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私たちは本当に「知っている」のか

メディアで働いていると、取材した情報が世に出るまでのとてつもない流れに関心する。

僕は新聞記者ではなく営業職なので、記事を作るのではなく売る側だ。

同期の記者の話を聞いたりすると、まずはネタ探し。突発的な事件を除けば、プレスリリースから選んだり、自分の足で探す。タバココミュニケーションから取材なんていう話もいまだによくある。

例えばプロスポーツの取材でも、いろんな切り口がある。単純な試合結果から選手の生い立ち、記録達成したときには過去のデータを洗い出す。

そして書いた原稿をチェックする人。不確かな情報をニュースにするわけにはいかないので、何人もの人の目を通じて世に出る。

普段何気なく見ているニュースが、膨大な労力をかけて作られていると思うと、「よくやってんなあ」と他人事のように思えてしまう(アカン)。


情報が嫌と言うほど大量に流れ込む時代に、「知っている」というのはどういうことなんだろう、と思う。

ニュースを見て、取材を受けている人の言葉を知った時、いったいどれだけ、その人を「知れている」のだろうか。

大谷翔平のクレバーな話っぷりに関心しても、それはメディアの前での姿に過ぎない。テレビや文字を通してでしか、その人を理解できないのだ。

「私」はその人に直接話を聞いたわけではない。間接的に情報を得続けているだけでしかない。それに、取材する記者だってその人の全てを理解するなんてことは絶対にできない。

というより、ニュースに限らず、自分の友だちのことだって、パートナーのことだって全て理解していない。むしろ、できないはず。自分自身のことだって理解しきれないのだから。


どんな物事に対しても、「知っている」という態度を取ってしまうのは、危ういなと思う。


専門家がエライ!最高!というわけではない。専門家だって全知全能ではないし、かめはめ波は打てない。腕がゴムみたいに伸びたりしない。

コロナ禍になって、「私は知っている」という態度を取る人がよく世の中にいるんだな、というのがわかった。

最近、「W杯のときは危険だ。サッカーに夢中になっているときに、政治家が何かヤバイことをしでかすから注意しよう」なんてツイートがあった。

ヤバイことってなんだ。昔の政治用語を持ち出してあたかも危険なように語るけど、ヤバイってなんだ。教えてケロンパ。


そう、基本的に私たちは「知らない」のだ。Google先生で検索した情報を自分が持っているからと言って、その物事を「知っている」わけではない。

何も知らないからこそ、あらゆる情報源にあたる。新聞・テレビ・雑誌・本・ネット。特定の情報だけを仕入れないで、多くの情報源から「知ろう」とする。

そうするとあら不思議。自分が正しいと思い込んでいた情報は正しくなかったりする。知ろうとすればするほど「知らないこと」が増える。

だから、常に「知ろうとし続ける」ことが「知る」ための第一歩だと思う。知らないことが多いというのは楽しい。答えは簡単に出ないが、そのためにいろんな情報源があり、日々の思考があり、人と話すということがある。

「知っている」の押し付け合いではなく、「知ろうとする」人たちの話し合いでありたいなと思う。自戒を込めて。

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