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聞言師の出立 第30話(第6章 3)

 アクオらが村に帰り着く頃には、すでに空が赤らんでいた。
 ルクトやエクテと久しぶりの湯家へ行ったアクオは、面映ゆさを味わわされた。夕食の時間なのか、ほとんどの男たちが帰り支度をしており、皆から畑の枯れ麦を治したことを荒々しく感謝されたのである。
 礼を言われただけではない。身体のあちこちをさんざん叩かれ、背にくっきりとついた赤い手形をルクトにもエクテにも笑われることになった。
 少年たちにも、脇腹を覆った白い傷跡を物珍しそうに触られ、くすぐったさを我慢しなければならなかった。中には、よくやったと妙に低い声をかける、エクテほどの歳の子供もいた。
 ようやく感謝の嵐が収まった後、大きく外へ開かれた窓越しに湯桁から夜空を見ながら、アクオは〈山〉からの帰路のことを思いだしていた。
 あっさり採れた空の漂陰の石をレイアデスと見せ合っていたルクトが、フロニシに不思議そうに訊ねたときのことだった。
「……なあ、俺なんか変わったのかな」
「ん?」
「だってさ、前に来たときは石に漂陰が残っているかどうかなんて、分からなかっただろ。あれから何日も経ってないのに、今日はすぐ分かった。何が違うんだよ」
「……あれからいろいろあったからな」
「まあそうだけど」
「石の漂陰を感じとれるとは、人の欲がどういうものか少しは分かるということだ。私はそう思っている。お前は辛い思いをした。人が人にどんなことをできてしまえるかを見た。だからじゃないか」
「……ふうん」
「難しいことじゃない。お前はお前のままでいいということだ」
「なおさら分かんねえよ」
 嫌がられながらも、己より背の高いルクトの頭をやさしく叩くフロニシを見ているうちに、ふとアクオは気づいたのである。
 ——なんでおれは漂陰の石が空かどうか分かるのに、筆の中に漂陰が棲んでいることは分からなかったんだろう。
 空の漂陰の石からできる聞言筆。作り方は、石を持ち帰ったときにようやく師から教えられることになっている。
 ——何か秘密があるんだろうか。
 それだけではない。
 漂陰を集めすぎると、石は砕ける。ならば、漂陰を吸いとり続けた筆もいずれは壊れるのか。中から漂陰が、ひょっとしたら漂陰ノ者すら現れることになってしまうのか。だからこそ、遣い古しの筆の軸を〈山〉に還す習わしがあるのではないだろうか。
 ペティアと己の筆をどうするか。失われた〝紋〟を知る手立ては他にないか。
 そして何よりも、双子のアイオーニの末路を師に伝えた方がいいのか。
 考えるべきこと、知るべきことには事欠かない。
 ——修業のときより難しいことばっかりだ……
 それでも、アクオにはもう決めていることがあった。
 アイオーニがリオスを怨んでいたことは、誰にも言わない。己の師リオスの名も、村にいる限り口にしない。
 巫が最期に呟いたのが、本当にリオスの名だったかどうかを確かめる術はない。フロニシとサレオが、リオスを覚えているかどうか、〈山〉の口でその名を聞いたかどうかも分からない。だがいずれにせよ、当のリオスが、テリュク村へ旅立つ己に何も語らなかったのだ。
 アイオーニは巫を辞めたかった。巫になれと強いられたことを怨んでいた。
 少なくとも、アイオーニは自らの口でそう言った。フロニシとサレオも、そういう訳なのだろうとおそらくは思っている。
 ならば、それでいいではないか。
 明かしたところで誰かが喜ぶわけではない。己の胸のうちに仕舞ったまま墓まで持っていけばいい——アクオにはその覚悟ができていた。
「おい、のぼせるぞ」
 洗い場から湯桁に入ってきたルクトが、アクオに声をかけた。
「ああ、うん。考えごとしてたよ」
 アクオは湯桁の縁に腰をかけて、窓の外に目をやった。
「湯気ごしに月が見えるっていうのも、いいんだろうなあ」
「おう、いい眺めだぞ」
 ——アイオーニも子供のときは、ここから月を見ていたんだろうか。
「〈山〉から月を見たら、どんな感じなんだろうな」
「え?」
 己の考えていることが読まれたような気がして、アクオは思わずルクトを振り向いた。
「俺ら、〈山〉から月は見てねえだろ。星がすごかったから、月もすごいのかな」
「……かもな」
「でも——」
 ルクトは周りを見回した。湯家の中はいつの間にか三人だけになっている。
「月や星がいくらすごくても、俺はあんなところに独りでいるのは嫌だ」
 アクオは友の細い目と視線を合わせた。
「……俺さ、さっき帰り道で親父に聞いたんだ」
 再びルクトは、ふいと窓の外に顔を向ける。
「俺が巫に選ばれたらどうするって」
 あ、とアクオは口を開き、その武骨な横顔をまじまじと見た。
 ルクト、フロニシ、エクテ、サレオ……。己の親しい者も、いつかは巫に選ばれるかもしれない。テリュク村に住むとはそういうことなのだ。
 それを考えてもみなかった己に、アクオは激しい苛立ちを覚えた。
「俺は嫌だって言ったらさ……親父、言ったんだ。
 お前が選べって。お前の人生はお前のものだから、好きにすればいいって」
 薄暗い灯火で時折煌めく湯に、ルクトは視線を落とす。
「……言うか、そんなこと。世話役だぞ。世話役の息子がもし巫に選ばれて、村から逃げだしたってなったら……」
 都暮らしのアクオにも、フロニシがどういう目に遭うかは想像がついた。
「うらやましいな」
 ルクトははっとアクオを見上げ、俯くと湯の中に顔を沈めた。

 三人で欠伸を洩らしながら、湯家を出たときだった。
 世話役の部屋へ続く戸を荒々しく開けて、フロニシがちょうど姿を現した。
「アクオ!」
 血相を変えたその顔に、アクオの胸がぞくりと騒いだ。
 ルクトとエクテを先に帰したフロニシが、アクオの耳元で囁く。
「術を頼む。急いで道具を取ってきてくれ。私はここで待っている」
 何も訊かずにアクオは走りだし、ルクトとエクテを追い抜いて家へ急いだ。
 聞言筆、紙と板、数冊の本。それだけを袋に入れて、世話役の部屋に駆けつけたアクオを待ち受けていたのは、呆然としたように座りこむ三人の世話役。
 そして、床の上で身体を痙攣させているエーピオであった。
「どうしたんですか!」
「毒だ」
「ど……」
「もう……助からない」
 唇を噛み締めるフロニシに、アクオが顔を歪ませて叫ぶ。
「吐かせましたか!」
「したけど、こういう風になったらもう遅いんだよ」
 静かな声を出すサレオは、己が苦しいかのように深い皺を眉間に刻んでいる。
「青黒草の種なんだ」
 愕然として立ち尽くすアクオの耳が、ふとかすかな音を捉えた。
「お……ねがい」
 掠れきったエーピオの声。
 薄暗い灯火の下でも蒼白と化した、かつては威厳を帯びていた顔。
 時折びくりとのたうつ身体——
 聞言師は、己に求められているところを知った。
 すっと息を吸うと腰を下ろし、手際よく用意を始める。
 黒い板の上に紙を置く。
 聞言筆を手に取り、目を閉じて深く呼吸する。
 指先の〝堰〟を抜いて、筆液を出す。
 〝篩〟を作らずに、目を開いて紙に筆先を下ろす。
 黒い線や点が、白い紙の上に形作ってゆく文字。
 いくつもの古の言葉が徐々に集まり、生みだされる歪んだ形。
 白い隙間を空けてあらぬところに書きだされる、何ともつかない黒い塊。
 描かれた断片が徐々に浮かびあがらせていく、描かれていない全姿。
 聞言師の手元に見入る世話役にも分かった。
 その〝紋〟は——月。
 聞言師は革箱に筆の先を入れて中の液を出しきると、顔を上げて静かに訊ねる。
「ご家族は」
「独り者だよ」
 静かに頷くと、世話役一人ひとりと目を合わせる。
 カーイコン、サレオ、フロニシ。誰もがそっと目を伏せた。
「胸元を開けてください」
 痙攣は間遠になっている。
 わずかしか上下しなくなった胸に、聞言師はそっと〝紋〟と筆を置いた。
 ぽつり。
 〝紋〟の黒い形がひとつ、赤く光る。
 もうひとつ、さらにひとつと広がっていく光。
 すべての文字の塊が赤くなった途端、眩い輝きが放たれた。
 きゅっと鳴る聞言筆、ほうっとエーピオの口から洩れる小さな吐息。
 うっすらと開けられた唇が、わずかに動く。
「エク……テご……め——」
 それが、エーピオの最期の言葉であった。

 エーピオの〝声〟、漂陰となったはずの欲をいつも通り紙に書きだすと、聞言師は視線を落としたまま呟いた。
「……何があったか訊いてもいいですか」
 目を閉じたエーピオを見つめながら、フロニシが静かな声を出す。
「私たちはここに集まった。エーピオは隠しから何かを取りだして呑んだ。苦しみはじめて、私たちはようやくそれが毒だと気づいた」
「口から間違えようのない匂いがした」
「急いで吐かせたけど、身体がびくびくし始めたらもう……」
 聞言師は軽く頷くと、筆と板をそっと手に取って立ちあがった。
「アクオ」
 部屋を出ようとした聞言師の背に、カーイコンが嗄れた声をかける。
「ここであったことは——」
「誰にも言いません」
「……頼む」
 目顔で答えた聞言師は、世話役の部屋を去った。

 聞言師となることを目指す者は誰しも、人の死を目にする。
 人に速やかな死をもたらすことは、聞言師の務めである。
 アクオも修業では、師に連れられて死にゆく人の元へ何度も赴いた。遺された者が哀しみ、大声を上げ、微笑み、ほっとした表情を浮かべ、ときには心の底から悦ぶのを何度も目にしてきた。
 だが、知り合いの死に立ち会ったことはない。
 月の〝紋〟を遣って知り人に死をもたらしたことは、ただの一度もなかった。
 それほど親しいわけではなくとも、長い付き合いではなくとも、つい昨日会って言葉を交わした者に〝紋〟を遣うことができるか。
 湯家へ行く前にそう訊かれたなら考えこんだであろうアクオは、師に厳しく教えられた通りに、聞言師として為すべきことを為した。師のリオスがいれば、満足そうに頷いたはずの務めを果たした。
 アクオ自身もそう思った。

 足は家路をたどる。
 フロニシの家が見え、だが通り過ぎる。
 やがて見えてきた、ルテラやサレオたちの家の前でも止まらない。
 村のとば口にある小さな家を過ぎると、足早になる。
 何日か前に下ってきた緩やかな坂道に差しかかったところで、足を取られて無様に転ぶ。
 ようやく、アクオの胸から溢れそうになっていたものが迸りでた。
 煌めく星だけが聞いた、獣のごとき咆哮であった。


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