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聞言師の出立 第2話(第1章 1)

 ちゅぴちゅぴちゅぴ…… 頭の上を不意に鳥が飛んでいった。
 若い農夫は、薄く雲のかかった広い空を見上げる。
 柔らかな青い風、羽のような白い雲、時折飛んでゆく鳥の黒い影。周りでは緑の麦穂がさわさわと音を立てている。
 伸びをして額に滲む汗を拭い、よし、と呟いて視線を下ろす——と、畑の向こうの下り坂に何か動くものが見えた。
 目を凝らしているうちに、ゆっくりと大きくなっていく。あれは、人だ。〈岩ノ口〉をくぐって、しばらくぶりに何者かがやって来たのだ。
 ごく稀に来る旅商人のような格好で、白っぽい大きな外套をまとい、頭巾を被っている。男か? 曳いているずんぐりした農馬の背には、大きな荷が左右に振り分けられているようだ。他に——人影はない。己の方に手を振りはじめたが、見覚えのない人間だ。
 それだけを確かめると農夫はおざなりに手を挙げ返し、務めに戻る振りをした。
 見知らぬ男は道なりに西へ曲がり、背を向けて遠ざかっていく。その姿を盗み見た農夫は、のんびりしている体を装って道から離れ、村を見下ろす位置に立てられた棒の先の縄をぐっと引っ張った。
 からからという鳴子の音で下の家から飛びだした小さな姿に、農夫は腕で西を指し示す。人影が勢いよく走りだして他の家に知らせに行くのを見ながら、農夫も村の方へ小走りに坂を下った。
 人を集めなければ。誰だ、あれは。

 道は畑に沿って西へ延び、ゆるやかな下り坂で一旦村から遠ざかるが、また東に向きを変えてようやく村にたどり着く。村のとば口にぽつんと離れて一軒だけ立つ小さな家の前で、訪問者は幾人もの村の者に出迎えられた。
 最初に旅人を見つけた農夫を始めがっしりした若い男たちが前に立ち、その肩越しにはもっと落ち着いた雰囲気の壮年あたりの男女が数人いる。髪は黒が多い。着ているものは長衣、短着、貫頭衣と皆まちまちで、だいたいがくすんだ色だった。剣呑な雰囲気こそないが、軽い緊張感が漂っている。
 さほど近づかずに馬の足を留めた訪問者に、耳飾りをつけた壮年の男がひとりずいと前に出て、柔らかな表情で口を開いた。
「客人は久しぶりですな。どちらからだろうか」
 旅人は厚手の薄汚れた外套の頭巾を下ろし、若い顔を見せた。
 少し垂れた眉と、意志の強さを感じさせる灰青の目。まだ稚気の抜けきらない素朴な顔立ちに不似合いな、がっしりした首。
 無造作に伸ばした枯草色の髪は、後ろで縛っている。
「これはどうも。古い盟約を果たしに都から参りました。聞言師もんごんしのアクオです」
「ほう、聞言師。何年ぶりだろう」
 よく通る高めの声で聞言師と名乗った若者は、外套を脱いで馬の背にかけ、埃まみれの白い短着をまとった細身の姿を見せた。小刀を差した革帯を腰に巻いているだけで、他に武器の類いは帯びていない。大きな荷からは細い金棒が覗いているが、身を守るためでもあろうと男は見当をつけた。
 アクオは人好きのする笑みを浮かべたまま、男が言葉を継ぐのを待っている。だがその視線はわずかに揺れ、口元には硬さがあった。
「では聞言師の印を」
 帯につけられた革箱から、アクオは片端だけが白銀の細長いものを取りだす。
「使ってみてもよろしいか」
 差しだされた深黒の細い棒を受けとり、男は手のひらに先端を軽く当てて横に引く。肉には白い筋だけがついて消えた。
「うん」
 男は棒を返した。すっと息を吸ってゆっくり吐いたアクオから再び棒を渡され、もう一度手のひらを擦る。
 くっきりと現れたのは、黒い線。
 男の顔には笑みが浮かんだ。
「確かに聞言筆もんごんひつだ。よく来てくれた、聞言師」

 がっしりした体格の黒い髪の男は、フロニシと名乗った。角張った精悍な顔立ちだが、アクオに向ける眼差しは温かい。
 他の年嵩としかさの者は、ひとしきりアクオに目を注ぐと去っていった。残された若い男たちはフロニシの指図に傍らの家の中へ入っていくが、焦茶の髪をした大柄の男ひとりだけが横に立ったままだ。
「私はこの村の世話役だ。他にも四人いるが、おいおい紹介しよう。何かあれば私に言ってくれ。よろしく頼む」
「世話役、ですか」
「うん、この村の面倒をみる役目だ。他のところでは村長むらおさとでも言うのだろうか」
「ああ、そうでしたか。こちらこそお世話になります」
「村にいる間はこの家に泊まってもらいたい。ただ、あの連中がときどき好き勝手に使っていてな、掃除をしなきゃならん。ほらルクト、お前も行け」
 フロニシは己より背の高い男に、顎で家を指す。若い男は茶色の細い目をいっそう細め、顎の張った武骨な顔を軽くしかめてアクオをちらりと見ると、面倒そうに身体を揺すりながら家の中に姿を消した。
「あれはルクト、私の息子だ。あれもこの家を勝手に使っている張本人だよ」
 顔貌かおかたちこそ目の前のフロニシと似てはいるが、どこか粗暴さすら感じさせる雰囲気を撒き散らしていた、己と同い年くらいの男。アクオは硬い笑みを浮かべることしかできなかった。
「この家には井戸もかまども不浄もある。食事は運ばせよう。風呂だが、この村には湯が湧くから後でルクトに案内させる。旅の埃を落としてくれ」
「聞きました。湯は楽しみにしていたんです」
 そうか、とフロニシがうれしそうに破顔する。
「まあ座って少し話そう」
 フロニシは家の中に向かって茶を出すよう言いつけると、軒先の縁台に腰をかけた。明るい陽差しに目を細めながら、道の脇の草をゆっくりと食む葦毛の馬を眺める。
「いい馬だ」
「旅の餞別にと師匠から」
「うん」
 やがて出された茶を飲みながら、フロニシは遠くを見つめる。
「〈山〉のかんなぎにはこれから使いが立つはずだ。向こうの都合にもよるが、数日は見ておいてくれ」
 フロニシの視線をアクオもたどる。畑があり、川が流れ、それを縁取るように森。さらに向こうには、黒いと言っていいほど濃い緑の山が鎮座している。高くはないが、ずしりと重みがある。山頂は平たく、あらゆるものを貪欲に吸いこもうと口を開ける巨魚を思わせた。
 ——あれが〈ふるキ火ノ山〉か。
 それこそがアクオの、南の果てのテリュク村を訪れるあらゆる聞言師の、目指すべき終着の地だった。
「申し訳ないがここにいる間、一人ではあまり村の中を歩きまわらない方がいいだろう。言ってくれればルクトが案内する。それから、頼み事が少しあるかもしれない。病を診るとかな」
 首肯しながらも、アクオはうっすらと不安の色を浮かべた。
「私は歓迎されていないのですか」
「いや、そういうわけではない。ただ、外から来た者をよく思わない連中がいるのも確かだ。こればかりは世話役にもどうしようもない。ゆるしてやってくれ」
「かまいません。物見遊山ではありませんから」
 口ではそう言いつつも、アクオは出そうになる溜め息を堪えていた。
 ——まあ、とっとと務めを片付けてとっとと都に帰れってことだな。
 アクオにもその訳は察しがついた。たまさか村を訪れ、すぐに華やかな都へ戻る己ら聞言師が、村に縛りつけられている人間にはどう見えるかなど、考えなくとも分かる。
 殊に、若い者から面白く思われなくても不思議はない。村の世話役の息子とは言え、案内役のルクトからもどういう態度をとられることか、と気が重くなった。
 それでも、新しい土地を訪れれば何か新しいことが必ず見つかる。聞言師を名乗ることを許されたばかりだが、これからあちこちへ旅することもあるだろう。見聞きしたことをまとめ、やがては己だけの見聞録を書く。数十日をかけてようやくたどり着いたテリュク村が、その手始めだ。
 そう思えば、多少ぞんざいな扱いを受けても耐えられるような気がした。
「それにしても——」
 フロニシが〈山〉を見上げながら、話の穂を継ぐ。
「アイオーニが巫になってから、もう二十五年は経つか」
 アクオは思わずフロニシの顔を見た。うっすらと傷跡が走る右の眉は、中央が欠けている。
「そんなに……」
「うん。先代の巫が突然力をなくしてしまって、巫の試し、、で選ばれたのが子供のアイオーニだった。私も同じくらいの歳でな、試しを受けたが力はなかった。選ばれるのは一人と——まあ決まっているからな。
 選ばれてから先代が何年か一緒に〈山〉に住んでやっていたが、その後はずっと独りだ。気難しいところもあるが、悪く思わないでやってくれ。
 あれは大変な務めだ、山を下りることもできない。巫は、力をなくすか寿命がくるかしない限り辞められないのだよ。まあ聞言師は何度も訪れているから、嫌な顔もすまいとは思うが」
 アクオは頷き、己を睥睨へいげいするような山影を再び見上げる。
 〈山〉は静かに佇んでいるように見えても、造物主の与えたもうた使命を休むことなく果たしているのだ。人が創られたときから人が滅びるその日まで、途方もない数の人間のために。そして巫も、その使命に仕えなければならない。逃げることなど赦されようはずもない。
 己は己の責を全うできるのだろうか。
 アクオは不安をかすかに感じた。

 掃除が終わった男たちは、くつを脱げよと嘲りのような大声と野卑な笑い声を上げて去っていった。呆れたように軽く首を振るフロニシの後からアクオも家の中に入ると、土間の向こうは板敷きになっていた。
 ——そうか、この村の家は外も中も、木なんだ。
 初めて見る造りをアクオが物珍しそうに眺めているうちに、フロニシは家の中をざっと見せ、また後で来ると言って姿を消した。
 アクオは、畑に近づいていた馬を慌てて家の裏手へ引っ張っていき、荷を降ろして井戸の水をやった。すぐ桶に顔を突っ込むその姿に、村人には見せなかった穏やかな笑みを浮かべながら、身体を撫でて長い旅路を労う。
 ——帰りも長いからな。今のうちに休んでおけよ。
 やがて水にも草にも満足したのか座りこんだ愛馬に、アクオも脚を投げだしてもたれかかった。空には羽毛のような白い雲が浮かび、草地を渡る爽やかな風がさらさらと音を立てている。
「いいところだな」
 長旅の間に身についた癖で馬に話しかけると、温かい身体が少しアクオに寄せられた。
「まあ、なんとかかんとか着いたよ、ルニス」
 腰の箱から出した小さな革袋を手に載せて、ぽつりとアクオは呟いた。

「あれ、寝てたのかい」
 女の声でアクオは起こされた。
 目の前にはフロニシほどの歳の大柄な女が、丸顔に笑みを湛えて立っている。
「長旅ご苦労さんだったね。飯を持ってきてやったから食べな」
「う、あ、ありがとうございます」
「これからも、あたしが飯を持ってくることになると思うよ。ルテラ。隣の家だからね、なんかあったら言ってきな」
 早口でそう言うと、ルテラは去っていった。
 アクオは漂う匂いに誘われるように家の中へ戻り、置かれていた食事に生唾を呑みこんだ。何枚も重ねられた麦の薄焼、山のように盛られた豆の煮物、乾酪、油果ゆっかの塩漬け。干肉まで付いている。煮物は冷めかけ、どれも都では口にしたことのない味がしたが、舌鼓を打ちながらすぐに平らげた。
 井戸の冷えた水で喉を潤すと、後は風呂だなと頬を緩めながらアクオは荷を解きはじめる。
 だが、床板のひやりとする滑やかな感触に抗うことはできなかった。
 二度目の安らかな夢の世界からアクオを引き戻したのは、開け放したままの戸口から飛びこんできた大声である。
「あ、あんた、薬、都の薬はないか!」
「はい、師匠!」
 勝手に出たのは、修業していたときと同じ返事。夜に聞言師の務めでよく起こされたせいで、アクオの身に染みついた言葉だった。
 ——あれ、ここどこだっけ?
「薬だ!」
 再び響いた男の声で頭の中から霞が消え失せ、アクオは立ちあがって目の前の男に視線を合わせた。
「病人はどんな具合だ」
「熱が下がらない。子供だ、薬が効かないんだ。都の薬を持ってないか」
「あることはあるけど、効くかどうかは分からない。一緒に行くよ」
「医術もできるのか?」
「診ることはできる。治せるかどうかは病次第だ」
 一瞬ぎゅっと眉根を寄せた若い男は、すぐに頷いた。
「じゃあ頼む、急いでくれ。俺の弟みたいなもんなんだ」
 アクオは床から薬をあるだけ掻き集め、数冊の本を選んで紙の束とまとめて布袋に入れる。腰の帯に付けられた革箱にも視線を落として手を当てると、夕焼けの中へ飛びだした。


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