15年間の隠しごと (#やさしさにふれて)

高校3年生の冬。

コロナ禍の中忙しなく日々が過ぎ、"高校最後の"と付く行事も全て終わってしまいました。私の学校は中高一貫校のため、6年間一緒だった友だちともついにこの春、離れ離れになります。人生の3分の1を共に生きた大好きな友だちです。ただ、私にはそんな友だちにまだ隠していることがあります。


私はうまく話すことができません。


難発性吃音症。言葉を上手く話せない障害の1つです。"吃音"としてよく知られているのは連発性です。「ご、ご、ごめん…」というふうに冒頭で同じ言葉を繰り返します。私も昔はこちらでした。気がつけば吃音とは3歳からの付き合いでもう15年、そのうちの半分ほどが連発性だったと思います。両親がことばの教室に通わせてくれて小学校低学年の時少し楽になりました。

小学校4年生の時、難発性との戦いが始まります。その瞬間は、今でも鮮明に記憶に残っています。4時間目の理科の授業。授業の終わり際に、先生が冬の大三角を構成する星座について質問されました。私は星座が大好きで、相当な自信があったため真っ先に手を挙げました。

「こいぬ座、オリオン座、                         」

全く声が出なくなりました。心では「おおいぬ座!」と言っているし口は頻りに動くのに、声が出てきません。昼休み開始のチャイムが鳴り響きました。結局答えられないまま授業が終了し、私は呆然と立ち尽くしていました。「惨い姿を見せてしまった。クラスメイトはどう思うだろう。」と真っ先に考えてしまいました。立ち尽くす私に1人の友だちが声をかけに来てくれました。「口震えてたけど寒かった?大丈夫?」この声かけに幼い私は救われました。「大丈夫」と笑顔で言って、遊びの輪に加わりました。その後も小学校を卒業するまで誰にも吃音を指摘されることはありませんでした。

中学校に入学し、新たな課題を抱えます。自分の名前が言えなくなりました。この頃が1番しんどかったです。これまで吃音出そ〜と思ったらとりあえず黙るか言い換えで対応していた私でしたが、名前はどうしようもない。自己紹介の時は名前を言う前にクラスや役職を言ってなんとか話せましたが、急に聞かれると答えられませんでした。今でも美容院などの予約は名前の部分だけ事前に録音した音声を流しています(笑)。名前を言えないというのはなかなか自分の尊厳に堪えます。何より、名前を与えてくれた両親に申し訳なかった。何で自信を持って名乗れないんだろう。何で幼稚園の子でも出来ることが出来ないのだろう。考えれば考えるほど苦しい日が続きました。その頃は授業中でも壊滅で、数学の答えを先生に聞かれても分かっているのに言えず、案の定黙ってしまい、先生に「授業ちゃんと聞きなさい」と注意されることも多くありました。その度、悲しくて悔しくて、何より寂しい。そんな気持ちに襲われながらも授業中だからと必死に涙を堪えました。

私の転機になったのは中学2年生の時です。国語の授業で、グループでラジオ番組を作って発表するというものがありました。私は真っ先に台本係に名乗りをあげました。これには理由があって、自分が言いやすいセリフを自分にあてるためです。うーんなんともズルい。私は小学校の頃からこの理由でグループ発表の時にはすかさず台本係を担当しました。本当はそんな自分が嫌でした。吃音から逃げんじゃねえよ、と自分を責めました。そうしてラジオ番組の台本を任されることになります。当時本当にギリギリの精神状態で学校に通っていた私は半分自暴自棄で台本を書いていました。

迎えた発表の日。ラジオの内容は「雑学でお悩み相談を解決する」という内容でした。私のセリフはインタビューされてひと言喋るだけの通行人A。セリフが少なかった分、グループの友だちの様子、クラスの雰囲気を客観的に見ることが出来たと今振り返って思います。発表は大成功でした。リスナーの皆は転げ回るように笑ってくれて、同じグループの友だちも笑いを堪えきれず話せない、というくらい。発表が終わり席に帰ろうとすると、右から左から「面白かった」と声をかけてもらいました。私はほんとうに嬉しかった。台本を書くことに引け目を感じていたけどこれで良かったのか、これで生きていけばいいのか、と大袈裟ですが思いました。積み重ねてきた経験は無駄にはならないとはよく言われる話ですが、自分にとって"逃げている"と思っていたものも自分の力になっているということを知りました。テレビドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』はこの件の直後に放送されました。運命でしょうか(笑)

とりあえずこの日をきっかけに、私の中でぐるりと何かが動きます。"みんなと同じように話す"ために使っていた力を、書くこと、作ることに振るようになりました。友だちはそんな経緯を微塵も知らないはずなのにいつも嬉しい言葉をかけてくれました。クラスが違うのに、わざわざ廊下ですれ違った時に「〇〇ちゃん昨日のツイート面白かった!」と声をかけてくれる友だち。互いのいい所を紹介する授業で「〇〇ちゃんのインスタを見返すと笑顔になれる」と書いてくれる友だち。彼女たちはそんなひと言で私が救われているなんて思ってもいないと思います。だからこそ、やさしさが身に染みます。履歴書に書けるような立派なことではないけど、そういったちょっとした努力を見てもらえるのが何よりも嬉しかったりします。そんなひと言が積み重なって、積み重なって、私は少しずつ自分に自信が持てるようになりました。

吃音が出て話せなかった時の悔しさや寂しさも、文章や想像力を褒めてもらった時の嬉しさや安心感も、すべてはっきりと覚えています。私の人生はこの2つの記憶で成り立っているような気さえします。私は"吃音に生かされている"と表現できます。吃音があるせいで出来なかったこと、吃音があるおかげで出来たこと、どちらも私のアイデンティティを作る大切な材料になりました。そしてどちらの記憶にも共通することは、周りに友だちのやさしさがあったことです。人を救う言葉を持つ素敵な友だちに出会えたことがほんとうに誇りであり、私の人生のもう1つの要素です。私は"吃音と、友だちに生かされている"。ほんとうにそう思います。

今も全く克服できておらず、特に名前を言うことは難しいままです。大学の自己紹介や就職の面接のことを考えてしまうと怖くて仕方がなくなる時があります。コロナ自粛期間中は学校にも行けず、将来のことを考えてしまって気づけば椅子に座っているだけで1時間経っていたり無意識に自己紹介の練習を始めてしまったりして勉強がままならない日も多くありました。そんな時は友だちを思い出して自分を鼓舞していました。卒業してもきっと絶対私の味方でいてくれる。そう思うことで未来を悲観する時間も減りました。

難発性の1番の特徴は、気づいてもらえにくいところです。黙り込んでしまったり、分からないフリや忘れたフリをしたりすると気づかれることはありません。それは良い方にも悪い方にも向きます。これまで友だちに全く言ってこなかったことも、良かったと思う部分と後悔する部分があります。

良かったと思う部分は自分と向き合い、挑戦する機会を持てたことです。「あの子は吃音だから喋らせてはいけない」と特別扱いを受けることだけは嫌でした。自分でもプライド高いなと思いますが、このおかげで意外と喋れた!なんてことも結構ありましたし、役職に立候補してスピーチする時もフェアに挑戦することが出来ました。自信を持つようになった高校生頃からは話すことにも挑戦することが増え、もちろん失敗も多くありましたが後悔したことはありません。大人になって1人でこなすことが増えるまでに挑戦の機会を多く頂けたことに感謝しています。

後悔する部分は、たった1つ。感謝を伝えられていないことです。声をかけられる度にありがとうと言っていても、私がこれほどにも友だちのやさしさに助けられているということを伝えられていないことです。この文章を友だちに見てもらうというのもいいかな、とここまで書いて考えています。ほんとうは直接話したいけど、文章の方がすべての気持ちを伝えられるというのも悲しいけど事実です。

私がこの文章をnoteに書いた理由は、できるだけ多くの人に吃音を知ってほしいという思いと同じ吃音と戦う学生と共有したいという思いからです。現役学生で今も全く克服できていない私のリアルな記憶、今の考えを書くことで吃音を身近に感じてほしいと思います。理解者が増えることで吃音者は生きやすくなります。ほんの少し、待ってもらえるだけで聞いてもらえるだけで声が出るようになることもあります。理解してくれる人がそばにいるだけで強くなれます。私も当事者の1人として、1人で抱え込む吃音の学生の力になれる存在になりたいと思います。この文章から教育に関わる方が吃音の子どもへの接し方を考えてくださったり、吃音で悩む学生と気持ちを共有できたりするきっかけになれば幸いです。

 #やさしさにふれて 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?