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当たり前を見つめ直すこと。

小学校、中学校を経て、
高校に進み、就職や進学をする。

これは一般的には「当たり前のこと」です。
しかし、「当たり前」ってなんでしょうか?
誰かが決めたものなのでしょうか?

今回は「教育を受けさせる義務」に焦点を
当てながら少しお話したいと思います。

私は「教育を受けさせること」には
少し疑問と、改善点があると思います。

まず疑問なのですが、
「義務教育として学習する内容」とは
どの点で意味を持っているのでしょうか?

国語や社会を学ぶときの「母国語を正しく使うため」とか「国の歴史を学ぶため」というのは建前に過ぎないと思ってしまいます。

実際に、国民の何割が正しく母国語を使うことができるのでしょうか?学んだ歴史を外国の人にでも伝えることがあるのでしょうか?少なくとも意図的でなければ、そのようなシチュエーションは多くないと私は考えます。

数学や理科であっても、実際に多用するのは
せいぜい「四則演算」ぐらいなのではないでしょうか?社会に出た時に、熱の伝わり方や金属の特性などの知識が必要なのであればいいのですが、そのような場面はだいぶ限られているように感じます。

このように、「学ぶことが当たり前」とされている義務教育のどの点に義務である意味があるのかあまり明確ではないように感じます。

私は学ぶ事を否定しているのではありません。

ただ、義務なのであれば、
もっと意義のある学習ができた方が
学習者である子供たちにとっての気持ちも
高まるのではないかなと思うんです。

「学びたいことを学ぶことができる環境」
これほど有意義な環境が他にあるのでしょうか

大人よりも子供の方が学んだことを吸収する
能力が高いのであれば尚更です。

夢を持っている子供たちのためにも
学習をする権利は彼らが持つべきです。

「何を学ぶか」を選ぶ権利が彼らにあれば
もっと素敵な未来になると思うんです。

例外はあるかもしれないですが、小学生や
中学生の頃から夢を持っている子たちって
すごく希望に満ち溢れていると思うんです。

そのような子供たちの時間の使い方を
「補助してあげること」を義務とすれば
今の勉強に対して不満を持っている子供たちも
もっと伸び伸びと学習ができると思うのです。

何も不満を持つことなく学習に取り組むことができる学生さんはすごいです。本当に。

しかし、一方では、
今の学習がどのような意図で行われているのか
分からず将来に不安を抱えている子たちも
少なからずいると思うのです。

「機械的に学ぶ」のでは何も残りません。
本当にもったいないと思います!

せっかく学習をするのであれば、
身になることや役に立つことを
学習できた方が絶対にいいと思います。

子供たちの学習への不安を晴らす意味でも
「学習内容を選択できる権利」がいつか
できて欲しいなと思います。

子供たちの将来を決めるのは
大人ではありません。
彼ら自身が決めることに意味があります。
大人は彼らを補助する立場なのですから、
彼らが生きることに喜びを持てる環境を
ちゃんと作ってあげなければと思います。

話は冒頭に戻りますが、
1番大事なのは「形」ではなく「中身」です。

学習をすることが「当たり前」なのではなく、
「学びたいことを学ぶ環境があること」が
当たり前になってくれたらいいなと思います。

「学ぶこと」よりも「何を学ぶか」です。
たったこれだけで、多くの子供たちの将来が
変わると思います。

私は普通の大学生なので、
具体的に変えてあげられることは
何もないかもしれませんが、
「願いは口に出すことから始まる」と
思っているので、同じような考えを持っている方がいらっしゃったら嬉しいです。

本日は「当たり前を見つめ直すこと」という
内容でお話を進めさせていただきました。

以前も何度かお話させていただいたのですが、
物事には「本質」があるので、その本質を
しっかりと考えることが大事だと思います。

「そうでなければいけないのかな?」と
1回考えてみると、意外とそうでなくても良い
場合って多いと思うのです。

ですから、みなさん無理しないで
ある程度気楽に生きていきましょうね!

何かあったら支え合いましょう。
私もみなさんを支えたいですし、
支えてもらいたいです。

悩み等あれば、気軽に相談してくださいね☺️

本日もありがとうございます。

また明日お会いしましょう👋

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