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エゴの手を借りない

遅めのおはようございます。
しょうもない言葉遊びをしたいがために書いている16日目。
読んでくださっている稀有な方々、ありがとうございます。

書くことはルーティン化されてきている感じがしますが、いつ書くのかまでは定まっていないのも事実。もう少し決めてルーティンに取り込んでいければ、より安定して書くことができそう。学級経営でも同じですが、大事にしたいことは、そういうシステムにしてしまうのが早いですよね。

昨日は「支援する」ということいついて考えた日でした。
学習の主体が児童であるとき、教師の役割はなんであるのかということは、よく議論されています。
佐々木先生の本ではティーチャー・コーチ・ファシリテーター・ジェネレーターと4つが紹介されています。また、学級経営においてもファシリテーションが注目されています。こうやってベテランの先生方が、今の教育課題と向き合って学び続ける姿って本当に刺激になります。

その他にも、役割としてインストラクターとか、サポーターとか、多くの言葉が当てはまり、その仕事が多岐に渡るとともに、状況に応じて変化していかなければならないのだと考えさせられます。

そんな中で、どこにも共通する大切なことは、「子供の学びをいかにして支えるのか」というです。ここまでは分かっているのですが、ただこの支えるという行為が恐ろしいほど奥深く、結局自分のエゴの域を出ないのではないかと思い悩むわけです。

支えるためには、現状の子どもに対しての「見取り」が欠かせません。
まずこの時点で、「見取り」にバイアスがかかっています。
自分自身が見たいようにその子を見ていないか、見たい部分だけを見ていないか、今日のこの子を昨日のこの子から一方的に決めつけていないか。そもそも見えていないことの方が多いのに、表面に見えている部分だけで見た気になっていないか。

そして、こうしたバイアスだらけの見取りから、勝手に最適だと思っている支援に行き着いてしまうわけです。この子にはこういう支援が必要なんじゃないか、この力が足りていないんじゃないか、ここはしてあげないとできないんじゃないか。このレベルはまだ早いだろう。

猫の手も借りたい忙しさが、自分のやりやすいように易きに流れてしまう。
エゴの手を借りる形になってしまっていないか。

自分本位に子どもを見とって、身勝手な支援をしてしまう。
それが起こらないように気をつけなければならないなと感じています。

そう思うとこの「見取りの目」を鍛えていくことが、教師修行における永遠の課題です。またこれらを解決するために、子どもたちに自己選択・自己決定できる機会を多く与えて、子ども自身が選び取るようにすることもしていますが、果たしてその与えたものも正しかったのか、もっと良い方法があったかもしれません。

VUCAの時代、予測不可能で変化の激しい時代には決められた答えを見つける力だけでは太刀打ちできない、というのは、まさにこのことなのかなとも思います。

子どもたちの声を聞きながら、様子を見ながら、丁寧に向き合い話し合いながら、学級の中で、そして私と子どもたちとの関係性の中での納得解を作り上げていく努力を怠ってはいけないのだろうなと、ありきたりかもしれない結論に落ち着きました。




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