聞言師の出立 第8話(第2章 3)
アクオには弟がいた——ルニス。
アクオを慕い、言葉も拙い頃からにいちゃんにいちゃんと呼んで、いつも後を付いてまわる。アクオにとってもルニスの世話をするのは楽しかった。己にも守る相手のできたことがうれしかった。
幼い頃は。
やがてアクオも歳を重ね、同じ年頃の友と遊ぶ方が楽しくなってゆく。まとわりついてくるルニスのことが、次第に鬱陶しくなっていく。邪険にすることが多くなり、それでもにこにこと笑いながら駆け寄ってくるルニスに、ある日その辺で拾った小石をやった。
「これをやるからあっち行けって言いました」——摘まみあげるのは白い石。
ルニスは小さな手のひらに押しつけられた石を見て顔を輝かせ、ありがとうと言って家の方へ駆けていった。
しばらくはそれでよかった。
ルニスは一人で歩きまわるようになり、アクオは友と過ごす時間に熱中することができた。
だがある日、また友の家に行こうとしていたアクオを、にいちゃんと叫びながらルニスが駆けて追ってきた。
ずっと探していて昨日きれいなのがやっと見つかった、外で渡そうと思っていた、これをあげる。
「これをくれました」——摘まみあげるのは黒い石。
兄は弟の贈り物を一瞥するなり、捨てた。
力の限り、遠くに放り投げた。
こんなつまらないものは要らない、邪魔をするな、あっちへ行け。
ルニスは零れそうなほど大きく目を見開き、声を上げて泣きだした。泣きながら、石が捨てられた方へ項垂れて歩いていってしまった。
それが、アクオの見たルニスの最後の姿であった。
「村の近くの森で、ルニスの沓とこの二つの石が見つかったのは、次の日でした。誰かに攫われたんだろうって親は泣きました。おれは、もう死んでいると思っています」
アクオは、手のひらの小石を握り締めた。
「おれは自分を責めました。そういうつもりじゃなかった、ずっといなくなれなんて思ってなかった。でも、ルニスがいなくなったのは——おれのせいなんです」
「それは——」
「いえ、いいんです、もう」
涙は出なかった。だが、まだかさぶたのまま残っている傷が破れ、血が溢れだしてきたように、ずきりと何かが痛んだ。
「それからおれは、言葉が出なくなりました。何かを言えば誰かが傷つくかもしれない、いなくなるかもしれないって怖かったのかもしれませんね」
アクオは顔を上げ、歪んだような笑みを薄く浮かべた。
「家には一冊だけ本がありました。子供に字を教えるための。それを毎日おれはずっと見ているだけだった。で、親が心配して、都の修学所で字を習わせることにしたんです。外に出るようにしたい、字に興味があるのかもしれない、それならっていうことでしょう。
そこで聞言師の師匠に出会いました。字もときどき教えているんですよ。それがきっかけでおれは弟子になって、いつの間にか言葉が出るようになりました。この間、やっと聞言師を名乗ることを許されて、ここへ来たわけです」
細い目をぐっと細めているフロニシが、そうかと呟いた。
「おれは師に救われました。ある意味、文字にも救われました。
文字があるからこそ、分かること、伝えられることがあるのだと知りました。
古い本を読めば知識が学べますし、昔も今も人は変わらないものだと分かります。人の〝声〟を聞けば、その人の身体が伝えたいことを文字に記せますし、架け橋にもなれます。
だからおれにとって文字は武器なんです、歩いていくための。人の役に立つための。
だから——」
あのとき、どれほど安堵したか。どれほどうれしかったか。どれほど救われたか。
聞言師はフロニシとルクトの目を見つめる。
「だから、エクテを治せてよかった。初めて独りで術を遣って治せたのがエクテでよかった」
口に出した瞬間、己がどうしようもない愚か者のような気がした。口にするまでもないこと、口にすべきでもなかったことを言ってしまったような気がして、アクオは紅潮した顔を俯けた。
だが、真っ赤になった耳に届いたのは、フロニシのやさしい声——うん。上目遣いに見あげると、ぐいと差しだされたのは、ルクトの大きな手。
「見せてくれるか、その石」
手のひらに載せられた小石を、ルクトは灯火の下で転がす。
わずかに透き通った白い石の中に入る淡い光。
黒い石が放つ鋭い煌めき。
「どっちもきれいだな」
にかりと笑ってルクトがそっと返した小石を、アクオは強く握り締めた。手の中で、かつん、とくぐもった音がした。
茶を飲み終えたフロニシが、すっと立ちあがる。
「二人とも来い」
アクオとルクトは顔を見合わせ、慌てて沓を履いてフロニシの後について外へ出た。
真っ黒な森の上には——
「うわ……」
「すっげえ……」
白、黄、青、赤、緑、紫。
大きく小さくゆっくりと瞬き、河のように流れる、無数の星。
村で見るよりはるかに多く、暗い星と星の間にもまだ星がある。サレオに教えられた馬の星辰も、アクオにはもう見つけだせない。上を向いているのか下を向いているのかすら分からなくなり、沓裏に感じる大地でようやく己が立っていることを知る。
アクオは握り締めたままの手を開き、石を両手に持ってかざした。
色も分からぬ小石から見え隠れする星の影。
手を伸ばせば届きそうな気がした。
「見られてよかったな、アクオ」
「はい」
出た言葉はそれだけだった。
フロニシが低い声で、ゆったりとした歌を口ずさむ。アクオの知らない頌歌だった。
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