝国に軍事的に骨抜きにされてしまい依存。元の日本侵攻に与して多くの軍事力と財力を消費した高麗は造船のために山林が不足し衰退。新羅と同じように依存相手が消えると悲惨な滅亡を迎える。

朝鮮人が建てた最初の王朝
ここまでの歴史を見ると朝鮮民族自身が統一国家を樹立することはおろか、大国の存在なしに自国の統治を安定させることはできなかった。紀元前12世紀から14世紀まで他民族に支配、従属してきただけの歴史であった。しかしながらようやく、その展開に別れを告げる人物が現れる。李成桂である。彼は高麗の武人で高麗が元から独立する際に大いに活躍した人物であった。また今回は中国という大国の力を借りずに、紅巾の乱で弱体化していたとはいえ元王朝を独力で排除した。さらに遼東に侵入してきた中国本土の紅巾賊たちも独力で撃破している。朝鮮が遼河文明以来初めて中国勢力に実質的な勝利した瞬間であった。しかし、李成桂といえども明という大国の圧力には勝てず、またもや明に朝貢。属国の地位に甘んじることとなってしまった。明に朝貢した李成桂は名目上だけ存在していた高麗を滅ぼし、朝鮮国王の地位を賜った。国号は朝鮮。俗に李氏朝鮮と言われる国である。古代の箕子朝鮮などの正当な後継国家としての意味を成した。

主従固定化の時代と文化の隆盛
明に忠実だった李氏朝鮮は豊臣政権の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)などの外圧にも耐え、明の忠実な臣下としての役割を果たした。どうして明に忠実だったのであろうか。これは決して明軍を恐れていたというだけではなく、「儒教」の浸透が大きな要因の一つといえよう。当時、朝鮮で主流だった朱子学は、君臣の礼を重んじる非常に保守的な学問であったものの、君主からしてみれば非常に統治に利用しやすい学問であったのだ。これはのちに江戸幕府も追従することとなる。李氏朝鮮前半は概ね平和であり、最終的に約550年の長きにわたって平和を維持したこの時代は、朝鮮文化の黄金期となった。しかし、一方で明の属国としての形を完全に固定化してしまった時代でもあり、現在の朝鮮におけるナショナリズムにおいては完全に迎合できる歴史とはいえないだろう。これもまた朝鮮史が抱くコンプレックスにつながると言えるだろう。

屈辱の歴史を重ねる李氏朝鮮
16世紀末、後期倭寇・朝鮮出兵・女真族の膨張によって弱体化していた明とそれに依存していた李氏朝鮮は滅亡の危機を迎えていた。七大恨を掲げた後金は明に宣戦布告、李氏朝鮮も明側について戦争に参加したがサルフの戦いで後金に大敗。後金に即攻撃はされなかったものの、北に新たな脅威が現れた李氏朝鮮は攻撃に怯えた。1627年後金は朝鮮に侵攻し丁卯胡乱という戦争に発展した。李氏朝鮮軍は文禄・慶長の役の被害もあってまともな抵抗ができず、首都漢城は包囲。不利な条約を締結させられ、後金との関係は不利になった。やがて、ホンタイジが皇帝即位を認めるようにと朝鮮に使者を出した際には、李氏朝鮮はこれを拒否。またもや戦争となり、丙子胡乱が発生。この戦争では後金軍改め清軍によって李氏朝鮮軍は大敗。三田渡の盟約という屈辱的な条件を飲まされ、李氏朝鮮は完全に明から清の属国となった。李氏朝鮮というのは中近世アジアの本当の被害者なのかもしれない。この頃になると小中華思想というまたもや歴史コンプレックスの権化のような思想が生み出された。この思想の概要は「朝鮮は中国に最も近く、かつ中国文明の中で最も優秀な国家である」というものであり、属国化されているということを正当化する手段となった。また清朝の支配下になると、「異民族に直接統治される清の中華人よりも半ば独立を保つ朝鮮人の方が中華文明の正当な後継者である」という過激な考えまで生まれた。これは今度に説明する日本蔑視にもつながる思想である。

日本による侵略と植民地支配
このような清と朝鮮半島の関係は意外にも蔑んでいたある国によって破壊される。そう倭人改め大日本帝国だ。平将門の乱などを契機として古代・中世・近世とヨーロッパに類似した歴史形態を歩んでいた日本では、江戸後期ごろにマニュファクチュア(工場制手工業)の産業形態が発生していたため、集権国家体制だった清や朝鮮に比べて比較的容易に西欧の工業化の文化を受容できた。日本は幕末・維新初期こそは列強に遅れた存在であったが、北海道(江戸後期から明治にかけて)・琉球王国・台湾を次々と併合。近代国家としての様相を整えつつあった。そんな大日本帝国は1895年に下関条約で朝鮮を解放。李氏朝鮮は高麗以来の帝政を開始。国号を大韓帝国と改めた。しかし、相次ぐ日韓協約によって大韓帝国は日本に蝕まれていき、1910年大韓帝国は大日本帝国の属領と化した。一方で中国は清末期の混乱から民主化を進めており、不安定であったものの国家としての体裁を整えていた。このような朝鮮人が日本人に対して憎悪を滾らすのは当然のことかもしれない。1919年以降に押し進められた大日本帝国の同化政策によって、朝鮮人は西洋文明化された一方で、苗字や文化を喪失。朝鮮人のアイデンティティは弱まった。

終わらない属国体制
1937年以降の金日成らの抗日パルチザン運動は朝鮮人のアイデンティティを取り戻すきっかけとなった。太平洋戦争(大東亜戦争)開戦をしてからさらに拍車をかけた抗日パルチザンはソ連などの支援を受けながら1945年の終戦とともに大た日本帝国に勝利。独立を勝ち取れた。やっと朝鮮人たちの悲願である朝鮮半島の統一と近代国家樹立の夢が果たされると誰もが思ったに違いない。しかしそれもまた大国によって揺るがされる。ソ連とアメリカである。第二次世界大戦終戦直前から零戦は始まっていた。朝鮮半島はドイツのように東西に分断され、それぞれソ連のを後見とした朝鮮民主主義人民共和国とアメリカを後見とした大韓民国が成立。またも大国に翻弄された朝鮮民族はまた新たな歴史コンプレックスを負ってしまった。冷戦期には朝鮮戦争というソ連とアメリカの代理戦争を経験し、大きな被害を被った。またソ連が崩壊しても朝鮮民主主義人民共和国には中華人民共和国という強力なパトロンがおり、統一は遠かった。加えて1978年以降中国が改革開放政策を実施して以降、中国は世界の工場となり大韓民国を超える経済成長を果たした。朝鮮の歴史コンプレックスはこの後も生まれてしまうのだろうか。

皮肉の時代


そして現在、皮肉なことに現在、大韓民国の主要貿易相手国は
・かつて自国を翻弄した国たちの後継である中華人民共和国
・幾度となく朝鮮を脅かし、小中華思想では自国よりも劣等生であったが、近代に自国を植民地支配した日本
・南北朝鮮を分断した元凶で、現在も自国を強い経済、軍事圏内に置いている今の盟主とも言えるアメリカ
なのである。
さらに韓国独立後も使用され続ける日本語由来の言葉は韓国が鈍化政策を行なっても定着したものは簡単には離れない。金光林氏の「近現代の中国語、韓国・朝鮮語における日本語の影響」では韓国語でも使われる「〜化」「〜手」といった接辞成分は日本語の漢字語が由来であるとされ、今でも植民地支配の残り香が残ってしまっているのである。いつまで続くのだろうか。

いかがだっただろうか、朝鮮の歴史から見た歴史コンプレックスの実態は。立地上、文化や経済の集積点になる半島は豊かな文化を形成する一方戦争の舞台になりやすい。隣国には、かたやモンゴル、満州といった強力な遊牧民族国家が存在し、かたや海上にあり守りやすく、大陸の戦乱の影響をまともに受けない島国があり、かたや広大な領土、大量の資源・人口を有する陸上帝国があるという、リムランド的地理は大いに半島の歴史に影響を与えた。韓国が歴史コンプレックスから抜け出すには過去の歴史と折り合いをつけて、自国有利の歴史観を植え付けないことが賢明であろう。

今回はここで終わり。いやぁ爆速で思いの丈を述べたら1万文字を軽く超えてしまいましたね。大学生の方はこれをコピペしてレポート提出にするにはやめてくださいね笑。一応著作権あるんで…。

【参考文献】

井上直樹「韓国・日本の歴史教科書の古代史記述」
https://www.jkcf.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2019/11/4-16j.pdf

水野祐「大和の政権」(1977)

金光林「近現代の中国語、韓国・朝鮮語における日本語の影響 ―日本の漢字語の移入を中心に―」(2005)https://core.ac.uk/download/pdf/70370371.pdf













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