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【短編小説】ジョーカーチャンス、ジョーカーダンス【一話完結】

 東京の北側には、あやしい風が吹いている。新宿より先に進むと、いつも謎めいた風が吹いている。その辺りで風が吹いても、町は音を立てない。世界は静かに人を見下ろし、蔑如するかのように空が濁る。その救いようのない雰囲気が、大西からすれば酷く暗澹たるものに思えた。

 風が止み、埼玉に入った。列車は不愉快な轟音を響かせながら岩槻の住宅街をずっと奥に進む。すぐ隣に寄り添う女の顔色を窺いながら。大西は、震える喉を正して言った。

「それで、君のオヤジさんってのは、本当にただの公務員なんだよな?」

「ええ、そうよ。公務員。市役所の職員なんだけど、どこの課で何をしているかまでは、聞いてないの」

「いやー、しかしね? 私の記憶が正しければね? 出会った頃の君は、社長令嬢って話だったと思うんだがね? まあ、それはこの私の気を引くための脚色か。謂わば盛り付け。味付け。塩にこしょうにごま油だったとして、それからまたしばらくして訊いた時は、弁護士っつってなかったか? まったく、君がいつも調子の良いことばかり囀るもんだからさ、頭ん中が、コンフュージョンって感じなんだよねえ」

「転職したのよ」

「はあ、そうかい」 

 話が渋滞していることは、この際だからもうどうでもよかった。ただ、聞き心地のよい声が、肩の凝りを少しだけ楽にしてくれた。少しの気慰みになっただけで、良しとする。しかし、彼女の家が近づくにつれて、その痛みは再発し、ついに首まで回らなくなった。アスファルトの臭いが立ちこめて、吐き気を催す。昨夜の雨に濡れた苔と、側溝に捨てられた犬の糞が、さらに追撃をかける。二時間前につけたシトラスの香りは、汗で流されて生臭さに置き換わっていた。

 寂れたバス停の少し手前を折れて、路地を進む。曲がりくねった細い道が続き、やがて女が言った。

「ここよ」

 古ぼけたアパートだった。外壁に張られたベニヤ板が、ほとんど朽ちかけている。大西が住む家賃六万の部屋よりも狭そうだ。日当たりもよくないようで、陰気な空気が立ち込めている。玄関の脇には洗濯機が置かれているが、泥まみれになっていて、直近で利用された形跡はない。まさか、利用されていては困る。

 インターホンを押しても、音は鳴らない。右横の彼女に目を遣ると、少しだけ顔を綻ばせ、それは壊れているとだけ呟いた。

 仕方なく、ドアを直接ノックする。しばらく待つが、応答はない。ノブを捻ってみると、あっさりとドアが開いた。拍子抜けして、中を覗き込むが、声を上げる勇気はない。まさか、からかっている訳でもあるまいと思い、彼女の方をまた見てみるが、顔を綻ばせる訳でもなくじっとこちらを見据えている。どこか緊張を感じるその面持ちから、質の悪いからかいという唯一の希望が潰えた。大西は、もう覚悟を決めるほかなかった。

「すんませーん。オヤジさん、いらっしゃいますかーい?」

 暗い通路に瞳を凝らすが、人がいる気配なぞ微塵も感じない。それもそのはず、その刹那に現出した大男は、六十手前にしてUFCファイターに混じってもさほど違和感のない背格好。服はくたびれているが、肉は引き締まっていて、攻撃を繰り出しやすい前重心。あれはきっと癖がついているのだろう。仮に、格闘技経験者だとすれば好戦的なファイタータイプに違いない。あまつさえ夏の薄着が、その尋常ではない戦闘力を、全身に浮かび上がらせていた。 汗にまみれたシャツの袖を可愛らしくつまむ彼女と、目前の大男を交互に見る。とても親子とは思えない。母親が華奢だとして、それでもなお遺伝子の辻褄が合わない。大西は、君といるといつもコンフュージョンだよと、胸中でそっと吐き捨てたのち、ぐっと襟を正して見せた。

 男はこちらの反応を見ていた。そして、無精髭の生えた口元に粗野な笑みを浮かべると、しゃがれた声で言った。

「よく来たな兄ちゃん。ほら、あがってこんかい。そうすりゃ、話くれえ聞いてやる」

 大西は、もう腹を括る他なかった。自分は、こんなバケモノと勝負をするのかと思うと、逃げ出したくもなった。それでも、ぐっと脇を締めて前に進む。

 居間は、思いのほかこぢんまりとした和室で、清潔な印象を受けた。妻を亡くした初老の暮らしには、些か不似合いだが、この手の曲者はある一定のこだわりを持っていることが多く、その心理が部屋に反映されていると思えば、納得もできた。で、大男もとい、彼女のオヤジと向き合い、こちらは二人横に並ぶ形で顔を合わせ、座った。与太話をする気にもならず、本題から切り出した。

「私、大西友和と申します。えー、よろしくどうぞ。それで、オヤジさん。麻利亜さんから聞いているかもしれませんが、えーとですね、この度ですね、私と彼女は、婚約というものをさせていただきまして、そのご報告に参りまして」

「ああ、聞いとるぞ。ところで兄ちゃん、あんたいくつや」

「三十五です」

「ほーん、そうかいな。まあ、麻利亜もええ年やからな。いつまでも独り身っちゅうのもな?」

「はい、そうですね」

「しっかしまあ、兄ちゃんの面は、ちと娘には似合わんのじゃないか? 歳が行き過ぎているってことはないが、にしてもな、もっと二枚目の男が、過去には何度も会いに来たからのお?」

 まったく、老獪不適な笑みだった。言われてみれば、大西は彼女の過去をよく知らない。何かと調子の良い彼女の口笛に、翻弄されてばかりいたのだ。しかし、彼女ほどの美人ならば、自分よりも遙かに魅力的な男達との経験も豊富であることは想像に難くない。だとしても、だ。だとしても、自分が引く理由にはなり得ない。

 依然として沈黙を貫く彼女を見遣ると、そっと目を逸らされた。薄紅に染まった頬に、大西は若干の苛立ちを覚えた。そしてこのむず痒い沈黙を割くように、少々強引ではあるものの、大西は言い放ってやったのだ。

「そんなことは、私にはどうだっていい。あんたも、回りくどい事は嫌いなクチでしょ? だったら白黒つけましょう。探り合いはなしです。直感で構わない。私は、麻利亜さんと籍を入れるつもりです。此度のお話、受け入れてくれやしませんか?」

 遠くの空の色が、紫に染められた。隙間風がドブの臭いを連れてくる。刹那、ついにオヤジが激昂した。

「馬鹿たれい! 殺したろうか!」

 そう叫び、拳を振り上げた。しかし、大西はこれを読んでいた。懐から小さなダガーナイフを取り出し、卓上にそっと置く。オヤジはすんでの所で拳を戻し、そのナイフに目を落とす。隣の麻利亜も、同じように目を落とす。そして大西は、二人同時に懐柔しようと試みた。大きく息を吐き、努めて穏やかな口調で言う。

「今から十を数えたのち、麻利亜さんを刺し殺します。そして、私も死にます。そうすりゃ、二人の世界は永遠だ。物語は、ハッピーエンドって訳でございます。しかし、あんたにとってはそうじゃない。だから、カウントが終わるまで、私はそこのナイフには指一本触れないと約束しますよ。カウントが終わるまでに、私を刺せばいい。それだけのことだ。しかし、こんな田舎町でも治外法権じゃあない。私を刺せば、あんたはその歳でブタ箱行きだ。言っておきますがね、中途半端に動きを止めようなんて思わないように。この命ある限り、ゲームを放棄した罰は必ず受けてもらいます」

「なにを言っとるんだ、お前は……もう喋るな! 帰れ!」

「いいや、帰らないね。誰も勝負からは逃げられない。そう、もう逃げられないんだ。私も、あんたも。さ、ほら、始めますよ。十、九、八……」

 オヤジは、舌打ちをして麻利亜を睨みつけた。しかし、麻利亜は強張った笑みを浮かべつつ、大西から目を外さない。さすがだ。今さらながらに彼女を誇らしく思う。そして何より、やはりこの女が好きだと気づくのだった。その愛が、ただの幻想でないことを確信した。

「七、六、五……」

 と続くカウントが、鈍色の空気を震わせる中、ついに四まで来たところでオヤジが立ち上がった。そのままの勢いで卓をひっくり返し、大西の胸ぐらを掴み上げると、強く締め、さらに怒号を上げる。

「ええい! いい加減にせんか! 小僧! 本当に殺されたいか!」

 ナイフを掴み取り、その刃先を向ける。麻利亜はハッと息を呑み、口を押さえた。大西は、それでもオヤジの目を見据え続けた。

「そんなに嫌ですか? 娘さんを私に取られることが。だがしかし、カウントを辞める訳にはいきませんな。四……三……二……」

「何を、この!」

 ついに、銀色の刃が大西の頬に触れた。この期に及んで、彼はカウントを続行した。その目に、狂いなど微塵もありはしない。ただ、麻利亜への愛を確かめるように、カウントを続けた。

「イチ!」

 言うと同時に、ベルトに隠したもうひとつのナイフを、オヤジの腹部に突き立てた。これが決定打となり、オヤジはついにナイフを振り下ろした。大西の首筋に刃が食い込み、鮮血が流れ出す。なぞという、展開になることはなかった。オヤジも、その手応えの無さに拍子抜けし、少々の冷静さを取り戻した。大西は左の口角を上げ、麻利亜もまたほっと胸をなで下ろしたようで、笑った。オヤジだけが、進む世界のスピードに取り残されている。なんとも、混沌とした空間が出来上がった。

「ジョークグッズですよ」

 オヤジはナイフに瞳を凝らし、漸くカラクリを理解したようだ。その手に携えたナイフの刃が伸縮性のあるゴム製であったということに、漸く理解が追いついたようだ。掴まれていた胸元のシャツは少し破れていた。わざとらしく肩をすくめた大西は、さっきまでより明るい声色で言った。

「この勝負、私の勝ちですね。そうでしょ? 麻利亜さん」

「ええ、そうね。本当に、面白かったわ」

 オヤジは、ナイフを卓に置き、再び腰を下ろした。そして、頭を抱える。その丸まった背に、麻利亜がそっと手を置いた。

「お父さん、ごめんね。私ね、友和さんと結婚するわ」

「お、お前……」

「私ね、この人を愛してる。でもね、お父さんのことも大好きよ」

 麻利亜がそう言うと、オヤジは更に頭を抱えた。

「勝手な娘だな。それに友和君とやらもだ。命をかけてまで愛を確かめる馬鹿があるか?」

 なんとも弱々しい声だった。大西は、麻利亜の愛を確信し、そしてまた、オヤジが娘を思う気持ちに偽りがないことも理解した。この老いぼれは、見てくれこそ逸れ者のそれだが、確かに娘を大切に思っているのだろう。

 今度はもう見下ろすことはせず、大西自ら膝をつき、今もまだ項垂れたままのオヤジに手を差し出すと、柄にもなく戯けた笑みを浮かべ、言った。

「まったく、素敵なジョーカーダンスでしたよ。オヤジさん」

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