見出し画像

聞言師の出立 第3話(第1章 2)

 前を走る大柄な男には見覚えがあった。
 ——フロニシの息子だったっけ。ル、ルクトだったかな。
 どこからか犬の吠え声や鶏のけたたましい声が聞こえる道を、男たちは走った。
 最初に通りがかったルテラの家では、戸口にいる少女が駆けていく二人に驚いた顔を向けた。
 アクオが連れこまれたのは、次の家だった。すっと手渡された柄杓の水を飲み干すと、荒い息遣いで膝に手を突く。大した距離ではないはずなのに鼓動が煩いのは、長旅で疲れているからか、為すべき務めに緊張しているせいか。
 差しだされた手に柄杓を返して視線を上げると、フロニシが眉尻を下げていた。
「わざわざ来てくれたのか。疲れているだろうから薬だけでもよかったのだが。すまない」
「いえ、これも聞言師の務めですから。診てみましょう、どこですか」
「こちらへ」
 廊下のすぐ左側の戸を開けると、もう点されている灯りの中で女がはっと振り返る。見覚えのある顔——ルテラだった。
 その足元の膨らみの小さな布団からは、土色の髪の少年が真っ赤な汗まみれの顔を覗かせている。少し尖った鼻先に愛嬌があるが、今は苦しそうな表情が痛ましい。
 ふっ、と蘇った弟の記憶に一瞬鈍る足。
 だが気づかれることなく、アクオはルテラに頷いて枕元に胡座をかいた。
「聞言師って医術ができるのか」
「見ていれば分かる」
 後ろに立つルクトとフロニシの小声のやり取りが、アクオの耳にも聞こえた。聞言師は何度か深く呼吸して心を落ち着かせ、口を開いた。
「いつからこんな具合ですか」
「アクオのところから帰ってきたら、もう熱を出していた」フロニシが答える。
「私が家を出るときは何も変わった様子はなかったのだがな、ルクトが帰ってくると倒れていたらしい。薬もやったが効かない。最近は村でこういうことが多くてな」
「多い?」
「うん。いきなり高熱が出る。何日か経って、やはり突然治ることが多い。だがこの子はまだ小さいからな、何日もこのままになったら……」
 フロニシの節くれ立った手が握り締められた。
「それは心配ですね。薬は何を?」
 これだよ、とルテラが木筒を差しだす。中の乾いた草をアクオは軽く噛んで、隠しから出した布に吐きだした。
「これは都にもある薬草ですね。これが効かないのですか。身体には何か印が出ていませんか」
「さっきも着替えさせたけど、身体は大丈夫みたい」
 アクオは腰の革箱の蓋を開けて、袋の横から聞言筆を取りだした。
「ご存じでしょうが、念のため。これは、耳には聞こえない〝声〟を身体から吸いだせる筆です。身体のどこが悪いのかはこれで分かります。この子の身体に当てたいので、胸を出してもらえますか」
 動きだしたのはやはりルテラだった。家は違うはずだが息子なのだろうか、それともただ看病に来ているのだろうか——ふと湧いた雑念をアクオは振り払った。
 汗に濡れる胸元にさっと視線を走らせ、見る限り肌に異常がないことを確かめると、痩せた白い胸に深黒の筆をそっと置く。
 口を開く者はなく、苦しそうな寝息の中、忙しく上下する筆に注がれる三つの視線。
 その間、聞言師は袋から出した薬と本、黒い板の上には紙を置いて、床に並べていった。そして腰の箱から革袋を取りだし、固く握り締める。
 ——ルニス、この子を治す力をくれ。
 アクオも筆をじっと見つめる。やがてかすかに、きゅ、とも、ちゅ、ともつかない小さな生き物の甲高い声のような音が聞こえた。頷いた聞言師は、手の中の小さな袋を腰の革箱に戻した。
「いいでしょう」
 筆をそっと取りあげ、一人ひとりに視線を合わせながら言った。
「これから私は〝声〟を書きだします。少し離れていてください。いいと言うまで、決して音を立てないでください。余計な音が聞こえると書けなくなりますから。外に出ていてもかまいませんが、終わるまでは中に戻らないでください」
「聞言師の技を見るのは久しぶりだな」
「俺は初めてだ」
「何度もやってきましたから慣れたものですよ」
 アクオはにこりと笑った。己を鼓舞するために。
 ——嘘は吐いていない。ただ、独りでこれをやるのが初めてなだけだ。でもできる。そうだ、何度もやってきた。教えられてきたこと、学んできたことを信じればいい。できる、やる。
 周りがアクオから距離を取り、それでも部屋を出ずにただ頷く。
 アクオは筆を手に持ったまま、すうっと何度か深く息を吸っては吐き、瞼を閉じた。そして頭の中をぐるり、、、と回し、赤い〝ふるい〟を作る。
 ——さあ聞くよ。話してごらん。
 筆が少しだけ震えたような感触。先端に集まるごくわずかな重み。
 ——うん、助けてあげるから。どこがどう苦しい?
 じわりと筆先に液が滲みだすのが分かる。
 ——よしよし、話すんだ。言葉を出せ。
 目は閉じたまま、紙に左手を当てる。筆をゆっくりと紙に下ろし、指先の力を抜く。
 ——呼吸はゆっくりと深く、筆で感じろ。筆はおれ、おれは筆だ。
 すうっ、と筆先から文字が生まれた。
 ゆっくりと現れた一文字は二文字に、三文字にと、次第に筆の動きが速くなってゆく。やがて文字は言葉を紡ぎだし、白い紙が少年の〝声〟で埋まっていく。聞言師は目を閉じたまま、身動ぎもしない。端から見る者には、まるで筆が自ら動いているかのようだった。

 〝声〟とは、生き物やその欠片かけらが絶えず発する、人の耳には聞こえない呟きのようなものである。
 聞言筆には、触れているものからその〝声〟が吸いあげられる。雑多な〝声〟はあたかも湯気が露となるように筆の中で形を成し、入り交じったそれは黒い液となる。
 その中から、聞きたいこと、聞くべきことを頭の中の〝篩〟で選り抜き、〝声〟を読める文字に変えて紙に記すのが、聞言師の聞言師たる所以であった。

 ぴたり、と筆が止まる。誰かに確かめるように小首を傾げると、聞言師はゆっくりと筆を上げ、再び深く呼吸してようやく目を開けた。目の下にはありありと隈が見えるが、初々しさの残る顔に浮かんでいるのは晴れやかな笑顔だった。
「筆の技は終わりました」
「うん、いつ見てもすごいな」
「では読んでみます」
 聞言師たる者、目は使うな、筆で聞け。筆を聞け。筆だけが己の感覚だ。書かされたものを読むのは別の次の務めだ。そう教えられてきたアクオは、ようやく紙に目を落としてざっと読み——己が目を疑った。
 表情を押し殺して周りを見ても、驚いた様子は見えない。読まれていないことを確かめると、かすかに震える手でゆっくり紙を取りあげて顔を隠し、最後に書かれた言葉をもう一度読み直す。
 ——なんだ、これは。
「……この子は大丈夫なのかい」
 おずおずとしたルテラの声に、はっと我に返った。そうだ、これを読まねば。まだ務めは終わっていない。苦しんでいるのだ、人が、子供が。
「はい、ちょっと待ってください」
 不安を与えてはいけない。聞言師は、見たことも聞いたこともないものに出会ったとしても、見飽きるほどありふれたことかのように振る舞わねばならない。己を大きく見せるためではなく、相手のために。
 師リオスの言葉が蘇り、紙を少し下ろして何食わぬ顔で初めから読み返した。
 人間、すなわち生き物は、病んでいるところが〝声〟を上げて物病みを訴える。それが痛みなり不調なりの形で表に出てくるかどうかは、病や身体次第だとしか言えない。だがどうであれ、聞言筆にはその苦しみの〝声〟も吸いあげられる。
 それを選り抜いて書きだすことができなければ、聞言師など名乗れないが——どうやら役目は果たせたようだとアクオは安心した。
「うん、大きな病はありませんね」
 臓腑からの悲鳴は書かれていない。身体全体から訴えられる苦しみの言葉の数々は、少なくとも今は特定の箇所が病んでいるわけではないことを示している。
 どの文字にも不可解な歪みはなく大きさも揃い、行は真っ直ぐで行間も安定している。むしろ整然と言っていいほどに。
 書かれた言葉の種類と組み合わせと回数から見ても、厄介なものではない。この類いの訴えは、外からささいな病の源が入って身体の中で暴れまわり、それが熱となって出ている状態にまず間違いないだろう。
 突然熱が出て突然治まるという話は気にかかる。だが書かれた言葉を見る限り、改めて病の便覧を見るまでもないくらいに、振りではなく本当に見慣れている——風邪だ。
 直接治す術はないが、身体が闘う力を強められるように助けて、後は熱も下げた方がよさそうだ。
 アクオはそう判断を下した。
 革箱に先端を入れて筆尻を押し、中に残っていた液を一気に出す。
 紙の上で言葉を作らなかった〝声〟は宙に放たれると跡形もなく霧散するのだから、わざわざそうすることはない。それでもこれが相手への気遣いっていうやつだ、と脳裏の師が得意気に言い、アクオはこっそり微苦笑を浮かべた。
「都の薬はありますが、さっき別のものを飲ませたのであればこちらの方がいいですね」
 アクオは言葉の書かれた紙を裏返しにして脇に置き、つるりとした黒い板の上に今度は向こうが透けて見えるほど薄い紙を載せた。
 目を瞑って深く呼吸し、指先の〝堰〟を抜けば己の身体から筆液が流れだす。そして今度は〝篩〟を作らずにそのままの筆液を使って、紙に目を据えながら、しゅっしゅっという音を立てて流麗な古の文字を散らすように書いてゆく。
 右かと思えば左、上かと思えば下。大らかでありながら緻密——
 見る者に古語は分からなくとも、線が点がひとつ書かれる度に聞言師の内から力が引きだされて、黒い重みが増してゆくように感じられる。
 緩急、大小、強弱——
 分かたれていた線が結び合わされ、新たな意味が起ちあがる。
 安定と律動、まとまりと流れ、調和と均衡——
 文字は位置と形を与えられ、己の為すべき務めを定められてゆく。
 しゃあっと最後の文字の払いが書かれたとき、文字の連なりはひとつの絵となり使命を与えられた。
 そしてもう一枚。
 やがて、額に滲んだ汗を拭ってアクオが紙を指した。
「こちらが火を喰う蛇、熱を下げます。こちらは鉄床かなとこ、何物にも負けない強さを身体に与えます」
「これ、なんなんだ」
 ルクトが眉間に軽く皺を寄せる。
「これは〝紋〟と言います。古い文字を組み合わせて、身体に命を下す力を持たせた、まあ護符のようなものです」
「ごふ……」
「これをこの子の身体に載せると、効き目が出ます。やっていいですか」
 フロニシが頷き、アクオは二枚の紙を少年の胸と腹に載せた。
 視線を集める〝紋〟には、しばらく何も起こらない。が、ちょうどルクトが口を開きかけたとき——
「あ……」
 それぞれの〝紋〟の中央の文字が赤く光りはじめた。その光はやがて広がり、〝紋〟を形作るすべての文字が赤くなった途端、一閃の輝きを放って消えた。
 アクオが紙の隅をそっと持ちあげると、断片と灰が少年の身体に残った。紙の残骸を取り除き、胸と腹を濡れた布で拭っているうちに、少年の息遣いも穏やかになっていく。部屋の中には安堵の空気が流れた。
 アクオの身体から力が抜けていく。厳しい師からも認められるようなことを初めて独りで成し遂げたはずなのに有頂天にはなれず、波立っていた心がただ静まってゆく。だがその奥には紛れもない悦びが燦然と輝き、アクオの心を照らしていた。
「これで大丈夫でしょう」
「……なんの病だったんだ」ルクトが呟くように訊ねた。
「ああすみません、これはまず間違いなく風邪です。今回はたまたま身体が退治に苦労していたのでしょう。〝紋〟で熱は下がりました。後は身体に任せて大丈夫です」
 聞言師は、危うく舌打ちを洩らすところだった。
 ——大事なところで失敗しちまった。〝紋〟の話より先に、病の名前を伝えるべきだろうが。
「しばらくぶりに聞言師の技を見せてもらったな。ありがとう、アクオ」
 フロニシの顔に浮かんでいた憂いの影は、綺麗になくなっていた。
「あたしからも礼を言わせとくれ、ありがとう」
「ああ、そうだった。この人はルテラ——」
「もう会ってるよ、飯を持ってってやったからね」
「うん、そうか。お隣さんだ。うちには女手がないからな、こうしていつも助けてくれる」
「あんたらに任せといたら、エクテがまともに育たないからね」
 耳が痛いなと言ってフロニシは苦笑した。
「ルクトはもう引き合わせていたな。それでこの子はエクテ。この子も、息子だ」
 ごくわずかな逡巡のようなものにアクオは何か引っかかりを感じたが、ただ軽く頷いた。
「じゃああたしはいったん帰るかね。なんかあったらすぐ知らせなよ」
 ルテラはエクテの額を濡れた布で拭うと、腰を上げて部屋を出ていった。
 その後ろ姿を見送ったアクオは、少年の身体の〝声〟を書きだした傍らの紙を折り畳んで本に挟みこむ。
 ——あれ、、がなんなのか、調べなきゃならない。あんなものは初めて見た……
 アクオの背筋に薄ら寒いものが走った。


目次 ← 第2話 (1-1) ← 第3話 (1-2) → 第4話 (1-3)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?