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聞言師の出立 第12話(第3章 2)

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「おはよう」
 茶を飲むフロニシの様子は、いつもと変わらない。
 言葉にならない返事を口にして、アクオは力が抜けたように炉の傍らに腰を下ろした。朝食の支度で土間に立つルクトからは荒々しく茶を出され、思わずその顔を見上げる。
「アクオのせいじゃない」
「……分かってるよ」
 フロニシは目を瞑って、静かに鼻息を立てた。
「そうだな、三人で話をしよう。お前も座れ」
 ルクトは鍋を竈から下ろし、無言で飯間に胡座をかいた。
「夕べのことはルクトに話した。アクオも不安だろう、これからのこ——」
「あ、あの!」
 フロニシは、ゆっくりアクオに頷いて先を促した。
「あの、夕べのあれ、夢じゃないんですよね……」
「残念だがそうだ。現に、家の表にも裏にも見張りが立っているしな」
「じゃあ何かの間違いです。おれは石なんか盗んでいません」
「うん、分かっている」
 アクオは前の夜、フロニシに何度も己の無実を訴え、その度に同じことを言われていた。だがそもそも——
「何故ですか」
「ん?」
「何故おれがやってないと思うんですか」
 フロニシが、少し欠けた片眉を軽く上げた。
「意味がなかろう。聞言師が何のために、漂陰の残った石を盗るというのだ。そんなものが何の役に立つ」
「そう……ですよね」
 しかし、フロニシがアクオの無実を信じていたところで事態は変わらない。
 寝る前も、見張りの若い男たちに囲まれてフロニシの家に帰されてから、アクオは必死に考えを巡らせた。寝床にも一旦は入ったが、焦りと不安で眠りは訪れない。そのうち、漂陰が残っていないことを確かめようと思いつき、布団から出て、採ってきた空の石一つひとつにびくびくしながら聞言筆を当てた。そしてひとまずは、筆液が出てこなかったことに胸を撫でおろしたのだった。
 ——おれは、漂陰の残った石を間違って採ったわけでもなかった。
 では、巫が思い違いをしているのか、巫が己を陥れようとしているのか、巫の書き付けが偽物なのか。だがいずれにせよ、家の外に出られず、巫の手跡も知らない己には確かめようがない。
 漂陰が残った石など持っていないという証を立てるにしても、ない、、ことを示すのはある、、ことを示すより桁外れに難しい。
 アクオに逃げ道は見つけられなかった。
「それなら、盗んではいないけれど、どっちにしろ漂陰の残った石が何の役に立つ、使い道なんてないって言えば——」
「使えるかどうかという話ではない。漂陰の残っている石を採ってはならない。それが掟だ。掟を破った者は罰を受ける」
 アクオの肌に寒気が走った。
 訊かずに済まそうとしても、気づくと言葉が洩れていた。
「……どんな罰ですか」
「命であがなうこともある」
 アクオの喉がひゅっと鳴った。
「だが、うま——」
 そのとき、表戸を開けてサレオが現れた。

 フロニシは巫の書き付けを読んで、確かに本物だなと言った。
「そうだね。ま、そういうことだから」
 言葉少なに立ち去ろうとするサレオを、フロニシが呼び止める。
「麦はどうなった」
「……もっと広がったよ」
「そうか。わざわざありがとう」
 サレオは書き付けを取り返すと、アクオには目もくれずに立ち去った。
 外の明るい光を締めだした戸を忌々しげに睨んで、ルクトが舌打ちを鳴らす。
「何しに来たんだよ、サレオは。助けてくれるんじゃないのか」
「私たちが納得できるように、書き付けを持ってきてくれたじゃないか。他の世話役は渋い顔をしただろうにな」
「納得なんかするかよ!」
「まあそう言うな。サレオも世話役だ、掟に従わないわけにはいかない。巫が間違っている、嘘を吐いているという証左もなかろう」
 泰然としているフロニシを見て、アクオは眉間に皺を寄せた。
「フロニシとルクトも疑われてるんですよね、おれが石を盗むのに手を貸したんじゃないかって」
「そのようだな」
「じゃあなんで、そんなに落ち着いていられるんですか」
「ここで慌てても何かが変わるわけではない。それに、時間稼ぎの手立てを思いついた」
 怪訝な顔になったアクオに、フロニシは言葉を継ぐ。
「その間に、間違いだったと分かるかもしれないだろう。それにさっきも言——」
「どうでしょうね。確かめてくれって、誰かが巫にお願いしてくれるかどうかなんて分かりません。お願いされても巫が確かめるとは限りませんし。それにひょっとしたら、巫が何か企んでいるのかもしれない」
「うん、それはそうだ。そもそも何故こんなことになっているのか、私にもまったく見当がつかない。だからこその時間稼ぎだ。今はそれしかできない。そ——」
「おれを売る、っていう手がありますよ」
 フロニシがまた右の眉をくいと上げ、目を伏せるアクオを見つめた。
 自棄やけになっているのか、あまりに落ち着いているフロニシに当たり散らしたくなったのか。己でもよく分からない衝動に駆られて、アクオは言葉を投げつけた。
「漂陰の残った石をおれが確かに盗った、見ていたけどおれに脅されて言えなかった」
 次第に高まってゆく声は、もう抑えられない。
「だけど、もう嫌だ助けてくれと泣きつけば、丸く収まるんじゃないでしょうか!」
 最後は喚くような大声になり、アクオは上目遣いに目の前の男を見返した。
 つと俯いたフロニシから、低い声が洩れだす。
「ほう、それはいい考えだ」
 そう言ってゆるゆると上げられた顔が孕んでいるのは、静かな怒り。
「とでも言うと思ったか。
 お前が訳もなく害されて、私たちがよかったよかったと胸を撫でおろして、また畑の務めに精を出すとでも? ルクト、言え」
「馬鹿かてめえは!」
「よく言った」
 フロニシは押し殺したような声を出すと、アクオの目を真っ直ぐに見つめた。
「自棄になるな、アクオ。そんなことをしても何にもならないぞ。手立てを探せ、諦めるな」
 灰青の目を見開いたアクオは、掠れた声でルクトに呟いた。
「……お前も信じてくれるのか、おれがやってないって」
「親父、この馬鹿にもういっぺん馬鹿って言ってもいいか」
 もう言っただろうとフロニシは苦笑した。
「そうだな、まあいいや。いいか、お前はエクテを助けてくれた」
「目くらましかもしれない」
「うるせえ黙れ。俺はお前が聞言師になった訳を聞いた。お前が空の石をくれようってしてたのも知ってるぞ。漂陰の残った石を盗むようなやつが、そんなことするか」
「……するかもしれない」
「うるせえ! そんなことするやつじゃないって俺が思ってるんだ! 他になんか要るか!」
 言葉を失ったアクオに、フロニシは穏やかな笑みを向けた。
「そういうことだ」
 アクオのささくれ立った心に、己自身の涙が染みこんでいった。

 じゃあ話を続けようと、フロニシは落ち着いたアクオに語りかけた。
「まず始めに言っておこう。ヌルゴスには気をつけろ。
 あれと私、それにサレオは似たような歳だ。あれは子供の頃から、邪魔な人間は潰そうとしてきた。自分に逆らわない者にはい顔をするから、騙されてしまうがな。サレオも私も、ずっと目の敵にされている。
 あれは表立って喧嘩を吹っかけるわけではない。人を陥れるのが得意だ。しかも小心者だから、ないことは吹聴しない。ほんのわずかな掠り傷でも見つけたら、そこに両手を突っ込んで大きく広げる。相手は血を流しながら、目の前から消えてくれるという寸法だ。だから、絶対に隙を見せるな」
 アクオは、湯家の二階で初めてヌルゴスと顔を合わせたときのことを思いだしていた。あからさまに己を見下すような人間が相手なら、油断することもそうそうないだろうと思ったが、フロニシの忠告には素直に頷いた。
「うん、じゃあ時間稼ぎの手立てだ。いいか、これは根比べになる」
「は?」
「どっちも相手から欲しいものがある。だから、向こうが欲しがっているものを渡して、代わりに掟破りの一件はなかったことにしたい。そうせざるを得ないところまで、向こうを追い詰めるぞ。そのための根比べだ、さっきから言いかけていたのだがな」
「はあ」
「まあ聞け。まず今日、四人の世話役が必ずここに来る。向こうがお前から欲しいのは——」


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