聞言師の出立 第9話(第2章 4)
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ひねこびた老木の森を縫う山道を、男たちはゆっくり登っていく。
見上げれば、鬱蒼とした樹々の隙間から覗く朝の青空。足元は悪く何度もつまずきそうになるが、だいたいの荷を小屋に残してきた三人の足取りは重くない。
やがて道の先に明るい光が見え、唐突に森は終わった。辺り一面に大小の岩が転がり、右手には森を切り開いて丸太で建てられた古い小屋がある。
「着いた!」
ルクトの声に、小屋の戸を開けて短い黒髪の男が姿を現した。
着ているものは村の人間と変わらない。丸い顔と少し上を向いた鼻が、柔和そうな雰囲気を醸していた。
巫はよく動く大きな目を細めて、フロニシにうれしそうな笑顔を弾かせた。
「早かったね、フロニシ」
「アイオーニ、おはよう。今日は世話になる」
「ぼくがすることなんて、ほとんどないじゃないか。そっちが息子だよね、いつも食べ物をありがとう」
慌てたように背筋を伸ばすルクトを、フロニシは見やる。
「うん、ルクトだ。そちらが聞言師のアクオ」
「それじゃあフロニシ、そっちの方にちょうどいいのがあるからね、任せたよ。ええと、アクオ? アクオはこっちに来て」
そう言うが早いか背を向けて歩きだしたアイオーニの後を、アクオは慌てて追った。
長々しい挨拶も重々しい言葉もない。おぼろげに思い描いていた巫とはまるでかけ離れた語り口が、アクオの心に小さな不安の種を植えつけた。
ふと、巫が立ち止まってくるりと振り返り、フロニシとルクトに呼びかけた。
「ああそれから、そっち。そっちの砂になってるとこには行かないでね。危ないから」
指差す緩やかな上り坂の先では、地面を埋め尽くす大小の岩がすっぱり途切れて砂地になっている。
「あそこは?」
「あの向こうが〈山〉の口だよ。崩れやすいからアクオも行かないでね」
あたかも、遠くから近くから集まる数多の漂陰の重さに耐えかねて、岩という岩が砂になってしまったかのような光景。薄ら寒いものが、アクオの背筋を走った。
「アクオも聞言師になったばっかり?」
「あ、はいそうです」
「都からわざわざ、ここまで大変だったねえ。でも知らない人にはめったに会えないからうれしいよ。こないだはいつだったかなあ。もっとたくさん来てくれればいいのに」
「聞言師はなり手があまりいないんです」
「ふうん。くじで当たった人が聞言師になるって決まりにすれば増えるのにね」
アクオの足取りが乱れた。
アイオーニは試しで巫に選ばれたというが、そのことを皮肉っているのだろうか。いや、そんな生易しいものではなく、怨みなのか。聞言師はなりたい者がなる、そのことを妬んでいるのか。己はやはり疎まれているのか——アクオの脚がしんしんと冷えていく。
だがその勘繰りをよそに、巫はくるりと振り返って困ったような笑みを投げかけた。
「そうだ、ごめん。訊くのを忘れてたよ。捨てるのと鎮めるのと、どっちを先にする?」
巫の気安い口調に、フロニシより細い背中を怖々と見ていたアクオは邪推を振り払った。
「あ、そうですね。じゃあ捨てる方を先にしたいんですが」
「そう。それならこっち来て」
大小の岩が転がる中を、巫は難なく歩いていった。次第に間が空き、大きな岩の向こうに姿が消える。足元だけを見ながら必死に追いかけるアクオは、ふと何かを耳にした。
風に乗って流れてくる低い声。
顔を上げたアクオの目に映ったのは、単調な節回しで朗々と歌いながら、ゆったりと舞うように動く巫だった。
——巫はこうやって漂陰を鎮めているのか……
くるりと回り、足を引きずりながらゆっくり前に進む。右手の黒い短刀を下に向け、また回る。短刀で空を指し、足を数回踏みおろして向きを変える。
そのときようやく、歌われているのが古語だとアクオは気づいた。訛ってはいるが、聞きとれないこともない。
約定を思いだせ——前に数歩。
此処はいるべき所ではない——地を指す短刀。
約定を思いだせ——回転。
空に還って——天を突く短刀。
人の種に宿り——地を踏み締める両足。
命得て戻ってくるがよい——反転。
約定を思いだせ……
そうして繰り返し舞ううちに、右手の短刀が青い光を帯びはじめる。輝きは次第に増してゆき、ひときわ眩い光が放たれた瞬間、巫は短刀を地面に突き刺した。
アクオの足の裏で、ずんと鈍く震える地面。陽光の下でもくっきり見える小さな稲妻が刀から幾筋も地表にひらめき、辺りの漂陰の石に音もなく吸いこまれてゆく。
巫は地面から短刀を引き抜くと、どれよりも大きな漂陰の石の根元に刃を当て、すっと引いた。
「あっ……」
硬さは普通の石とさほど変わらないはずの漂陰の石が、ころりと転がる。拾いあげた巫は振り向いて、アクオに笑いかけた。
「待たせてごめん。大きいのがあったから、ついでに鎮めようと思ってね」
「その小刀で石が切れるんですか」
「うん、漂陰が抜けた後ならね」
「それも巫の力ですか」
「まあそうかな。この短刀はぼくしか遣えないからね」
灰青の目を煌めかせて何度か頷いたアクオは、舞いの意味を訊ねた。
「足を踏み鳴らして、〈山〉の底にいる造物主の眷属に呼びかけるんだ。漂陰を鎮める力をくれってね。そうやって力を刀に溜めて、ずどん。新月のときは村の祈りも届くから、もっともっと光るよ」
「あれにはびっくりしました。そう言えば、あの祝詞は古語でしたね」
「へえ、そうなんだ。ぼくは覚えさせられた言葉をそのまま歌ってるだけなんだよ。意味は知ってるけどね」
そしてアクオに、ついでにこれもと石を差しだした。
「もう漂陰は抜けてるけどさ、大きいのは切っちゃわないと邪魔だから。これも一緒に捨ててよ」
筆の軸にするには太すぎる石を手渡すと、巫は再び歩きだした。
ほどなく巫は立ち止まり、ほらあそこと左を指差した。砂地から小さな岩がいくつか顔を出し、道のように〈山〉の口まで続いている。
「ぼくはこの辺で漂陰を鎮めているから行っといで。石は放り投げるだけでいいからね。中へときどき強い風が吹きこむから気をつけて」
砂地の中に橋のようにできた固い道は緩やかな上り坂になっており、二十歩ほど先ですっぱり途切れている。
アクオが坂に一歩踏みだすと、足裏にごく鈍い響きが伝わってきた。
足元を見ながらゆっくり進むにつれて、響きもますます大きくなっていく。
縁まであと少しというところで、ごおっという音がアクオの耳朶を打った。はっと顔を上げると、右から左まで見渡す限り続く、黒い影。〈山〉の口の反対側が見えていた。
〈山〉の口は、小さい町ならすっぽりと収まりそうなほど巨大な穴だった。周りは高い樹々がぐるりと囲み、その向こうは望めない。
びゅうっと唐突に背から吹きつけた強い風に、アクオの背筋が凍りつく。
——だめだ、これ以上近づいたら落ちるかもしれない。
脂汗を流しながら屈みこみ、荷を探って白い革袋を取りだした。中には、師のリオスから預かった遣い古しの聞言筆の黒い軸が何本か入っている。
聞言筆にも寿命があり、およそ五年。それを過ぎると筆先と筆尻を取り外し、〈旧キ火ノ山〉を訪れる聞言師に預けることになっていた。託された聞言師は、〈山〉の口に古い筆軸を投げこむ。〈山〉に還す、と呼ばれる習わしだった。
アクオは袋の中の軸と巫から渡された石を、汗ばんだ右手に握り締める。そして立ちあがりざまに、下から上へ放り投げた。
ふわりと浮かんだ数本の深黒の石は、ちょうど吹きおろした風に乗って、くるくると舞いながら口の中へ吸いこまれていった。
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