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聞言師の出立 第11話(第3章 1)

 帰途、ルクトはほとんど口を開かなかった。
 巫に食料を届ける若い男たちと森の中で擦れ違ったときも、笑顔を繕おうとすらしない。軽く手を上げただけで、後は先頭になって黙々と歩き続けた。
 三人が帰り着いたのは、村の家々に明かりが灯りはじめる頃。ルテラとサレオの家から飛びだした少年を笑いながら受け止めるルクトを見て、聞言師は呟いた。
「もう大丈夫そうですね」
「うん、心配は要らない」
 森の道を無言で歩くルクトに、己の採った空の漂陰の石を渡そうかとアクオは何度も考えた。だが、ついに袋から石を取りだそうとしたアクオの手は、フロニシに止められた。
 漂陰のあるなしを感じとることができなければ石を採ってはならない掟だ、やがて時は来るから心配するなと言われれば、諦めざるを得ない。
 そのときから残っていた胸のつかえは、戸口から洩れる温かな灯火に溶けるかのようになくなっていった。
「あんたたち、ご苦労さん」
「すまなかったな、サレオ。エクテはどうだった」
「元気に遊んでいたよ」
「そうか、よかった。ああ、石のことはルクトに訊かないでくれ」
「あれ、そうかい。まあ急ぐことじゃないしね」
 エクテにふざけかかるルクトを横目で見ると、サレオは口の端をくいと上げた。
「寂しかったのはあっちの方かもね」
「違いない」
 フロニシとサレオは吹きだし、アクオも鼻息を立てて笑った。
「なんだよ」
 エクテを肩車したルクトが、口を尖らせて近づいてくる。
「ん? あんたら疲れてんだろ、今晩はうちで飯どうだいって話してたんだ」
「え、いいのか! 行く行く!」
「んじゃ三人とも湯に行ってきな。あたしらはもう行ったから、飯の支度してるよ」
「ぼくも行く!」
「あんたはまた行く気かい、ふやけても知らないよ。じゃあほら、さっさと行っといで!」
 背中を叩かれたルクトは、歓声を上げるエクテを肩に乗せたまま家へ駆けていった。
「いろいろとすまないな」
「いいって。ほら、あんたらもとっとと行きな。遅くなったら、食うもんなくなっちまうからね」
 気安い返事で答えたアクオも家路につこうとしたとき、サレオがフロニシを呼び止めた。
「——の麦がか——」
「——たい何故そん——」
 先に歩きだしたアクオの耳に、話は切れ切れにしか聞こえない。やがて追いついてきたフロニシは眉間に軽い皺を寄せるだけで、何も語らなかった。

 広い、けれど多い。
 賑やかな飯間を見回して、アクオはぽかんと口を半開きにしていた。
「こらエクテ、こぼすな」
「そっちの皿取って!」
「おおい、酒はどこだ」
「ああもう、ゆっくり食いなって」
「あんた、ちゃんと食べてんのかい」
 喧騒に圧倒されて手が止まっていたアクオは、正面のルテラに声をかけられたことにもなかなか気づけなかった。
「あ、はい、旨いですね」
「そんなことは分かってるから、もっとたくさん食いな」
 ぐいと大皿を押しつけられたアクオは苦笑して、温かい料理がすでに山盛りになっている己の皿をさらに重くするしかなかった。
「なんだいあんた、さっきからきょろきょろして」
「いやあ、こういう賑やかなのは初めてなもので」
「そうなのかい」
 親元に住んでいたときは四人で騒がしく食べていたが、三人に減ってしまうと皿より沈黙の方が重くなった。聞言術の修業中は、師のリオスと娘のラステ、兄弟子のテピュアと四人で、食器の音だけが聞こえる静かな食卓を囲む毎日。都のそれほど多くはない友も皆それぞれに忙しく、一時に集まるのはせいぜいが三人だった。
 だが飯間には、フロニシとルクトとエクテ、ルテラと夫のロポテスと娘のディアノ、サレオと息子のレイアデスがいる。呆けているアクオの他は、誰もが食事の手を動かしながら酒を飲みながら笑い、話していた。
 アクオにとって意外だったのは、食べるよりも飲む方の手を休めず豪快に大声を上げるロポテスと、いつもは言葉静かなフロニシがしきりに笑い合っていることだった。
「アクオ、こっち来いよ!」
 何人か離れたところからルクトが叫ぶ。呂律はすでに怪しい。はいはいと呟きながらずっしり重い皿と酒の杯を持って、アクオは手招きするルクトの後ろに腰を下ろした。
「こいつがレイな。こいつはアクオ」
 レイアデスは、座っていてもルクトより頭半分は高い。落ち着いた雰囲気を持つ、短い黒髪の男だった。サレオに似て大きな目は柔和で、口元には温かい笑みが浮かんでいる。だが挨拶をすると、それきり言葉は続かない。
「な、しゃべんないだろ。でもこいつ、すげえいいやつでさ——」
 それからのルクトは言葉が止まらなかった。
 幼い頃の己に飛びかかろうとした犬の前に立ちはだかったこと。川で溺れかけていた己を助けたこと。人の嫌がる務めも黙々とこなすこと。いつもフロニシと己の畑を手伝うこと。顔を赤らめて止めるレイアデスにも構わず、ずらずらと己が事のように語った。
 食事の手を休めず頷くだけのアクオだったが、レイアデスの人となりは話を聞いているうちにおぼろげながら見えていった。
 だがその後は、アクオがいたたまれなくなった。聞言師として当たり前だと思ってやったことが、ルクトの口を通して偉大なことのようにレイアデスに語られはじめ、アクオは耳を塞ぎたくなったのであった。
「なあレイ、今度一緒に〈山〉へ石を採りに行こうなあ……」
 ようやく口を閉じたルクトから、皿と杯をすかさず取りあげて床に寝かせると、アクオとレイアデスは呆れ顔を浮かべた。
「ほんとこいつは」
「寝てろよまったく」
 顔を見合わせた二人の、大きな笑い声が喧騒に溶けていった。

 ばん!
 唐突な音に、賑やかだった飯間がびくりと静まり返り、視線が残らず戸口に集まる。
「ああ、ここにいたか聞言師。手間を取らせてくれたな」
「え、おれですか?」
「何の用さ、ヌルゴス」
 サレオの低められた声が突き刺さっても、ヌルゴスは唇の片側をくいと上げてあしらう。
「村の世話役の務めを果たしている。お前は聞いていないのか。おおそうか、家でこれほど騒いでいれば知らなくとも当然か」
「何の用だと聞いている」
 表情が滑り落ちたサレオの顔に気圧され、アクオは言葉を継げなくなった。
 大仰に太い息を吐きだしたヌルゴスが、指を突きだす。
「聞言師、世話役の名の下にお前を捕らえる。フロニシとルクトも怪しい。三人は家に戻り、知らせを待て」
「ちょ——」
「何の話だい!」
 サレオが怒気を露わにしても、ヌルゴスは動じなかった。
「いいだろう、教えてやる。お前たちが馬鹿騒ぎをしている間に、〈山〉の、巫から、知らせが、届いた」
 逆撫でる口調にサレオが苛だって立ちあがるが、待てとフロニシに止められた。
「そこの聞言師は、漂陰がまだ残っている石を盗んだのだそうだ」
「はあ? おれはそんなことしてませんよ。するわけが——」
「お前の話は後で聞く。フロニシの家に今すぐ戻れ」
 サレオが大きな目を剥いたまま言葉を失っているのが、アクオには見えた。
「私の息子が書き付けを届けてきたのだから、間違いはない。そうだろう、パキュ」
 ヌルゴスの後ろから現れた横幅のある姿に、アクオは見覚えがあった。
 ——あれは帰りに森で擦れ違った……
「はい、食い物を届けたら巫が青い顔で渡してくれました。だから大急ぎで帰ってきたんです」
「ということだ。分かったら早く行け」
「え? あ、いや——」
「アクオ、帰ろう。サレオは話を聞いておいてくれ、それから、巫にはもう一度確かめるよう頼んでほしい。レイアデス、すまないがルクトを連れてきてくれないか。エクテは——」
「帰る。いっしょに帰る」
「お前はここにいろ」
「いやだ!」
 立ちあがって小さな拳を握り締めるエクテに、フロニシは太い息を吐いて手を差しだした。
「分かった、一緒に帰ろう。来い」
 アクオは訳が分からぬまま、レイアデスと二人でルクトに肩を貸しながら、薄ら寒い夜気の中に足を踏みだした。


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