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「わたしらしさ」が、疲労社会を息苦しくする

寝そべり族、何もしない、疲労社会。これらのキーワードたちは、現代社会を表すと同時に、自分の実感がひどく表れている。そして、書籍「疲労社会」を読んだ後に現実の生活へ目を移すと、重なる部分がとても多い。

作者のビョンチョル・ハンはこの息苦しさを端的に説明している。

能力の主体としての現代人は、自分自身を虐げ、自分自身と戦っている。彼は自分が自由であると思い込んでいるが、じつはプロメテウスのように鎖につながれている。プロメテウスの繰り返し生えてくる肝を食らう大鷲は、この場合、自分が戦っているもうひとりの自分を表している。こう考えると、プロメテウスと大鷲との関係は、ひとつの自己関係、すなわち自己搾取の関係ということになる。(大鷲に食われても、)プロメテウスの肝それ自体に痛みはない。だが、(食われてはまた生えてきて、また食われることを繰り返すことで、)そこには疲労という痛みが伴われる。自己搾取の主体としてのプロメテウスは、終わることのない疲労に襲われている。彼は疲労社会の原型なのである。

「永遠の自己搾取」という言葉に、誰しも思い当たる部分があるのではないだろうか。本書を読み進めて行くと、自分のなかに経営者と奴隷が内在しており、自分の内側で戦い続けるという現代像が浮かび上がってくる。この自閉性が、コロナにの自粛運動によってさらに過剰分泌しやすい状況になっている。

そして自閉性を高める要因がもうひとつ思い浮かんだ。それは「わたしらしく」「自分のために」というキャッチコピーの流行だ。昨年から現在にかけて街なかで見かけることがとても多い。なぜその広告で「わたしらしさ」を持ち出さなくてはならないなのか、前提が特に示されていないため雑に流行っているように見える。

疲労社会で、ましてコロナ禍という状況で自分と向き合うのはとても苦しいことだ。制限のある環境でストレスもたまり、「わたしらしいわたし」にならなければと強迫観念がかきたて、必死にセルフケアや独学を始める。いや、その前にわたしらしさはなんだろうと内側を掘り下げたときに、立派なアイデンティティや何かへの強い思いなどたいそうなものが見つからなかったことに傷つくだろう。そんな現実を無視して広告は「わたしらしく」「わたしのために」と迫ってくる。

(流行の背景としては、女性が押し付けられた固定概念から解放されることを願って主体復権の呼びかけに使われているのだと思うが、もうとっくにそのフェーズはすぎていい気がする。逆に、まだそこにいることにガッカリだ)

時代遅れの言葉には付き合わず、外へと目をむけ、楽な方に流れていきたい。自分なんか消えてしまった方が楽だ。個性ある服を着て周りから評価されるよりも、制服を着た方が楽だ。

今はメンタルヘルスの時代で、誰もがうつ病に片足を突っ込んでいる状態だ。もしあなたが何かに苦しんでいるのなら、その言葉には耳を貸さなくてもいいと伝えたい。うざいか。うざかったらわたしの言葉も無視していい。

楽に精神を保つことが一番です。

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