見出し画像

「無茶振りはありがたい」

2年目、ちょっと変な上司に付いていたとき言われた言葉だ。

その上司はちょっと変というかベクトルが違う人で、自分で仲間とNPOを立ち上げて、地域コミュニティの中でイベントやら何やらを手掛けている人だった。

僕も一緒に商店街のイベントでパンを売ったり(?)、カレー好きのコミュニティの中に入って、自分のスパイスカレーを食べてもらったり(?)、貸店舗で居酒屋をやって、一日中ハイボールを作ったり(?)していた。

今となっては、そのときの「いろんな」という言葉では言い表せられない「いろんな」人たちのつながった経験が、自分と誰かとのコミュニケーションを考えるきっかけにもなったような気がする。


まあ、そういうイベントには飲酒が付き物だったし、若手となれば尚更「何か言え」みたいな風潮があった。コロナを経たほんの数年で世の中は変わったけども。

これまで大学で、仲のいい人と一緒に居さえすればなんとかなっていたのに、入社したら突然知らない大人と話すことばかり。自分が接する相手を選ぶことは、コロナ前には難しかった。

「何かコメントしてみて」や「意見言ってみて」という無茶ぶりは、今やもうれっきとしたパワハラである。不快に思われないように接しないといけない。


そう、若手で、コミュニケーションにおいて何の武器も持っていない僕に、「無茶ぶり」はありがたいことだったのだと今になって思う。「何か言わなきゃ!」とボケてみたり、意見を言ったり。まあ大体スベるけど。というか「無茶振りはありがたい」って振る側が言うなよ!と今思った(?)。

その当時はめちゃくちゃしんどかった。定時あたりに上司が「今日行くか」なんて離れた席で話していたのを聞くと、今にも逃げ出したかった(まあ逃げられなかったんですけど)。


でも、繰り返し飲みの席やら何やらで振られて、何か言うという経験は、今の営業という職で、お客さんに「いい意味でのでまかせ」を言えるようになったし、コミュニケーションを円滑にするという面では、役立っているとは思う。


ただ、自分がこれで育ったからといって、これを後輩にやってはいけない。そういう時代だし、体育会系なノリは精神的によろしくないので根絶させたい。

じゃあ、どうやって後輩を育てるのか、が難しい。というより、誰かを育てるなんて自分の子供でもないのにおこがましいと思ってしまう。

それに、主体的に「気付いて」もらわないと、結局のところ無意味だ。無茶振りをただのストレスとして認識されてしまっては元も子もない。数年後に僕みたいに気付く場合もあるかもしれないけど、そのストレスに耐えられるんだろうか。僕もまた無茶振りの嵐をされてもしんどい。


「無茶」な振りではなくて、「ちゃんとした」振りをすればいいんだろうか。きちんと言語化して、意図を伝えて、かみ砕いてもらう。それは、与えすぎじゃないだろうか。

誰かが嫌われ役になって、教えないといけないことはありそう。でも、嫌われ役がマジで嫌われて、教えた人が病んでしまうことだってある。やっぱり意図を伝えることが大切なんだろうか。


教えるって難しい。でも、仕事上教えないといけないことがある。みなさんは「教えること」どう思いますか(無茶振り)。


応援いただけると嬉しいです!