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聞言師の出立 第10話(第2章 5)

 戻ってきたアクオを連れて巫は小屋の方へ少し戻り、両手を広げた。
「この辺なんだよね。毎日祝詞を唱えてもぽこぽこ出てくるんだ。今度の新月で一気に鎮めようと思ってたんだけど、手伝ってもらえるかい。一つでも少なくなれば助かるよ。悪いけど、大きいのからやってもらえるかな。ぼくは知らないんだけど、やり方は大丈夫だよね?」
「は、はい。大丈夫です」
 アクオが辺りを見回すと、確かに岩と岩の間のあちこちに尖ったものが生えていた。指より細く小さい石もあれば、もう少し太く大きな石もある。そのどれもが湛えているのは、明るい陽の光にすら煌めくことの決してない深黒の闇。だがよく見ると、崩れかけているものが多かった。
「じゃあぼくはあっちの方に行くから。昼までお願いするよ」と言い残し、巫は一人先へ進んでいく。その背中を見送って、アクオは大きいの大きいのと呟きながら辺りを歩きまわり——見つけた。
 人目から隠れるようにして、大きな岩の裏に影よりなお暗い闇が凝っている。石としての形を保ち、色こそ聞言筆の軸と同じだが濃さ、、が違う。
 軸は光を吸うがゆえに深黒。だがこれは闇が滲みでているがための深黒だ、とアクオは感じた。
 ——間違いない、この石には漂陰が宿っている。
 だが、何かがおかしい。
 陽炎のように、石を包む空気が揺らめいている。
 見つめているうちに、深黒の中から淡い色が滲みでてきた。
 ——あれ?
 目を指で押したときのように、模様を描きながら白とも黄とも赤とも紫ともつかない色が、深黒から湧きでてくる。
 ——きれいだな……
 突然、がらり、と足元で転がる石。
 アクオは我に返る。
 数歩離れていたはずの深黒の石は、すぐ目の前にあった。
 己の手が——触れようとしている。
「うわっ!」
 慌てて手を引っ込めて飛び退いた拍子に、後ろの大岩に身体をしたたか打ちつけた。その衝撃と痛みに頭が澄み渡る。
 ——なんだこれ……
「どうしたの、大丈夫?」
 駆け寄ってきた巫が、岩に背を押しつけているアクオの怯え顔を見て、ああと呟いた。
「あんまり見つめちゃだめだよ。近づいたり触ったりしても、そのくらいの大きさの石なら何も起こらないけど、じっと見てたら離れられなくなるからね。そう教わらなかった?」
「は、はい。すみません」
「うん、気をつけてね。でも無理しなくていいんだよ? 抜け殻の石を持っていくだけでもこっちはかまわないからね」
「いえ、できます。やります」
 巫は小首を傾げてアクオの様子をじっと見ていたが、そう、と呟いてやがて離れていった。
 ——そうだった。漂陰の石の〝声〟を聞くときは視線を逸らせって、師匠に言われていたんだった。
 アクオの背筋には冷たい汗が流れ、鼓動もまだ煩い。目を閉じて視界から石を締めだし、何度か深く呼吸しながら腰の革箱から袋を取りだした。
 手の中に感じる弟の小石の感触に、アクオの心は落ち着いていく。
 ——よし、できる。やろう。
 袋を仕舞って聞言筆を取りだし、漂陰の石の前に屈みこんだ。少し斜めに地面から生える深黒の石に筆を当て、目を瞑る。
 しゅるしゅると勢いよく〝声〟が吸いこまれるのが手に感じられ、きゅいと筆が鳴った。
 聞言師は肩にかけている布袋から出した板を脚に載せ、白い紙を置く。再び目を閉じて頭の中をぐるり、、、と回し、漂陰の〝声〟を聞くための青い〝篩〟に〝樋〟を繋ぐと、後は筆液が出るのに任せた。
 紙を左手で押さえてそっと筆を下ろすと、こつりと筆先が紙に当たる。
 ——さあ漂陰、〝声〟を出せ。
 筆は、言葉を作らない〝声〟を紙に記していった。

 ふう、とアクオは息を吐いた。吸いとった漂陰の〝声〟は〝篩〟で選り分けられ、秩序を与えられ、文字となって紙に姿を現しているはずだった。
 だが、何も見えていないはずの視界がぐるぐる回るような気持ち悪さに、アクオは目を開けられず立ちあがることもできない。
 こうしてはいられない、今すぐ行って今すぐ手に入れねばと、得体の知れない焦燥に襲われる。己には何でもできると昂揚する心と、己には何もないと愁嘆する心が、四方八方からアクオに喚き、責めたてる。
 ——黙れ。黙れ、黙れだまれだまれ——
「黙れ!」
 聞言師は、貼りついてしまった瞼を無理矢理こじ開ける。
 全力で走ったかのような荒い息遣いと、煩い鼓動。
 足裏に感じるごつごつした石と、脂汗を冷やすなめらかな風。
 見上げれば、広く明るい青空を黒い鳥影がすいと飛んでゆく。
 脚の上の板も紙もかまわずに、アクオは立ちあがった。
 ——ああ、これか。
 師リオスの言葉が蘇った。
 漂陰の石の〝声〟を書きだすとはすなわち、他者の欲を一度己の中に取りこむということ。それに煽られて、己の中にある欲も増長する。欲を否むな、だが身を任せるな。見るな、聞くな、己の心を。それは——
「聞言師の務めではない、だよな」
 出来の悪い弟子に苦りきる、師の渋面が脳裏に浮かぶ。
「だって初めてなんだからしょうがないよ、師匠」
 面と向かっては言えたことのない言葉が零れでて、したり顔が浮かんだ。
 ——もう大丈夫だ、こつが分かった。
 〝篩〟を遠く、、に作ること。
 それには、頭の中をぐるり、、、と回したときに、その勢いでもっと遠くへ飛ばすところを思い浮かべればいい。離れていれば、漂陰にも引っ張られにくくなる。
 〝篩〟との距離を意識するようにと師から言われ続けてきた己にとって、難しいことではない。
 アクオは知らぬ間に、聞言術という名の階段を一歩上っていた。

 もうひとつ、やるべきことは残っている。アクオは腰を折り、地面に落ちたままだった紙を手に取って砂を払った。
 漂陰を鎮めるには、聞言筆で〝声〟を吸いとって文字にすればいい。現に、眼前の大きな深黒の石からはもう闇が滲みでている感じがしない。すべての漂陰が筆液となり、人にとっては意味を為さない文字の羅列となって紙に出尽くしたという自信がアクオにはあった。
 だが、あの〝声〟。おまえはだれだとアクオに問いかけた異質な〝声〟が出ていないか、見てみなければならない。
 アクオは紙を広げ——あっ、と声が出た。
 あった。
 誰何の言葉ではない。今度は——

も っ と だ

——だった。
 何がもっとなのか。もっと何なのか。
 アクオは薄ら寒いものを感じながらも、務めだとばかりに漂陰の石を次々と鎮めていった。欲に心が掻き乱されることはなくなっていったが、漠然とした予感は確信へと変わってゆく。
 石を鎮める度に、同じような言葉が記されるのだ。
 ——この〝声〟は、筆から出ている。筆に何かが棲みついているんだ、きっと漂陰が。
 だが、漂陰は人に取り憑くものである。しかも筆に吸いとった漂陰は文字にして書きだして、空へ還しているはずだ。
 それともまさか、これまで己の学んできたことは間違いだったとでもいうのか。
 アクオの知識が経験が絶叫しながら否定するが、アクオの感覚は勘は反駁する——筆の中にいるのは漂陰だと。
 厳しい師からも住み慣れた都からも離れた地で、初めて感じる心細さ。それに囚われたアクオは、同時に胸の中に巣くった小さな違和感に目を向けることができなかった。

 巫の声がしたのは、アクオが何度目かの異質な〝声〟を読んで眉間に皺を寄せているときだった。
「ああ、ここにいたんだね。昼飯を作ったからもう終わりにしなよ」
 その言葉がアクオの腹を鳴らす。赤面する聞言師に笑いながら、巫は先に小屋へ引き返していった。
 アクオが戻ると、小屋の中にはすでにフロニシとルクトもいた。
「首尾はどうだった」
「はい、最初は大変でしたが、こつが掴めたので後は大丈夫でした」
「ああ、なんか声がしたから苦労してるのかなって思ったけど、それならよかった」
「ご心配をおかけしました。大きい石を十個鎮めましたが、足りますか」
「すごいね、十分じゅうぶん。助かるよ、ありがとう」
 安心したアクオがふと見ると、ルクトはがっくり項垂れている。視線が合ったフロニシは軽く首を振った。
「大丈夫だよ、ルクト。石が採れないなんて全然珍しくないから。もう少し経ったらまた来ればいいさ。ほら、これ食べて」
「すまないな、アイオーニ。こっちが昼飯を作ろうと思っていたのだが」
「いいって。人に食べてもらうなんてめったにないんだから。ほらみんな、どんどん食べて。お代わりもあるよ」
 巫は温厚そうな丸顔に笑みを湛えて、三人が昼食に手を伸ばすのをじっと見ていた。


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