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感情のバランスと言語の限界

年末が近づき、1年を振り返るモードになってきた。

日本は寒いんだろうか。こちらは夏なので、どうにも年末感がない。サンタがサーフィンするイベントが盛り上がり、炎天下にクリスマスツリーがギラついていたりしていて、なんだか嘘っぽさが果てしない。


私にとっての2019年は、振り返るにはなんとも激動な年だった。

年明け早々に大きな転換があり、その後いろいろあってオーストラリアと日本を行き来することになるのだけど、ようやく辿り着いた決心もひっくり返ったり、手に入れたと思ったらまた失ったり、予想もしない展開になってしまったり。もがけばもがくほど深みにハマる泥沼のようだ。もう自分でハンドルを握ろうとすることを最近は諦めている。


Instagramを見てくれている友達から、定期的に「楽しそうだね」「自由でいいね」「羨ましい」と言われている。(Twitterでは小難しいことばかり書いてしまうからそう言われない)。なんだか知らないけど永遠に海外をふらふらしている。どうやって生計を立てているのだろう。やりたいことをやってて気楽そうだな。たぶん私の見え方はそんな感じだと思う。

まあそう見せているのは他ならぬ自分自身だ。その裏でどんな感情が渦巻いてしまっているかなんて一切伝わっていないとしても、それをやっているのは私。

本当の自分を見てほしいなんて、まったく思っていない。決してSNSに上げているものは嘘ではないし、コントロールしようとして意図的にやっているわけでもない。わりと素のままで偽りなく、その場の感情で上げているだけで、あまり深く考えてもいない。だけどそれらは私の10%くらいに過ぎない。

この感覚って、もしかしたらわからない人のほうが多いのかもしれない。

私はメンタルがそんなに強くない。感情の起伏も激しくて、急に楽しくなったり、かと思えばすぐに落ち込んだり、やる気に満ち溢れたり、すべてを投げ出したくなったりする。

あるときは朝起きて「まだ生きてるな」みたいな気分の日もあり、本格的にダウナーになったりヒステリックになったりすることは少ないけれど、感情の波とはうまく付き合わなければならない。人前では気丈にふるまいつつも、ずっとHPが赤く点滅しっぱなし……みたいなことも全然あるのだ。

それでも別に暗い長文をSNSに投稿したりはしないし(これがそうだったりして)、病みツイートとかもあまりしない(たまにしているかも)。意図的に抑えているというより、自分のなかに無数にある感情のうち表に出ていくものが勝手にフィルタリングされる機能が備わっている感覚に近い。


最近、韓国人のアイドルが立て続けに命を絶ったニュースに心を痛めた。

「テレビやSNSでは辛い姿を見せなかった」「もっとヘルプを出してくれていれば」「気づいてあげられなかった」という声が多かったけれど、見せられない、隠していた、というのともちょっと違うんだと思う。

キラキラした生活や、そこに添えられているポジティブな言葉も本音。偽ったり取り繕ったりしているわけではなく、無理して明るくふるまっているのとも少し違う。それもリアルなら、あれもリアル。表と裏というシンプルな話でもなく、人間は複雑な多面体で、見せなくていい部分と脳が認知したものは見えないようになっているのだと思う。

それに加え、本当に深いところにある感情には、この世にある「言語」が足りていない。現象を切り取るために後付けで生み出された言語は、何千年のときを経て改善を重ねてきた今もなお、人間の奥底にある感情を表現するには、まったく十分とは言えないのである。

人は無数の感情のバランスを知らないうちにコントロールして生きている。これを表現したり理解したりするために言葉を充てることを「言語化」と言うけれど、この1年は自分の中身を言語化することをとても怖いと思いながら過ごしてきた。足りないにも関わらず、いやだからこそなのかもしれないけれど、このバランスを崩してしまうだけのパワーが言語にはある。

それでもなお、人間が細かい感情を伝えるために、今のところは「言語」という手段に頼らざるを得ない。言葉になって出てくるものを過信せずに相手を見ようとすることが、悲しいすれ違いを減らす唯一の手段のような気がしている。


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