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わけのわからないもののスゴさはもっと理解されるべきだという、登美彦氏と『熱帯』を巡る長い話の後半(つまり後編)

家族が、たぶんこっそり録画していた『夜は短し・・・』のアニメ作品を見たのだろう。最近、我が家にどこからか入手した登美彦氏の初期の作品が置かれていることがある。

一応、感想を聞いたり内容を話したりもしてみたのだが、結局ようわからん、との総括であった。

そうはいっても、初期の四畳半シリーズは、それなりに読みやすいし面白い作品である。ただ、家族は「言わんとしていること」を重視するタイプの人間だ。彼女の話を総括すると、なにか物語めいたことは書いてあるが、何を物語っているのかが全然わからない、ということを感じたらしかった。

おれはこの感想は、あなどれない、良い指摘であると思った。

『夜は・・・』でも、男女が出合うみたいなめちゃくちゃデカい流れはわかるのだが、確かによくよく考えてみると、なぜ炬燵部屋で火鍋を食う必要があったのかは、結局よくわからないのだ。

描かれているシーンはとても面白いし、語り口もいい。でも、なんでそういう話になったんだっけ?ということを考えていると、確かに、なんでそんなシーンになったのかは全然わからないものが多々ある。結局のところ、異常な文章力にねじ伏せられていただけで、過去作でもずっとよくわからない話を書いている人だったのだ。

おれはふと、これが何かに似ていると思った。庵野秀明だ。

おれは、カッコいいセンテンスが出てくる、と言うだけである程度小説が読めるし、庵野がまたカッコいい映像を作った、というだけで映画も見れる。しかし、わが家族はどうやらそれが苦手なようにみえる。それだけに、物語やメッセージについては、おれよりも敏感だ。

そう、おれが両者に共通する要素として感じるのは、魅力的なシーンを描くタイプのアーティストである、というところだ。そこには、一見物語があるが、実はそれはさほど重要ではない。エヴァが作られるたびに違う話になるし、結局いつもわかったようなわからないような終わり方をするのはよく知られていることだろう。あれは気に入るシーンを探す作品なのだ。

映像作品について、映像表現としてスゴイかどうか、という視点での評価はわりとなじみのあるものだ。しかし、文学作品について、ストーリーはどうでも良くて、描写が優れているかどうか、文が素晴らしいかどうかが鑑賞のポイントだ、と割り切るのは、結構難しい。

文字は、前から後ろに読むというメディアとしての特性がある。それが、論理というものの発達を支えてきたところもあるし、こうなって、こうなるから、こうである、といった人間の知性の在り方にも多大なる影響を与えてきたところである。そんな活字の性質も相まって、小説をストーリーの流れやメッセージ的なものと切り離して鑑賞するというのは、人間にとってあまり自然な事ではない。

しかも、前半がミステリー仕立てともいえる『熱帯』である。後半に、謎解きが来るのが当然と考えるところであろう。しかし、登美彦氏は、ぜんぜんそれをしなかった。いや、したのかも知れないが、結局はわかったようなわからないようなものになっている。

書き手は最初の読み手でもある。読んで、なんの話かわからんな、とか、意味が通ってないな、と思ったら、普通はわかりやすくなるまで書き直す。おれが普段書いている、こういうちょっとしたものであっても、ちゃんと流れているかどうかは気になるし、公開後であってもたまに読み返しておかしいと思ったら直している。それぐらい、作品の出来栄えと言うのは、PROであろうがなかろうが気になるものであるし、文章はできるだけわかりやすくしたい、と思うはずのものである。

しかも、商業書籍の場合には当然、編集者もいる。編集者はPROの読者として、作品がより多くの人に受け入れられるよう、その魅力を十二分に読者に伝えられるよう、仕事をしたはずである。その結果、よしわかった、多少難解であろうがこれで出版しよう、ええじゃないか!となったのではないか。

話がわからなかろうが、謎解き的な爽快感がなかろうが、書かれている文章の面白さや移り変わる場面場面の描写の出来栄えから、印象的に仕上がっている。それであれば、そういったものを味わうべき作品として出してみよう。『熱帯』はそういう意図で出された意欲的な作品なのではないだろうかとおれは勝手に想像する。

『夜は短し・・・』から、“キュートでポップ!”と“抱きしめたくなるラブストーリー!”を取ってみたらどうなるか。

“カラフルな奇想と、めくるめく展開。”

まさに『熱帯』だ。

スイーツを装った危険物からスイーツを取ったら危険物だけが残る。これを出版した勇気ある判断は讃えられるべきだ。これを怪作と言わずして、何を怪作と言うべきであろう。

前半のことはすっかり忘れているが、今回、特に印象深い後半だけをパラパラと読み返してみた。不思議なもので、目まぐるしく変わる場面も、わけのわからない展開も、話を追わなければ、案外すっと受け入れられるものである。物語の流れから離れて、個別のシーンとして、はたまた単なるテキストとして、そうやって鑑賞してみると、『熱帯』はなかなかの読みごたえを感じさせる。

繰り返しになるが、登美彦氏のテキストクリエイターとしての才能は、とんでもないものである。機会があれば『太陽と乙女』というエッセイ集を読んでみて欲しい。特に最近は、おれもテキストを作るということを生活の一部に取り入れているので、余計に自分との圧倒的な力量差を感じるところである。

テキスト芸術の代表である小説にも、物語を楽しむ以外の楽しみ方がある。表現の巧みさ、オシャレな言い回し、描かれたシーンのインパクト、そういうものを楽しむべき作品もある。こういう視点を持ってみることで、小説の楽しみ方を増やすことができる。そして、『熱帯』はぜひそういう見方で読んでみて欲しい作品である。

ところで、ようやくこれから本題の、どのように消費されるかというところに目を向けた場合、わからない作品は、明快で爽快な作品にはない強みがある、という話をする予定であったが、残念なことに今日も2500字とかになってしまった。したがって、今回もつづかざるを得ないのである。

後編とは言ったが、完結篇とは言っていない。そういうことだ。


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