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6月3日。

父がくれた言葉
最後にくれた手紙に書いてあった
「動中静 静中動」
他の文章は忘れてしまったけど、
この言葉だけは ふ とした時に思い出す。

後で調べたら、本当にその言葉に近いものが古い書の中に存在していて。本が好きだった父らしい。そんな風に、ほんの少し嬉しくなったりもした。

2002年の、いつだったろう
父の命日がこの年の5月4日だったから、3月か4月あたりかな。

母から渡されて、読み始めた瞬間を映像と共に覚えている。

私の誕生日を祝う言葉が最初にあったけど、その日付は私の誕生日の1日前になっていて、それを見て心底うんざりしたような気持ちと、なんとなくこの人はもうながくないのかなぁ、という最期を感じた。

それともうひとつこの時に似た気持ち、という点で思い出したのは小学生の頃。
近所のおじいちゃんが、学校に誰か私と文通してくれませんか?と呼び掛けた事があった。
生徒達に、そのおじいちゃんとの個人的な文通を促したのだ。
私はその頃既に、文章を書くことが好きでワクワクしながら手紙を書いたのを覚えている。
もしかしたら、先生から言われたその日に学校から帰り書いたかもしれない。
案の定、全校生徒の中で一番最初におじいちゃんに手紙を書いたのは、私だった。
それは週に1回程度開かれる全校集会で発表されたのだ。
次第に他の生徒も手紙を書くようになり、次々に文通を始めた生徒の名前が発表された。
どのくらいの期間文通していたかは記憶にないが、昔から飽きっぽい性格の私は次第に手紙を書くペースも落ちていき、暫く振りに書いた手紙の返事に書かれた自分の名前の漢字が間違っている事に気づいた。
小学校4.5年生の子供と、70歳を越えたおじいちゃんとがそんなに話が弾むはずもなく、何となく毎回届く手紙の内容が同じような事につまらないなぁ、と感じていた矢先のこと。
その間違った名前を見て、皆と文通しているから分からなくなっちゃったのかな?と思うよりも先に、あ、手紙を全然書いてないから嫌がらせにわざと名前を間違えて書いてきたんだ、と子供ながらに思ったのだ。
大人なら、届いた手紙の差出人をちゃんと確認して、間違いがないように書くだろう。私ならそうする!と、ちょっと生意気な事を思ったりもした。
そしておそらく、その間違いに無くなりかけていたやる気がさらに無くなり、そのまま訂正することもなく文通をやめてしまった(ような気がする)。
そうそう、その後に暫くしてそのおじいちゃんから手紙がきた様な記憶がある。
たしか、名前が正しく書かれていたのではなかったか。
それを見て、とても複雑な気持ちになりやっぱりわざとだったのか、でも返事を書かなくて申し訳なかったな、などと色々子供ながらに思い、そのままにしてしまったことを後悔した。

誕生日を間違えて書いてきた父にも、正直嫌がらせではないか、という気持ちがあった。
会わなくなって4年弱経っていたが、逃げるように家を出てきた私たちを父はずっと探していた。
手紙をくれる前に遂に家を突き止め、暴れ、叫び、警察沙汰になっていたし、少し前に母に対しては接近禁止命令が出ていた。
そうされて当たり前の事を父は私たちにしてきたけど、本人はどう思っていたか、きっと私たちを憎んでいる、とそう私は思っていたからだ。
それに、病気のことも聞いていたし手紙の字が弱々しく力が入っていないような印象があったことで、彼の最期を感じ、病気で正常ではないのかもしれない、と思ったのかもしれない。
嫌がらせと思ったことも、正常ではないと思ったこともそれはどこかで認めたくなかったのかもしれない。
まさか、自分の親が子供の誕生日を間違えるなんて、どんなに酷い父親だったとしても、最後くらい私を愛していたと思いたかったのかもしれない。


あたり前のことが時として、あたり前に機能していないのが『現実』なんだと、小さい頃に悟った。

普通に人の家に有るものが、うちにはないと知ったからだ。

それが、愛情とか安らぎとかそんな目に見えにくいものよりもっと、「誰の家にも必ずあるから。」と学校の先生が言っていた物がうちの家には無かったとか、そんな現実を突き付けられた様なあまりにも小さなことだったけど。

時として誰かの、他意のない言葉ほど人を傷つけるものはない。うちには確かに欠けているものばかりだった。

殴られても殴られても、そこに居ることしかできない。ただそこで、生きているだけの。暗い暗い時間の中で。

それでも、時には光をみて。父を好きだと、錯覚した瞬間があった。


今思い返せば残酷だけど、父との思い出のがもしかしたら、母との思い出より深いかもしれない。


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