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ルーツを背負えという期待のしんどさと一人の人間として出会うこと

(2023年6月23日に別アカウントで書いた内容の引越し投稿です)

このところ、連日のように考えさせられることを、ヒリヒリとした感触が消えないうちに書いておこうと思う。

月曜日の16時、会社勤めであれば行かないであろう武蔵小杉のスタバに向かったら、なんか見たことのある顔がいた。

「ん? これはもしや大学の同期では?」と思ったけど、違う人やったら恥ずかしいし、いったんは通り過ぎた。いやでもあれは確実に彼だと思いメッセンジャーで「もしかして武蔵小杉のスタバにおる?」と連絡したら「おるで」とのことで、ニヤニヤしながら戻って声をかけに行った。

わたしは昨日「日本移民学会」に参加して「中国帰国者研究の新地平を拓くーポストコロニアル帰還移民という視座」という小難しいテーマと「在日コリアンとトラウマー映像作品《In-Mates》から考える」の発表を聞きに行ったばかりだった。

なんのタイミングか、今日5、6年ぶりに会った彼は在日コリアンだった。過去に一度、移民や外国にルーツをもつ若者を集めた対話のイベントに顔を出してくれたこともある。


私は5歳からずっと通名を使っていた。大学二年には日本国籍に帰化したこともあり、当時の同級生には自分からルーツの話しをすることはなかった。高校には「日本」以外の名字をもつ人がいなくて、大学に入ってから初めて朝鮮半島や中華圏の苗字をもつ人たちに出会った。彼もその一人だった。

当時、彼とはほとんど接点がなく、社会人になるまで言葉を交わすことはなかった。たぶん、まともの会話をするのはこの日で三回めだと思う。もちろん、ルーツの話しをしたことがない。その意味で、この人とは何か不思議な縁を感じる。


彼は結婚していて、2月に生まれた娘さんの写真をニマニマしながら見せてくれた。わたしたちはスタバの席に座り、お互い「最近どうしてるの?」という話をした。

わたしは「相変わらずルーツ関連のことをやっていきたいと思っているよ」と報告した。

以前、わたしが主催するイベントに参加してくれたとき、二人でどんな話をしたかまったく覚えていなかった。ひさしぶりに彼の顔を見て、わたしは改めてルーツやアイデンティティーのことを聞いてみたくなった。

「そういえばテソンはさ、在日コリアンの自分をどう捉えているの?」
「まったく気にしたことがないね。ネガもポジもなくフラット」

たぶんそうだろうなと思っていたけど、そこまでスッパリきっぱり答えられると、長年ウジウジしている自分が少し恥ずかしくなった。

彼はずっと韓国の名前で過ごし、小学校二年生までは朝鮮学校に通い、それ以降は日本の学校に通ったそうだ。家の法事も韓国のしきたりに沿っているという。

それは一つの事実であり、だからといってその背景が自分という人間を形成するのに大きな影響を与えたかと言われると、そうではないらしい。


「俺、鈍感やから。敏感な人は気にするかもしれへんけど、俺は気にならんかった。むしろ日本人、韓国人っていうカテゴリーを押し付けられるのが嫌やった」

という言葉が印象に残った。

中国や韓国、朝鮮半島にルーツをもっていても、その事実がどのように人格の形成に影響するかは、人によってまるで異なる。子どものころにどのくらい気にしていたか、大人になった今どのくらいこだわっているかもけっして同じではない。

テソンとわたしは真逆だと思った。

同時に「どこどこにルーツがあるからといってそのことに悩んでいるだろう」と決めつけることは相手に失礼でもあるなと思った。

とくに悩んだことのある人間は、悩んでなさそうに見える人が羨ましく見える。少なくともわたしはそうだ。心のどこかに「なんで悩んでないねん、もっと悩めよ!」という謎な期待をもってしまう自分もいる。

でも、それこそわたしがもっとも嫌っていた「押し付け」だった。どんなルーツをもっていても、その捉え方も、どんなあり方だったとしても、その人の自己決定をまずは尊重するべきだと思った。


カテゴリーの前に、一人の人と出会う。

それは、わたしが望む「誰もがありのまま生きられる社会」をつくるために忘れてはならない視点だと思った。

それに気づかせてくれたテソンくん、ありがとう。

これは勝手なわたしの期待だけど、娘さんが将来自分の名前と国籍をどのように選択したとしても、そのまま自信をもてる社会に近づけるよう、わたしはわたしのできることをやろうと思ったよ。





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