僕の人生は誰かの人生の劣化版? 劣等感を退治する
僕らは劣等感をよく感じる。
どんなに仕事が上手くいっていようが、どんなに好きなことをしていようが、ふとした瞬間
なんか俺の人生って誰かの人生の劣化版なんじゃないか??
という考えが頭を満たしてしまう。
オンリーワンという言葉は幻想で、実際は誰か凄い人の人生のある一部を体験しているだけのショボい人生
そして、
その凄い人も同じようなことをきっと考えていて、
僕は誰かの劣化版の劣化版の劣化版の人生くらいなんだろうなって悲しくなる。
僕はもっと外と上手くやりたい。
周りの人や物に穏やかで刺激的で前向きな感情を抱きたい。
書き出してみたけど、、
こういう考えは誰かと出会うたびに感じる。
大学入学、内定式などなど、素晴らしい人に出会えることには感謝したいけどあまりにも辛い。
僕の人生って実はめちゃめちゃ退屈なんじゃないのか、と。
なんで君たちはそんなに楽しそうなの?
なんで僕はこんなに辛いの?
隣の芝生や花は青過ぎるし、赤過ぎる。
それはたしかにそうだ。
主観的にそう見えるだけで数値で見る客観的に冷静に見たら大して変わらない。
〈隣の芝生〉理論はもっともだ。
僕もずっと劣等感を感じているわけじゃないし、楽しい人生だなと思う時もある。
この前飲みに行った友人に、羨望と劣等感を感じた。
この時考えてみた。
〈隣の芝生〉理論に照らし合わせると客観的に見たら、解消されるのではないかと。
羨ましいのは彼のやっている(やった)こと。
それを書き出してみて、自分のやっている(やった)ことと比較してみた。
友人:留学、フィールドワーク、ライブ参戦、文化人類学
自分:野球、謎解き、山登り、生物物理学、ウイスキー
あまり変わらない。
というかこれをみて相手のがめっちゃ羨ましいとは思えなかった。
でも劣等感は消えなかった。
外と上手くやるには外に目を向けるな
何が原因なんだろう。
僕は喋ったか、見た人にしか劣等感を感じない。
今まで感じたことのある人のことを思い出すと共通点があることに気がついた。
顔の鮮度だ。
何かに腐らされることなく自分の思い通りに人生を生きている顔だ。
彼らはきっと自分が本当にしたいことを知っているのだろう。
それは外との繋がりで見えてくるものじゃないと思う。
外を見て知る自分の価値観は、作られた価値観だ。
外側が作り出す楽しいを自分の価値観だと錯覚させられているのだ。
こういう旅行楽しいでしょ!とcmで人気俳優が演じる。
見た人は自分もやりたい!から自分がしたい楽しさなんだ!と変わっていく。
おい、多様性はどこへ行った。みんなが同じ楽しさを真に意味で共有できるわけないだろう。
使い古された「楽しい」で鮮度が保たれるわけがない。
僕が劣等感を感じた人たちは、自分のことしか考えていなかった。
自分の人生は自分のものでしかないことに気づいていたのだ。
彼らの顔は本当にイキイキしていたのだ。
僕は思い知った。
まずは自分のことばかり見よう。
外と上手くやるには内を見ることが必要なんだ。
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