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ルールは破るためにある(真夏の禁酒令へのささやかな抵抗)

2021年7月16日、私の住む神奈川県が、独自の緊急事態宣言を出すことを発表しました。

期間は2021年7月22日〜8月22日の1ヶ月間。清川村を除く県内の市と町すべてで、飲食店になどに対し、終日、酒類提供停止を要求。参考記事

江ノ島・逗子・葉山などのエリアでは、海開きをしたばかり。今年こそはと6月から急ピッチで組み立てた海の家も、たった2ヶ月の夏に賭けてお酒をたくさん仕入れ、さあこれから営業だというときにです。地域全体としてようやく充電期間から抜けようとしている雰囲気があったので、あちこちから落胆の声が聞こえています。

せめてこの宣言が、もっと前から出ていたならわかるけれど、よりによってこのタイミング。逗子海岸なんて昨日やっと海開きしたばかりだから、お酒ありの通常営業ができる期間はたったの5日間。そんなことってあっていいの?

今年の海開きは、なにも能天気にやっているわけではないんです。春先から初夏にかけての世の中のムードを受けて、「このまま夏を迎えれば放っておいても海に人は来る。来訪者が増えるなら、ライフガードを出さないと危険だ」という話に。海水浴場として開けるのなら海の家は営業しないといけません(シャワーやロッカーなどインフラとして必要)。海の家はアルコール販売がある前提で組まれたビジネスなので、お酒なしでは建設費用や人件費で赤字になってしまいます。そういう流れ。ずっと続いてきた国や県などによるコミュニケーションの先に、自然な流れとして今の状況にしかなり得なかったわけです。

再び酒禁止の可能性があったなら、もっと早くに決められなかったのか。先が見えないまま世の変化に適応して準備をする人たちのことを、もう少し考えられなかったのか。感染者数の変動という確かかどうかもわからないデータのせいで、また従うべき「ルール」が変わりました。私たちはずっとコロコロ変わる「ルール」に振り回されています。

今回の宣言は、東京がお酒を禁止したことで、お酒が飲める神奈川県に人が流れてきてしまうのを防ぐための苦肉の策という意見もあります。神奈川が東京の「ルール」に振り回されて、東京は国の「ルール」に振り回されているのであれば、もはや抵抗する先はどこだかわからないのですが、意図も目的も見えない「ルール」が数珠つなぎ式に増えて、これ以上よくわからない展開が繰り広げられるのは、さすがに耐えられない。

あ、むりだわ、という感情が溢れてしまい、ついつい書きはじめています。

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「ルール」というものの存在を私が初めてしっかり感じたのは、中学校の校則だったと思います。

小学校でも「廊下は走っちゃいけません!」のようなルールはあったものの、校則はそれとは次元が違いました。

スカート丈は膝が隠れるように。女子の髪はひとつかふたつで耳の下で結ばなくてはいけない。ヘアゴムは黒・茶・紺・白のみ。男子は髪が耳にかかったらアウト。もちろん男女ともにヘアカラーやパーマは禁止。靴下の色もヘアゴム同様。柄はワンポイントのみ。

大量のNOを突きつけられた生徒手帳を読み、なんだこれはと思いました。初めは「中学ってそういうもんなのか」と思って守りましたが、すぐにおかしさに気づきました。先生たちの校則に対する熱意は異様に高く、当時の私はいったい何のエネルギーが彼らをそうまでさせるのか、不思議で仕方ありませんでした。

それでも「ルール」を守ったのは、良い高校に行きたかった私にとって、破るデメリットのほうが遥かに大きかったからです。中学の内申点には、学力レベルと同じくらい、先生たちに好かれるかどうかが大切です(全国共通かわからないけど)。校則を「クソくだらないな」と思っていたからこそ、そんなくだらないことで人生が左右されてはたまらんと思っていました。

(自分でいうのもなんだけど)私は素行がよく勉強もでき班長や学級委員なんかもやるタイプだったので(もちろん内申点のため)、もしかしたら真面目に「ルールなんだから守って当然です」と思っているようにしか見えなかったかもしれません。

しかし実際は、明らかに意味のないルールを真っ向から破りにいける同級生が羨ましかった。金髪にして制服を着崩して“今この瞬間”を楽しむやんちゃな子たちに対して、優等生のように注意や指摘をしたことは一度もありません。おとなしく集団に紛れながら、内心では「いいぞもっとやれ」と思っていたんだから。

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「ルール」で押さえつけ、行動を制限することで、集団に対してなんらかの秩序や統一性をもたせようとする。こういう教育の下で育った人間は、社会に出ると同じことを繰り返してしまいます。当時わけがわからなかった先生たちの熱意の出どころも、大人になるにつれ同世代が「ルール」を制定し守らせる側に回っていくのを見ていると、なんとなくわかったような気がしました。

私は今まで2つの会社(大企業とスタートアップ)に所属したことがありますが、どちらにもNOのルールは溢れていました。日本企業は(政治も)減点方式で、ゴールは同じだったとしても、「積極的に○○しましょう」よりも「絶対に○○しないように」というコミュニケーションが選ばれる。加点方式にすることで、同じ課題をポジティブマインドで解決に向かわせられる道もあるのだけど、小さい頃から染み付いてしまっている思考のクセで、「ルールを設けて禁止する」という策ばかり繰り出されます。かわいそうなことです。

「ルール」はときに、問題の本質を見失わせてしまいます。「だってルールだから」で通す人が増え、何のためのルールなのかを誰も考えなくなる。そして守る理由が「みんな守っているから」になっていきます。上司や同僚が守っているから、自分も守らなければ。近くの店も守っているから、うちの店も守らなければ。周りも我慢しているから、私も我慢しなければ。

なぜそういう遵守や我慢がいま必要なのか、その理由や目的を考えるチャンスを、「ルール」という壁が奪ってしまう。ルールを制定する側も同じです。国や東京がやっているから、神奈川もやらなければ。今回の「お酒を禁止する」というルールについても、本質的な意味や効果をどれだけの人が考えられているのでしょうか。

海の近くの小さなフレンチレストランが、「夏に向けてワインをたくさん仕入れて、ワクワクしていた矢先の発令です」とインスタを更新していました。美味しい食事とお酒を楽しみに来る人のほとんどは、近所や県内からのお客さんです。そういう店でモデレートに楽しむ食事に“お酒を添えない”ということが、いったいどう感染対策になるのかなんて、求める側はきっと考えようとしていないし、求められる側は考えるのを諦めてしまっている気がします。

外出制限でも、営業時間短縮でもなく、もはや「お酒の提供停止」がメインになっている。「ある特定の飲料を絶対に飲ませてはいけないというルール」を一生懸命に守らせる県と、耐えながら忍びながら守る私たち。なんのゲームでしょうか。

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「ルールは破るためにある」

このタイトルの意図は、意味がないから無視してどんどん破っていこうよ!ということではありません。

世の中の秩序を保つために、一定のルールはもちろん必要。しかしそのルールは、制定されてからもきちんと受け手からその意味を問い直され続け、本質的に意味ある形へと近づいていかなくてはなりません。

ルールとは、境界線のことです。「誰が見ても良いこと」と「誰が見ても悪いこと」の間には、どっちに分類すべきか意見が分かれるケースが無限に転がっています。その広い広い領域のどこかに境界線(ボーダーライン)を引くことで、人々がそれを目安にしながらその問題の核を捉え直し、本質的に意味をもつラインを考えていくための議論のきっかけにもなるのだと思います。

上手く説明できているかわからないのですが、これが、「ルール」はただ思考停止して“守るため”ではなく、本質的な意味に向かって“破るため”にある、という考えの背景です。

今回制定されたルールが本当に私たちの目的達成のために必要で、守る意味のあるものなのか、冷静になって考えてみてほしいと思います。そしてもし今回、“破る”という決断をする飲食店があるのであれば、私個人としては応援する側に回りたいと思っています。

この記事のアイキャッチに使った写真は、昨日7月17日(土)の海岸の様子です。梅雨も明けてカラッと晴れ、非常識なほどの大混雑ということもなく、ハッピーな空気で満ち溢れていました。もちろん感染対策を十分にして気をつけながら、みんな楽しく過ごしています。

大好きな神奈川県と海の地域の皆さんが、幸せに気持ちよく2021年の夏を走りきれますように。ささやかな抵抗という名のエールでした。

おわり。

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