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聞言師の出立 第32話(完)

 空は暗い。
 薄暮の光も雲間から切れ切れにしか届かない。

 ——降りそうだ、まずいな。
 テリュク村を発って三日。リメンの町はまだ少し先だった。
 村から都までの長い道沿いには、いつのものとも知れない崩れかけの石の円塔がぽつりぽつりと立っている。村への道中、アクオは夜になるとよく身を寄せていたが、雨露を凌げるその塔もリメンを越えるまではもうない。
 聞言師は外套の頭巾を被ると、足を速めた。少し嫌がるような素振りをまた見せた馬も、静かに声をかけるとおとなしく早足になる。
 右に暗い森、左に荒野が広がる、道とも呼べないような道をアクオは急いだ。
 そのとき、ふっ、と道の向こうに現れた灯り。
 目を凝らしているうちに、光は近づいてくる。
 テリュクとリメンを結ぶ道の途中に人の住むところはなく、分かれ道もない。
 アクオは逃げ場を探したが、馬を曳いて濃い森へ入るわけにはいかない。荒野に身を隠すところなどなく、かと言ってずんぐりとした農馬に跨がって逃げおおせられるはずもない。
 舌打ちをして腰に差した金棒を引き抜き、馬の前に立った。
 ますます近づいてくる灯りに、アクオの背を冷や汗が濡らす。
 と、その耳に声が届いた。
「アクオーっ!」
 己の名を呼ばわる太い声。
 それは紛れもなく——
「ルクト?」
 短い間とは言え、泣き笑いも生き死にも共にした友の声を、アクオは確かに聞いた。三日前に発った村にいるはずの、ルクトの声を。
「ルクト? ほんとにルクトなのか?」
「おう、俺だ俺!」
 灯りの中に浮かびあがったのは、細い目をさらに細くした、ルクトの見慣れた笑顔だった。
「遅せえよ、待たせんなよな」
 アクオはあんぐりと口を開けたまま立ち尽くす。
「顎、外れるぞ」
 にやにや笑うルクトが腰に手を当てた。
「なんで……」
「なんでここにいるかって? お前を追っかけてきたからに決まってんだろ」
「どこから……」
「どこから来たかって? 村にはな、秘密の道があるんだよ。塩とか大きな荷は〈岩ノ口〉じゃきついからな。川沿いに森の中を通って、一日で町へ行けるんだ。お前が今日町に着くだろうと思って、朝からずっと待ってたんだぞ」
「なんで……」
「まあ待てよ。俺一人じゃないんだ」
 ルクトの後ろから顔が飛びだした。
「エクテ!」
 照れくさそうに笑いながら、少年がルクトの横に並ぶ。
「お前ら……」
「全部話すから進もう」
 後ろで一部始終を退屈げに見ていた馬を曳き、アクオたちは並んで歩きだした。
「俺たちな、お前と一緒に都へ行きたいんだ。連れてってくれるか」
 アクオは灰青の目を見開いた。
「都へ? いや、もちろんいいけど、うれしいけど、なんでなんだ」
「俺さ、聞言師になりてえんだ」
「え?」
「お前、刺されたとこを治した紋が知りたいんだろ」
 アクオの足がぴたりと止まった。
「ほら、歩けって。あの紋を知ってるのは俺だけなんだろ。聞言師になれば俺は思いだせるんだろ。いつかそう言ってたよな」
 己の記憶を探ろうと、無数の紙片を広げていた部屋。
 ペティアは〝紋〟をもう描けないと、サレオに話した巫の小屋。
 ずぶりと足元が沈んでいくような感覚にアクオは襲われた。
「……聞いてたのか」
「馬鹿だな、聞こえてたに決まってんだろ」
「……お前がそんなことをする——」
「お前のためじゃない。俺のためだ」
 ルクトはアクオの目をひたと見つめる。
「俺はその紋を知ってる。知ってるけど遣えない。
 たとえば、だ。これから誰かが大怪我をしたとするだろ。死にそうになってる。俺はそれを見て、あの紋が遣えたらってきっと思う。それが親父だったらどうする。それがエクテだったら。俺は自分が赦せなくなる」
 アクオはそれを、己を赦せない深い後悔をよく知っていた。
「だから自分のために、俺は聞言師になるって決めた」
 また、、己の言葉が人を——強く噛んだ唇の端から、アクオは言葉を絞りだした。
「……ごめん。あんなこと言うんじゃ——」
「お前のせいか?」
 眉根を寄せて見上げたアクオに、ルクトは不思議そうな顔を向ける。
「誰かが言ったちょっとの言葉に、びっくりする。哀しむ。笑う。なりたいものを決める。村を出る。それって、当たり前のことじゃないか? 俺たちってそういうもんじゃないか?」
 ——そういうもの……
「何を言うかっていうのは、言うやつがもちろん選ばなきゃならないさ。でも、言った相手に、お前はそれ以上考えるなって言えるわけないよな。言わなきゃよかったってこともあるよ。じゃあどうする。人と話すのをやめるか? 人と付き合うのをやめるか? お前の言葉で誰かがうれしくなることもあるんだぞ」
 ルクトは何のことを言っているのか——卒然とアクオは理解した。
 〈山〉へ初めて行ったときに小屋で打ち明けた、己の暗い後悔。
 それに言うべき言葉を、ルクトは時間をかけて紡いでいたのだ。
「俺は、お前がいてくれてよかった。お前が言ってくれてよかったと思ってる。だからな——」
 ルクトはアクオの肩を強く抱いた。
「俺らを都へ連れてってくれよ」
 にかりと笑ったその顔に、アクオは俯いて瞼を固く閉じた。

「エクテは?」
 光の失せかけた曇天の下、松明を掲げて意気揚々と歩く少年に、アクオは目を向けた。
「俺が都へ行って聞言師になりたいって親父に言ったときさ、あいつに親父が訊いたんだよ。お前も行きたいかって」
 ルクトは大きな手をエクテの頭に乗せた。
「お前、ずいぶん考えてたよな」
「うん」
「次の次の日になって、行きたいって親父に言ったんだよ」
「そう」
 アクオは、ここ穴があるよと声を上げるエクテに問いかけた。
「お前はどうして行きたいんだ」
 んん、と少年が考えこむ。
「……急に村に連れてこられたんだ。なんか、いっかい戻らなきゃなんない気がする」
 とりとめもないその言葉に、だがアクオは頷いた。
「フロニシは……」
「ああ、親父なら大丈夫だ。俺らが行くって言ったら笑ってたよ、血筋だなって。それに、みんなも喜んでくれたぞ。お前を見たせいで、聞言師になるなら行ってこいってばんばん背中叩かれた」
 アクオが赤らめた顔は、誰にも気づかれなかった。
「俺さ、お前みたいなすげえ聞言師になって、いつか村に戻るんだ」
 あまりの面映ゆさに、アクオは慌てて話を変える。
「そ、そうだ、そんな近道があるんなら、なんで教えてくれなかったんだよ」
 ルクトがにやりと唇の端を上げた。
「先回りしてお前を驚かしてやれって、みんなに言われたんだよ」
「村ぐるみか!」
「おう、俺らがついてくって決めたのは何日も前だ。みんなで内緒にしておくのは大変だったぞ」
 眼前に浮かぶのは、陰でにやにや笑うサレオやフロニシたちの顔。
 アクオは暗い空を見上げて叫ぶ。
「やられた!」

 そのとき、闇を切り裂いて、三つの大きな笑い声が燦然と光り輝いた。


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