障害がある場所
先日、つんく♂さん(著名人)がテレビに出演されていた。ご存知の方も多いように彼は声帯を切除されていて、いわゆる普通の発声はできない(と私は認識している)。どうするのだろうと思っていたら、LINEのトーク画面に発言を送信して、その内容をワイプで表示していた。MCや共演者はそれを読んではリアクションを返し、普通にトークは進んでいった。
最近、聴覚障害の当事者や障害について扱った本を見つけては、読んでいるのだけれど、その中に必ずと言っていいほど登場するのが「障害の社会モデル」という考え方。障害は本人や当事者側ではなく、社会の側にあるという考え方で、世界ではスタンダードな考え方になりつつあるのだという。
日本においても、東京オリンピックを機に策定された「ユニバーサルデザイン2020 行動計画」などにも明記されている。
もし、私がつんく♂さんと対談する機会を得たのなら(今後の人生において可能性は1%もないと思うが…)、その場において、私から「耳が聞こえないから書いてもらえますか」といったお願いもせず、相手は話したいことを当然のように書くことで伝えようとし、私はそれを読んで声で話し、相手はそれを耳で聞く。そこには何の障害も存在しないことになる。
それどころかお互いのコミュニケーションが、よりスムーズに進む可能性すら容易に想像できる。当たり前とされている社会の環境設定が変わるだけで、障害(とされているもの)は、あっという間に障害ではなくなるのだ。それは裏を返せば、いわゆる健常者はデフォルトの環境で、すでに配慮されているとも捉えることができる。
こちらのバリアフルレストランの取り組みを例に考えると、とてもわかりやすく実感できると思う。ここでは車いすユーザに合わせて店内が設計されていて、その天井の低さやツルツルで滑る床などは、"二足歩行障害"者にとっては、バリアとなる。
これは誰にとっての当たり前なのか、誰に配慮した結果なのか、その視点でもう一度社会を眺めてみると、障害に対する捉え方が変わるのを感じる。
また、車椅子のためにスロープやエレベータなど移動しやすい経路を作ると、足が悪い高齢者や、普通に歩ける人だって当然恩恵を受ける。テレビや映画に字幕をつけると、耳が聞こえない人だけでなく、聞こえる人にも聞き取りにくいセリフや、うるさいところや音が出せない場所で観ても内容が理解できる。
誰かが生きやすくなると、結果的に他の誰かにとっても生きやすくなることも、よくあることだ。その変化がもたらす優しさに多くの人が気づくことで、優しい社会へと変わるきっかけが生まれたらと思う。
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