見出し画像

ネットで評判の神奈川県警のヤバさと繰り返される日常の恐ろしさと

■ ネット民の間ではヤバさに定評のある神奈川県警のワイロの裁判が始まる

警察は死体を扱うこともある。

最近、神奈川県警では、どこの署でも葬儀社から金券をもらっていたらしいことが話題になった。

どうやら取り扱った死者を優先的に紹介する見返りにビール券をもらっていたらしい。思ったより金額がデカいw

実はこの話は2018年ぐらいにネットで話題になっていた。

これを読む限りなかなかのKUSOっぷり。やっぱワイロってダメなんだなと。

たまに、世間でも仕事を紹介する代わりにバックを要求する的な事はあるわけだけど、ほとんど例外なく、そういったワイロ的慣習みたいなコミュニケーションで成り立っている人間関係って長続きしない印象。

神奈川県警と言えば、ネット民の間では、先日最高裁無罪判決が確定したコインハイブ事件の捜査において、わりと意味不明な恫喝を行ったりしてたことがバレて、ヤバい連中だという事がよく知られている。

まあ、多かれ少なかれ国家権力ってそうだよねっていう感じ。

コインハイブを知らない人のために簡単に言っておくと、webサイトを閲覧しに来た人のマシンパワーを拝借してマイニングを行うプログラム、的なもの。webサイトが運営されるためには、もちろん資金が必要で、現在は主に公告によって賄われている。そこを、仮想通貨で賄うことができたら?という、わりと面白い視点の話だった。なにより公告よりウザくない。しかし、一部にはそういうのを不快に思う人もいる、みたいな評価の定まらないものだった。

そんな、未だ社会的に良いとも悪いともわからないものについて、調べを行う事自体は別に悪い事では無い。しかし、それがいきなり人を逮捕して、恫喝して罰金を払わせる、となってくると話は別だ。コインハイブがOKかNGかという話よりも、そっちの方が問題だ。

警察ぐらいになると長い年月がそうさせてきたんだろうけど、力を得た人や組織ってまあそうなっていくよね。地位や実力があっても、おかしくならない人は、むしろ、そういう才能を持てたことを感謝すべきなのかもしれない。

捜査機関は、新技術どころか、自らが社会に与える影響すら考えてないんじゃないのかな。

■ 当たり前の日常を守ることとその落とし穴

社会がデタラメにならないために、暴力的な方法により人を従わせることも時には必要だ。しかし、それが許されるのは、人々が望む秩序を維持するためにふるわれるからであって、自分たちが秩序を作るために、強力な力をふるうようなことは許されてはいけない。

なんとなく、そういう暴走みたいなことを避けるためには、絶えず、自分たちはいったい何のためにあって、何をしているのか、今日やるべきことは何なのか、という事を考えなければならないように思われるが、逆に、例えば、毎朝起きるたびに自分の人生をリセットして、ゼロから本当に今日という日に何をすべきか考えて生きろ、と言われても困ってしまうのが人間である。

しかし、常に変化していく世の中で、いつも同じパターンで行動していると、気がついたらすっかりズレてしまうことになる。個人はまだ良いが、組織がパターンにハマって抜け出せなくなるのは、ありがちで、実は深刻だ。ワイロが常識になったり、警察が自分たちの正しさを疑わなくなったり。でも、そうなってしまう仕組みと、我々が、いつもの道をいつもの時間に歩いて、いつもの電車に乗るような事は、どこか地続きであるように思う。そういう日々が快適なのは、たぶん何も考えなくて済むからで、つまりそれが安心な日常だ。

日常や社会をパターン化する、つまりシステム化することは、急激に生産性が向上し、人口が増加した現代に至る道すじの中では避けられない事だったのだろう。それが、最近では、なにか、システムに圧し潰されてしまうような、そういう不安みたいな形で我々の前に立ち上がって見えてきた。そんな気がしている。

仕事場に行く必要もだんだんなくなっていき、なんとなく外出するのも不安なような、そんなご時世で、日常生活の中の変化やランダム要素が失われて行ってはいないだろうか。パターン化が過度に進んだ日常、その行き着く先を想像すると、自分は神奈川県警を笑えないのではないか、そんな恐ろしさを感じる今日この頃である。


サポートまでは言いません!だって、スキ!みたいなやつなら、ただで喜ばせることが可能ですもの!