見出し画像

空間なき会話、記憶の拠り所

外出できない世の中になってから、何度かオンライン飲み会というのか、画面越しにちょっと話してみようかという会をやってみた。楽しかったはずなのだけど、数回それを経てみると、どの会もあまり記憶に残っていないことに気づいた。

何を話したのか、細かい内容があまり思い出せない。2時間、3時間、たしかに会話をしていたし、話題もあれこれと移り変わっていたのだけれど、断片的にしか記憶が呼び起こされないのだ。

考えてみれば、こうした雑談はいつでも空間とセットだった。

テーブルを挟んだお互いの目の前には空間があり、そこには絶えず動きがうまれていた。立ち上る湯気、グラスをつたう水滴、焼けているのか焼きすぎなのか注視しなければならないお肉。

会話はそれらの上を飛び交うようになされる。私たちの発する言葉は、物質としてそこに存在するものに一旦宿り、ひと呼吸おいて何らかのイメージを付け加えてから、相手のなかで消化されていたのではないだろうか。すべての言葉は場所とそこにある物質に紐付き、パッケージとして記憶されていく。

オンラインでの会話には、その拠り所がなにもない。変化も邪魔も入らない2時間の間、手ざわりのない音声データとしてインプットされ続ける。共有する物質がない状態で交わされる言葉たちは、宿る先を見つけられず、仕方なく脳内に直接飛び込んではみるものの、やはり強い記憶として定着するにはエネルギーが足りないのかもしれない。顔を見て動きや表情を認知しているぶん、電話ともまた違う感覚がある。

今までも仕事においては散々オンラインで会話をしてきたはずで、それはどうだろうかと思い返す。しかしそれらは、仕事を進行するという文脈のなかで起こっているから忘れようがなかった。前後関係があり、目的やゴールのある手段としての会話。その先にある目的のためにしている行為にすぎないわけだから、根本的に違う営みであることに気づく。

行くあてのない、場所を伴わない雑談。外出をしなくなってから、ずっとその記憶に靄がかかったような感覚がある。逆にオフィスに行った日にした会話はよく覚えている。空間と結びつけて記憶を収納しているからなのだろう。

自宅にいながらすべてのコトが起こる世界は、果たして効率化の行き着く先として理想的なのだろうか。人は相手を背景込みの立体像として捉え、空間のなかで認知することで親しみを感じるようにできている生き物だと思う。

人の温もり、物理的な距離、息づかい、体温、肌触り、ふれあい。

そういったものを抜きにした人間関係は、やはりどこか空虚な感じがする。個体同士が近づいて空間を共有することなく交わされた会話の記憶は、いつまでどのようにしてもたせることができるのか。

数年経ったとき、私はこの期間のことをどれだけ覚えているだろう。覚えていたとして、どんなふうに思い出すのだろう。先月のことも朧げだというのに。

記憶は思い出さないと保っておけないのだと、最近はとくに感じるようになった。しっかり記録し、思い出すという作業を、意識的にやってみようと思う。


さらに書くための書籍代・勉強代に充てさせていただきます。サポートいただけると加速します🚀