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たまには『集落の教え100』を読んでなんかわかったような気になるのも悪くないだろう

■ずっと手元に置いていて、たまに開いてみたくなる本がある。原広司著『集落の教え100』はその一つだ。

■100の短い論考からなるこの本は、建築家、原広司が集落調査の旅などを通じて得た空間に関する考えをまとめたものだ。話は見開きに一つ。ページを開くと、そこに書かれていることを示すと思われる集落の写真が、ページの半分ぐらいの大きさで載せられており、残りの半分ぐらいに、その教えの内容を詳しく書いたと思われる論考が載せられている。

■つまり、最初から最後まで順番に話が展開していく本ではなく、いわばポエムのように、どこを開けても1ページで終わる何かが書かれている。そういう構成になっている。

■最初に手に取った時は、なんとなく世界の色んな集落の写真集みたいにも使えるし、パッと開いてたまに眺める程度でもよかろうと思って取り敢えず買ったものだ。文章は一目見て哲学的で難解だった。しかし、じっくり読めばそのうちなんかわかるかもしれないし、いつかこういうカッコいいことを言いたい、いずれこういう本を愛読する知的な大人になりたい、そういった気持ちもあったことだろう。とにかく、この本を購入することにした。1998年のことだ。

■この本はどういった時に読むのがふさわしいか、熟考した結果、常に便所においておくことにした(昔の話だ)。パッと開けてそのページをじっくり眺める。急いで読まない。そういうことに向いていると思ったからだ。

■結果、何年たっても、この本が便所ラインナップから消えることはなかった。全然読み終わらないからだ。正直に言うと、100の教えのうちたぶん半分も読んでないような気がする。実際、結構読んだのかもしれないが、サッパリ中身を覚えていないから同じだ。いつまでたっても、この難解な本からメッセージを読み取れるようにはなれなかった。

■その後、転居などを経て、便所に本が常備されることは無くなったが、やはり、何かしら未練がないわけではなかったのだろう、この本は今も書斎の本棚のちょっと目立つ、すぐ手に取れる場所に置かれている。

■この本は不思議な本だ。いつ開けてもそこに新鮮な世界を感じる。しかし、それがなんなのかはよくわからない。なにしろ、書いてある内容がよくわからないのだ。なるほど勉強になったなという感じは、みじんもない。いや、正確に言うと、ちょっとだけ自分が知的になったような気分には一瞬なる。しかし、それを説明せよと言われると無理だ。頭にも残っていない。よって、何回読んでも初めて読んだような気分になる。

■そうか、そういうことなのか。今回、年月を経て手に取ってみてふと思った。結局、この本に書かれていることは、言葉にするとよくわからない事なのだ。一見、論考のような体をしているので、余計に本質を見失う。ただ写真、すなわち集落の風景、もしくは部分を見て、そこから受けたインスピレーションを言葉に落としたものがある。それを見て、どういうことを思い浮かべるか、どういう感情が呼び起こされるか、それを楽しむものなのだ。何が述べられているかを問題にするのがそもそもの間違いだったのだろう。

■原広司の作品は関西人であれば結構身近で、スカイビルや京都駅ビルが大きな建築では有名だ。これらを見たことがあれば他の作品をみても、なるほど、と思うことだろう。

・ヤマトインターナショナル本社ビル

・京都駅ビルも久しぶりに見るとやっぱりいい

・スカイビルも改めてじっくりみてみると、すごく見ごたえがある格好をしている。

つくば市立竹園西小学校もいい。あまり写真がないが、広島市立基町高等学校というKUSOみたいにおしゃれな高校もあって、「君の名は。」の学校のモデルにもなっている。

■不思議なもので、これらの作品をみていると、そこから明らかに集落の教えを感じることができる。長年、わからんなと思いながら眺めてきた色んなページが、記憶の中から現れてくる。言葉にするとなんともつかみどころがないが、確かな感覚として、これに触れたことがある、という印象が呼び覚まされてくる。便所の日々は無駄ではなかったのかも知れない。

■原は、建築に様相論という考え方を取り入れた。これを論じたと思われる著書は読んだことがないので大したことは言えないが、ちょうどよさそうな解説を見つけたので紹介しておく。

これによると、原が目指したのは、近代的な機能主義を超えることだ。機能主義というのはたぶんこういう、レゴになるようなやつだ。

・ファンズワース邸

これはこれで徹底してミニマルでおしゃれだ。モダン・・・モダンだな。

・ミースの作品

シンプルで洗練されているが、しかし、それ故に明確であり、単純でもあり、つまらないと言えばつまらないとも言える。

■建築というのは物理、しかも物体であるので、そこに時間的変化や曖昧さを持ち込むのは難しいように思う。そこを、様相・・・表情、雰囲気、たたずまい・・・といったものを取り入れることで克服していく。どうやらそういうことを目指したらしい。

■この問題意識を理解して、改めて『集落の教え』に戻ると、また新たな発見がある。今まで何を言っているのかわからなかった言葉が、何かを言おうとしているようにも感じられてくる。

■自然発生的に生じた個々の建築の集まりである集落の形を参照して、一つの建築を作る。そうして、建築に集落や集落にある道や橋や中庭がもっていた機能、仕掛けを取り入れる。集落を部分に分けていたものが、一つの建築の中に納まる。

■そうやって作られた空間やその境界は、ミニマルに区切られた空間とは異なり、見る者によって異なる、なにかしらのグラデーションを伴って存在するものとなる。それが、ファジーな要素となって建築に複雑さ、面白さを加えてくれる。なるほど、集落の教えである。

■わからん、わからんと言ったが、もちろんそもそも不勉強というのはある。何より、自分がそれほど建築に明るくないということがあって、そもそも建物をデザインしようと思ったこともないので、問題意識のレべルが違いすぎる。

■すべてのデザインには意味がある。それは人が作るものである以上、必ずそうである。ただ、常にすべてが言語化されているわけでは無い。作り手が語らなければ、それはセンスという一言で済まされてしまうのかも知れない。ただ、言語化されるか否かは別として、より優れたものを目指して、作り手は膨大な知恵と思考とアイデアをもってクリエイションに臨んでいる。それは、誰にでもスッとわかるようなテキストで表現できるようなものでもないだろう。

■現代的なアーティストは、哲学や難解な思想を取り入れ、それを創作に活かし、その意図を語る。そういったことがある以上、実務家が、実務にアートを組み込むこともまた可能であろう。時としてそれは言語によって扱うのが難しいようなインスピレーションであるかも知れない。しかし、グラフィカルなものや空間を作品としてそのまま味わうことを通じて、不完全であってもいくらか取り入れることはできるだろう。

■ましてや、ちょっと足を延ばせばいける場所に建築があり。それを作った者の残した100の言葉がある。これが参考にならないわけがない。『集落の教え100』はきっとそんな最高のテキストだ。なにより、集落を旅することからこれほど多くのことを学べるということを教えてくれる。

■そうカタく信じて、また手の届くところに置いておこうと思う。わからないが、きっとこの本を読んだ経験は自分の中に残っていて、何らか自分の行動や思考に影響を与えているだろうし、また違った作品をみたときに、それをより深く味わうすべを与えてくれるような気がする。一冊はそんな本を持っていてもいいだろう。そんな気分になるだけでも十分だ。

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