かるくつまむ雑記_13

物事のグラデーションをみる

昔から、世界はグラデーションだなあとよく思っている。

現実はそのままの現実で、切れ目も境目もないはずだけど、どうしてか人々は「分類」するのが大好きだ。自分がどこに属しているのかを言葉によって認知して、はじめて「居場所」のようなものを感じるのだと思う。

日本は日本語という独自の言語によってずいぶんハイコンテクストな社会に成長してしまって、かなり微妙なニュアンスの違いまで巧みに言葉を使って表現しわけることができる。とくに文章を生業とする人なんかは、言語の限界を超越してくるから本当にすごい。


でも言語を過信しすぎると、現実を見誤ってしまうなあとも感じる。

「ぴったりの言語がまだない概念」は現在でもたくさんあって、むしろ新しく日々うまれている。わたしたちが認知しているのは、それっぽく割り当てられた言語によって、なるべく近い状態で再現されたものにすぎない。概念の解体と再構築が頭のなかで絶え間なく起こる。

世界は絶えず変化し続けるアメーバのような状態で、そこにはいつだってグラデーションの部分があるはずだ。



大学では社会学を学んでいたのだけど、社会学ではまず「言語」について知ることからすべてがはじまる。

社会学が研究対象としたい「社会」はそこにある現象でしかなく、それを分断してなんらかの意味をもたせているのが言語だからだ。

言語がなければ人は物事を認識することができないし、議論すべきこともうまれない。だから社会を読み解くまえに、言語による切り分けを理解することが大前提として必要になる。


たとえば「犬」という生き物がいるけれど、それはなぜ「狼」ではないんだろう?「犬は目が2つだけど、狼には3つある」みたいな、物理的現象としてのはっきりした差はない。どちらも同じような背格好で、だいたい似たような吠え方をする。

そうなると、「犬」と「狼」は同じ分類でもよかったんじゃないか?とも考えられる。犬っぽい狼や、狼っぽい犬もいるかもしれない。それに、「チワワとシベリアンハスキー」と「シベリアンハスキーとハイイロオオカミ」だったら、絶対に後者のほうが似ている気がする。


同じような例で、虹の色は何色か?という話もある。

日本で育った日本人なら「7色」と答えるが、これが「5色」になる国もあれば、「3色」になる国もある。同じもの見ているはずなのに、色の分類は国によって違う。

これは物理的に見える色が少ないわけではなく、色を表す言語の豊富さの問題だ。たとえばアフリカのある部族なんかだと、「ピンク」を表す言葉をもたない人たちもいるらしい。

赤っぽければぜんぶ赤、暗ければぜんぶ黒、のようなざっくりとした切り分けでも、彼らにとっては合理的にはたらいている。



「犬と狼の区別」や「虹の色の区別」の話は、社会学のことはじめによく語られる命題だ。こんなふうに、まとめていた可能性だってゼロじゃない分類は世界にはいくらでもある。

最近は、あまりにもグラデーション部分がなかったことにされていろんな議論が進んでしまっている気がする。

犬と狼のあいだのグラデーション、青と紫のあいだのグラデーションが見えない人がいるように、物事のグラデーション部分も見える人と見えない人がいて。

インターネットの世界ではよくいろんな議題で二項対立しているけれど、どちらかの立場をとって極端なポジショントークをする人は、「グラデーション部分が見えないんだなあ」と思えば理解できるかもしれない。

「働き方」というホットなテーマひとつとっても、わたしにはいま中間部分に無数のケースが見えている。日々うねうねと動いては新しい領域が島のように発生し、吸収されたり分裂したりしながら変化を繰り返しているのが、困るくらいによく見える。


物事のグラデーション部分にこそ大事なことがあると思うし、それが見えるように想像力をはたらかせることは忘れないでいたい。

ポジショントークができないかわりに、たまにこういう話をしてみる。共感してくれる人がひとりでもいるといいんだけど。


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