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聞言師の出立 第4話(第1章 3)

 フロニシは、土間の手前にある飯間はんまでアクオに茶を出した。薄暗い灯りの中、炉を囲んで横にはルクトも胡座をかいている。
「改めて礼を言おう。エクテを助けてくれてありがとう」
「いえ」
 耳を赤くしたアクオは、背を丸めて俯いた。
 都でも病を診ること、〝紋〟を描くことはあったが、横には必ず師がいた。すべてを独りきりで果たしたのは初めてのことだ。だが強く感じるのは誇らしさではなく、面と向かって礼を言われる気恥ずかしさの方だった。
 横のルクトからも無遠慮な視線を感じ、顔を上げることはできなかった。
「ルクト、後でアクオを湯家ゆやに連れていってくれるか」
「ん、分かった」
「それからな、アクオが何故この村に来たかは知っているか」
「あ? いや知らねえな、そう言えば」
 フロニシはさもありなんとばかりに頷いて、うっすら笑みを浮かべた。
「そうだな、聞言師は都や町から来る人間だ、くらいしか若い連中は知らんかもしれないな」
「病を治すんだろ。すごかったな、あれ」
「うん、それもあるがな、この村へ来るのには訳がある」
「へえ?」
「村の年嵩の人間は知っていることだから、お前にもしっかり知っておいてほしい。今晩話すつもりだったが、聞言師の技を見た後ならちょうどいい。アクオ、私から言ってかまわんだろうか」
「……お任せします」
 何か恥ずかしいので、という言葉は呑みこんだ。
「うん。聞き飽きたこともあるだろうが、話は全部繋がっている。我慢して聞いてくれ」
 ルクトは殊勝な面持ちで頷いた。
「この村の使命は知っているだろう」
「ああ、〈山〉の巫の手助けをする」
「そうだな。では巫は何をしている」
「死んだ人をなぐさめている」
「うん、そうやって教えられているな。だがお前もそろそろ、耳飾りをつけてもおかしくない歳だ。もう詳しく知っていていい頃合いだろう」
 そう語るフロニシの耳元には、深黒の小さな玉が鈍く光っていた。

「あらゆる人間は死に、死ぬと次の生を受ける。その繰り返しだ。
 生きている人間にとって、なくてはならないものが欲だ。食べたい、寝たいという生き物としての欲もあれば、知りたい、認められたいという人としての欲もある。そういうものが、人間の振る舞いや考えに繋がっていく」
 フロニシは言葉を切ったが、曖昧に頷くルクトの眉間には皺が寄っている。
「うん、つまりな、飯が食いたい、人に好かれたいなどと思うのは、人間に欲があるからだ。何もかもが欲のせいというわけではもちろんないがな」
 今度は少し深く首肯するルクトに、フロニシは話を続けた。
「うん。それで、だ。人が死ぬと、その欲は身体から離れて残るのだ。そのときには誰のどんな欲というものではなくなっている。ただ、したい、欲しいというぼんやりした、だが強い力と言えば分かるだろうか。
 それを漂陰ひょういんと呼ぶ。そのままだと漂陰は生きている人に取り憑く。取り憑いてその人間を歪めてしまう。まあ、そうは言っても、大したことが起こるわけではない。少し欲が強くなるくらいのものだろう。
 ところが取り憑かれた人間が死ぬと、また漂陰が残る。今度はもう少し大きくて強い。それにまた誰かが取り憑かれて、死に、もっと大きくて強い漂陰が残る。そうやって、漂陰は力を蓄えていく。やがて漂陰は自分の意思を持って、言葉も話せるようになると言われている。
 そして最後には、取り憑いた人間を思いのままに操れるようになる」
 ルクトが喉をごくりと鳴らした。
「……そしたらどうなるんだよ」
「その漂陰は己の欲望のままに振る舞う。あれがしたいこれが欲しい、ではない。目につくものすべてを自分のものにしなければ気が済まない。目につく人すべてを自分の思い通りにしなければ満足できない。そのためにはどんなことでもする。文字通り、どんなことでも、だ。
 何もかも壊そうとするかもしれない。何もかも征服しようとするかもしれない。言い伝えでは、数えきれない人が殺されたことも、国が乗っ取られたこともある。
 そうやって身体を得たものを、漂陰ノ者と呼ぶ」
 おぞましいものでも見たかのように、ルクトの陽に灼けた顔が歪んだ。
「そこで、だ」
 フロニシは南を指差した。
「造物主はその様子を憂えて、あの〈山〉を創りたもうた。漂陰を集めるための場所だ」
「……〈山〉が?」
「そうだ。都の向こうからこっちに住む人間が死ぬと、あそこに漂陰が集まる。集められる、と言った方がいいか。その漂陰を鎮めて、空に還すための役目が巫だ。この村の人間は、そのための力を巫に渡すことが務めなのだよ」
「それって、月がないときのあれか?」
「そう、その通りだ。新月のときに、耳飾りをつけた村の人間が集まって〈山〉に祈りを捧げているだろう? 巫はその祈りを受けとって、漂陰を鎮めている。まあ、普段も鎮めてはいるがな、新月のときは鎮めの力が増すわけだ」
 村ではそういうことをしていたのかと、アクオは灰青の目を軽く見張った。
「死ぬとはどういうことか、漂陰とはどういうものか、人にとって善きこととは何か。それが分かる歳になると、〈山〉で抜け殻になった漂陰の石を採って、耳飾りを自分で作る。自分への戒めのために。それがこの村で大人になった証だ」
「戒め……」
 聞言師が〈山〉の方角を向いて呟く。フロニシは軽く頷き、息子に話を続けた。
「アクオもそれを採りに来たのだよ。お前が行くのは耳飾りを作るため、アクオは筆、聞言筆を作るために」
「え? お前の筆ってその漂陰の石とかっていうやつなのか」
「うん」
「それなんなんだ。漂陰が石になるのか」
 フロニシはアクオに頷いて先を促した。
「そう。漂陰は〈旧キ火ノ山〉——〈山〉に集まる。〈山〉の口から吸いこまれるんだ。ささいな漂陰は〈山〉の力で鎮められるけど、強いのは他の漂陰を集めて石を作って、〈山〉の口の周りに出てくる。黒い石だ。それが漂陰の石だよ」
 アクオはフロニシを横目で見て、うまく語れていることを確かめる。
「それを巫や聞言師が鎮めると、中の漂陰は消えるけど外の石は残る。聞言師は、その空になった石に筆先と筆尻をつけて聞言筆にするんだ。漂陰の石は人とつながりやすいから、身体の中の〝声〟が聞けるようになるんだよ。筆は〝声〟を吸いとって黒い液にする。聞言師はそれを文字にする。この村の昔の人が見つけた聞言術もんごんじゅつのやり方なんだ」
「へえ。だからここまで来たのか」
 フロニシは聞言師の顔を覗きこみ、言葉が続かないのを見ると小さく笑った。
「アクオが言ったことはその通りだ。だが、他にも聞言師には大切な責があるだろう? さっきのように病を治す務めではないものが。でもそうだな、私から言う方がいいかもしれないな」
 確かに楽しい話ではない。アクオはその言葉に甘えることにした。
「死ぬ人間が多いのはどこか分かるか」
「そりゃ人の多いとこだろ」
「うん。もっとはっきり言えば都や町だな。そこから集まる漂陰が少なくなれば、巫もこの村も助かる。多ければ、新月のときに祈るくらいでは済まない。畑を耕すどころではなくなるだろうな」
「うえっ、そうなのか」
「だから昔々、この村から都へ行った人たちがいた。都で死ぬ人間の漂陰を減らそうと思ってな。それが聞言師の始まりだよ。そうやって技を磨いて、学びたいと思う都の人間に教えて、今では聞言師があちこちの大きな町にもいる。もちろんリメンの町にもな」
「ええ? 聞言師ってそんなこともするのか?」
「……うん、まあね」
「聞言師はな、死にゆく人のところに行って、漂陰になるはずの欲をあの筆で吸いだす。文字にして書きだすためにな。そうやって書きだすことが、漂陰を鎮めることになる。そうだったな?」
「はい」
 ルクトが角張った顔を歪めた。
「……お前、そんなこともしてんのか」
「まあ務めだからね」
「そういうことだ、ルクト。聞言師として認められると、男だったらこの村に来て、漂陰を鎮める手伝いをする。そして抜け殻の石を持ち帰って筆を作り、人の多い都や町で、ここに来る漂陰を減らす。それがこの村と聞言師の古い古い盟約だ。
 この村の人間は重い責を背負っている。だが、聞言師も同じように——いやそれ以上か、それだけが務めではないからな。病を治すこともあるし、他にもいろいろあるだろう。
 だからなルクト。お前はアクオの味方になってやってくれ。都に帰れていいよなと、羨ましがらないでやってくれないか」
 ルクトはがっしりした身体を丸めて俯いた。
「……ごめん。そう思ってた、俺。そんなすごいやつだったなんて知らなかった」
「す——」
「そういうこと言うやつがいたら、俺がぶっ飛ばしてやる」
「すごくないって! 務めなんだって!」
 慌てるアクオに、フロニシが顔を伏せて肩を震わせる。やがて、涙を拭きながら言った。
「まあこんなやつだが友達になってやってくれ、アクオ。ああそれから、荷をまとめてここに移ってこないか」
「え?」
「エクテを助けてくれた恩人だ。大したことはできないがこの家でもてなしたい。どうだ」
「おう、そうしろ! 俺の部屋に来いよ!」
「何を言っている、部屋が一つ空いているだろう。お前の図体じゃ狭くて仕方ない」
 端に寝る、駄目だとやり合う二人に、アクオはあてがわれた小さな家に一人でいる方が気楽でいいとは言いだせなかった。
「それにあの家にいれば、こういう若い連中の酒飲みに付き合わされるぞ。酒が好きで好きで仕方ないというなら止めないが」
 にやりと口元を上げたフロニシに、アクオの肚もようやく決まった。


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